オダロードルの憧憬

オダロードルの憧憬

※注意※死ネタ,猟奇的描写,捏造有

 研究所のほうから、やけに騒がしい声がする。普段であれば、研究所にいる人々がせわしなく動き回り、”耕運機”と呼ばれる機械兵器の開発に勤しんでいてどちらかといえば静かな場所であるはずだ。しかしながら、今日はどうやら雰囲気が違うらしい。その喧騒に耳をすませてみると、乱闘騒ぎや技術者同士のもめごとをしている声ではないようであった。むしろ、人々の声は祝福の気持ちが滲んでいる。己がその場に歩み寄ると、群衆は一瞬だけピタリと静まり返った。祝福の雰囲気の中に冷水を掛けてしまったようで、ほんの少しだけ申し訳なくなった。しかしその群衆のうちのひとりは、己の姿を見た後すぐに、「宮廷騎士どの!」と明るい顔で声をかけてきた。

「これは何の騒ぎだ」

そう、賑わっていた人々の群れにそう声をかけた。己に声をかけてきた群衆のうちのひとりは、そう言う己に対して「喜ばしいことが起きたんですよ」と言った。耕運機の開発が少しでも前に進んだのか、それであればたしかに喜ばしいことだと思う。「そうか」そう返事をして、組み立て途中の耕運機のほうを見る。己の目には、耕運機が完成しているようには見えないが……そう思っていると、男がうれしそうな顔で口を開いた。

「やっとマチルダの婚約が決まったんです」
「マチルダ?」

マチルダという男が誰なのか、己にはわからなかった。それが顔に出ていたのか、彼はマチルダという男を、群衆の中から引っ張り出してきた。研究所で作業員をやっているのか、少し薄汚れた衣服を着ている、少し長めの金髪と、まっすぐとした芯の強そうな視線が特徴的な男であった。「マチルダとは僕のことです、宮廷騎士どの」と彼は人好きのする笑みを浮かべながら言った。

「この雰囲気の中に水を差してすまなかった。婚約おめでとう」
「宮廷騎士どの直々にそう言われると恥ずかしいですね。ありがとうございます」

マチルダはそう言って照れくさそうに、人好きのする笑みを浮かべたのちに、頭を下げた。「本当におめでたい話だよなあ、──さんと婚約するなんて」そう、マチルダに絡む男が言った。その女の名前は、己のよく知る名前であった。カーンルイアという国の機械技術を支える技術者の一人で、技術者の中でもかなり優秀な人であり、この耕運機の基礎設計を行ったのもその女であった。そして彼女とはそれ以前から、友人でもあった。彼女とは、賑わう街中から裏手に入ったところにある、客のほとんど来ない静かな酒場でよく顔を合わせていた。「あら、どなたかと思えばダインスレイヴさまではないですか。今日もいい夜ですね」と、バーテンダーへの挨拶をほどほどにした後、彼女は己に話しかけてきたのちに、己の座るカウンター席の隣に腰を下ろすのが常であった。彼女と会うたびに、研究所のちょっとした話を聞くこともあれば、こちらの話をすることもあった。仕事の話ばかりではなく、個人的な友人関係の話をすることも多々あったのであるが、彼女の口から婚約の話を聞いたことは今まで一度もなかった。マチルダという男との婚約の話は、己にとっては寝耳に水であった。あれだけ話をしているのだから、婚約の話をしてくれなかったのは水臭いではないかという気持ちと、それはそれとして別に己にその話をする必要もないかという気持ちの狭間で揺れていた。それも当然か、彼女は酒場で顔を合わせて時折一緒に場を共有する仲ではあったものの、それ以上もそれ以下でもない。「宮廷騎士どの」そう、側近から声をかけられて咳払いをした。祝いの雰囲気の漂っていたこの場の空気がしんと静まり返る。まるで、冷や水をかけられたかのようであった(冷や水をかけたのは己である)。「改めて、婚約おめでとう、それから盛り上がるのも程々に」そう言ったのちに踵を返した。「ありがとうございます」そのお礼の言葉を背に聴きながら、己は元の持ち場に戻った。今度彼女に会った時に祝いの言葉を述べるべきか、それとも彼女がその話をしてくるまで待つべきか。少しだけ考えた後、このまま考えていてもしょうがないと思い、黙って首を横に振った。

 「あら、ダインスレイヴさま。いい夜ですね」そう、よく知った女が話しかけてきたのは、己が婚約の話を聞いたその日の晩、くだんの酒場に出かけた時のことである。すでに客は己以外誰もいなかった。そもそも、この酒場に客が来ることはめったにないのだ。己の知る限り、この店に居た客というのは己だけであるあった。物静かなバーテンダーは「いらっしゃい」と店の扉から入ってきた女に言った。女はまっすぐ己の座るカウンター席の隣に腰を下ろした。そして、バーテンダーに「ダインスレイヴさまと同じものをください」と言った。己が飲んでいたのは、酒ではなく酔いを覚ますための水であった。そのせいか、バーテンダーは静かに、己の目の前に置かれている水のボトルを指さした。女は目を丸くして、「もう酔い覚ましですか?いつもならまだ飲んでいるじゃない」と至極つまらなそうな顔をして言った。夜はとうに更け、日付も変わり切った後である。彼女が今この時間にこの店を訪れていることのほうがおかしいのだ。それをそのまま指摘すると、彼女はカラカラと笑った。

「それを言ったら、ダインスレイヴさまも同じではないですか」

確かに、お互いさまではある。女が水の入ったグラスに口をつけているのを、ただ眺めていた。やさしい色をした、女によく似合うルージュの色がグラスに色づいた。白い女の喉が震える。グラスに入った水が、この女の喉を通ってゆっくりと腹の中へと流れてゆくのだ。女は己の視線に気づいたのか、「どうしました、ダインスレイヴさま」と言って笑っていた。──婚約したのか。その話をこの場で切り出すべきなのか迷っていた。女におめでとうと、祝福の言葉を言うべきだと思ったのであるが、女は己に婚約に関する話を少しもしていないのである。だから、女から打ち明けられたときに言った方がよいのか、それとも──そう悩んだ後で、脳裏にずっと引っかかっている感覚があった。この女が婚約の話も、恋人の話も己に話さなかったことである。婚約の話を知るのであればこの女の口から知りたかった。しかしながら、マチルダという男からその話を聞いた時点でもうそれは叶わぬ願いになってしまったのであるが……そう考えて、何故この女にそこまでのことを望んでいるのかと考えた後で、考えるのをやめた。考えるだけ無駄で、くだらない話である。「そういえば──」考えたところでどうにもならないだろう。いろいろと考えたものの、あちらが話してこなかっただけなのだから、こちらから切り出しても問題ないかと開き直った。

「何かありましたか?」
「俺に話していないことがあるだろう」

そう己が言うと、彼女はよくわかっていなさそうな顔をして、小首を傾げていた。その女の様子にため息をついて、「……婚約」その言葉を口に出すと、彼女は思い出したような顔をした。

「ご存じだったのですね」
「偶然聞いただけだ」
「そうでしたか。みんな騒ぎ過ぎなんですよ。そこまで騒ぎ立てることじゃないのに……」

女は困ったように笑っていた。「別に、ダインスレイヴさまに黙っていたわけではないんですよ」そう、女は言い訳をするように言った。「ダインスレイヴさまはあまりこういった、その……恋愛の話などはあまり興味がないと思って言っていなかったんです」女はそういって照れくさそうな顔をしていた。その顔が、マチルダという男に婚約祝いの言葉を贈った時の様子になんとなく似ていると思った。己は婚約の話のような祝いの話をしないほうがいい人間だと思われていたことに、思った以上にショックを受けていた。友人であるのだから、友人の幸福を祝いたいという気持ち自体を否定されてしまったような気分になってしまったのだ。しかしながら、彼女の言うことも最もで、己がその話を聞かずともよいはずであるのにも関わらず、この女ひとりの婚約の話ひとつにこんなにも衝撃を受けている自分自身にも驚いていた。酒場で出会う女しか知らないはずなのに、己はこの女とそれなりに仲良くしていると勝手に勘違いしていたのだ。様々な考えが脳にめぐる。最終的にはこの女に、別の男がいたという事実そのものに腹が立ちそうになった後で、考えるのをやめた。まるでこの女のことを自分が一番よく知っていて、この女にふさわしいのは自分であるといわんばかりではないか。そのようなどうしようもないことを考えていることをこの目の前の女に悟らせるわけには行かなかった。あくまで平静を装う。酔い覚ましのための水などもういらないほどに、すっかり酔いはさめていた。

「婚約、あまり実感がないのです」
「実感?」
「はい」
「彼のことは確かに愛しています。婚約の話も嬉しかったんです。幸せの真っ只中にいるはずなのにあまりその実感がありません……いつまでも幸せな状態で居続けているような、不思議な気持ちです。まるで夢のよう」

地面に足がつかないような、ふわふわとした状況をダインスレイヴさまは想像できますか?──そう女は己に問うた。しかし、そのような気分というものがあまり想像できなかったので、「……俺には分からんが」と答えると「ダインスレイヴさまは真面目な人ですからね」と言われてしまった。真面目であれば浮かれることはないのだろうかとぼんやり考えたが、それも無駄なことだったので考えるのをやめた。水の入ったグラスから目を離し、ふと女の横顔を盗み見る。女は少し遠くの空を眺めるような顔をした後で、「これが幸せというものかしら、ねえ、ダインスレイヴさま」そう言って目を伏せた。「……」この女の幸福がどのような形をしているのか、己には想像ができなかったので、彼女の問いに答えることができなかった。お前がそう思うのであればそうなのではないか──そう言うのは簡単な話である。今のこの女は幸福の形を探しているのか、それとも今の状態が一番幸せであると肯定してほしいのか、そのどちらかを考えたところで、この女の問いに返事をするのは難しいことであった。

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 夢というものは、いずれ終わりが訪れる。夜眠りにつき、朝日が昇り、目が覚めると同時に現実に引き戻され、夢の世界から現実の世界へと帰ってきてしまう。眠りについている間に見た幸福な夢のことを想い、現実であればと焦がれることもあるだろう。幸福な夢を見ていたはずの女の夢は、唐突に終わりを告げた。結婚式が行われる三日前の晩、研究所では”耕運機”の起動実験を行っていた。今までに存在しない自律兵器、これが出来ればこの国の力はますます強くなるだろう。研究所の人間たちの夢を詰め込んだ、この自律兵器の起動実験の担当を行っていたのが、マチルダという男であった。「それでは、開始します。三──二──……」カウントがゼロを迎えた時に、”耕運機”は轟音と共にこの世界に二本の足で立ち上がった。研究所の中から歓声が上がる。その起動実験に立ち会っていた女も、思わず歓喜の声を上げた。自分たちの設計したこの”耕運機”が、数々の試行錯誤の末にようやく動き出したのだ。この機械兵器を動かすという最初の実験は正しく”成功”していた。それから、その”耕運機”が一歩を踏み出したとき──事故は起きてしまった。”耕運機”はマチルダの方向へと歩き出し、彼をその巨大な足で踏みつぶしたのである。先ほどまで歓声が上がっていたはずの研究室がしんと静まりかえった後、女の叫び声が響いた。慟哭。あまりに悲痛な叫び声はこの研究室に居た人間すべての目を覚まさせるのに十分であった。”耕運機”を停止させたのちに、耕運機の足を持ち上げる。しかしながら、マチルダという男は、断末魔の声を上げる間もなく、潰れてこの世からすでに去っていった後であった。女も含め、一世一代、この研究にすべてを賭していた者たちがこの場には集まっていたが、結果はあまりにも無情であった。悲しい事故であったと誰もが言った。すっかり憔悴しきった女は、黙り込んだまま何も言わなくなってしまった。女らが設計した”耕運機”に何らかの誤りがあったのか、それとも──女は黙って首を横に振ったまま、何も言わなくなってしまった。”耕運機”が婚約者の男を殺し、その耕運機を作ったのが女なのであるから、マチルダを殺したのは女であると思うのは仕方のないことである。女が悲痛な声を上げるが、誰も女に対してかける言葉を持たなかった。この女を慰められる人間などこの場には誰一人いなかったのである。
 次の日、事故の調査に様々な人間が集まっていた。己もそのうちの一人であった。婚約者を失った女の姿を見る人々の目はどれも憐みを含んだものであったが、女は普段とあまり変わりないように見えた。マチルダを失ったことで立ち直れないかもしれないと思ったが、杞憂だったようである。むしろ、彼女の振る舞いは、婚約者を失ったという事情を知らない人間からは全く悟ることができないほどに、あまりにも普段通りであった。研究室に所属している人間が、事故の原因の調査結果を発表した。機械兵器の設計に誤りはなかったが、操縦士の操作誤りで事故が起きたというのがその結論であった。その結論というものが、優秀な設計者である女を守るための方便であるのかまではこちらで判断することはできなかった。「……ご愁傷様」女にかけることができた言葉は、ほんのその一言である。女は己の言葉を聞いて、何が起きたのかよくわからないとでも言いたげな顔をしていた。

「……お前は婚約者をなくしただろう」
「婚約者?何を言っているんですか」
「今回の事故の犠牲者は……」
「マチルダなら今日はゆっくりしていますよ。休みを取って出かけているんです」
「事故の後なのに?」
「彼にもいろいろあるんです。あまり彼のことを悪く言わないでください」

女はそう言って踵を返した。周りの人間は、彼女を痛ましいものを見るような目で見ている。「あれは?」そう、この場にいる技術者にそれを問うた。すると、彼は目を伏せた後で、「彼女、おかしくなってしまったんです」と言った。

「おかしくなった?」
「ええ。彼女は婚約者がまだ生きてると思っているんです。今回の事故で亡くなった人が一人いるということは知っていますが、それが婚約者であるとは決して認めないのです」
「彼女が?」
「ええ。書類にも婚約者の名前が書かれています。でも彼女はそれを見て、『彼と同じ名前だわ』と言って痛ましい顔をしているばかりでした」
「……」

もう、彼女はダメになってしまったんです。そう彼は言った。婚約者を失った深い悲しみでその事故のことすらも忘れてしまうのは仕方がないことなのかもしれない。いずれ時が経てば、その悲しみも癒えるだろうとも。しかしながら、その時の己の考えが浅はかだったことをいずれ知ることになる。



 女の様子を見に行った技術者たちがそろって首を横に振っているのを見た後で、この女に、友人として何かできることがあればと思い、様子を見に行った。己が研究所に顔を出すと、技術者たちは背筋をピンと伸ばし「宮廷騎士どの」と言って挨拶をするので「友人の様子を見に来ただけだ」と言った。その友人というのがあの女を指していることを、この研究所の人間たちにはとうに知れた後であったため、彼らは「あそこにいますよ」と言ったのちに、彼らはその部屋を困ったような顔をして見つめていた。その部屋の中に女はひとりで居た。「──」彼女の名前を呼んで部屋に入ると、女は己の方を向いて、ぱっと顔を輝かせた。この女のそのような表情を今まで見たことがなかったので、少しばかり驚いていた。「おかえりなさい、帰ってきたのですね」そう女が言った。「……」女の言う”帰ってきた”という言葉の意味がさっぱり分からなかったので黙って女を見ていると、女は己のほうに飛びついてきた。酒で泥酔したときでさえそんな姿を一度たりとも見せたことがなかったこの女が、である。「わたし、待ってたんですよ。みんなもあなたのことを心配していたんですから」そう女は言った。

「少しは息抜きができたかしら。また”耕運機”のこともやらなければならないし、今度は成功させなくちゃ」
「何の話だ」
「いやね、旅に出ている間にわたしの顔を忘れてしまったの?マチルダ」
「……」

女は己の顔を見て”マチルダ”と言った。この女は己の姿に、死んだ婚約者の姿を重ねているのだ。この女の中でマチルダという男は、息抜きの旅に出ていることになっていたことを思い出した。「……俺はマチルダではない」そう、目の前の女に説くように言ったのであるが、女は小首をかしげるばかりである。「……きれいな金髪にきれいな色の目、あなたはマチルダに違いないわ」しかしながら、女は己のことをマチルダだと言って聞かなかった。女に断りを入れて、一度この部屋の外に出る。近くに居た技術者を捕まえて、現状の女の話を聞くことにした。彼は「やはり、宮廷騎士どの”も”ですか」と言った。彼が言うには、あの女は金髪の男を見かけるたびにマチルダと呼んでいるらしい。マチルダではないと言えばそんなことはないと言って全く聞き入れてくれないのだという。

「みんな手を焼いているんです。優秀な人ですし、彼女はいろいろな機密をもっていますから、処遇に困っているのです」
「今はどうしているんだ」
「あの部屋の中に入れておくことしかできません。紙とペンを用意しておけば勝手に”耕運機”の設計をしていますから、今はそうすることしかできないのです」

そう言って彼は黙り込んでしまった。「わかった。時々様子を見に来よう」そう言うと、彼は少しほっとしたような顔をしていた。再び、女のいる居室の中に入る。狭い部屋の机の上に大きな紙とペンがある。女はペンを走らせて”耕運機”のことを考えているようであった。そして、その女が己が戻ってきたのを見ると、「マチルダ」と言って嬉しそうに顔を綻ばせた。もう、マチルダではないと否定したところで彼女が聞かないことは明らかであったので、訂正をするのをあきらめてしまった。彼女は設計書に線を引きながら口を開いた。

「わたしは天啓を受けたのです。でも、この話をするとみんな、どこかに行ってしまうの」
「天啓?」
「この国の人には足りないものがあるのです、と」
「何が足りないと?」
「この国の人に足りないものは信仰です」
「信仰?」
「ええ。神に対する祈りです」

そう彼女ははっきりといった。カーンルイアという国に神というものはいない。この国の発展はすべて人の手によって作られて来たものであり、神という得体のしれないものの力を一切使っていないということはこの国の人間たちの誇りでもあった。だから、己らは神に対する信仰などはしていない。いない神に対して何を祈るというのか。そう彼女に言うと、彼女は黙って首を横に振った。

「この間の事故だって、神に祈っていれば何かが変わっていたかもしれません」
「事故の原因は明らかになっている。そこに神の有無は関係ないはずだが」
「信仰が足りないから罰が下っただけです。人々の信仰がないから」
「……」

その話をすると皆わたしから離れて行ってしまいました。女はさみしそうに言った。当たり前の話だ、この国で神の話をしようものなら皆が皆鼻で笑うに決まっている。神という不確かな存在など信仰に値せず、己らは己らの力で今まですべてを切り開いてきたのだから当然の話である。むしろ、神というものが仮にいたとしても、それすらも人間の力で凌駕できると思っている人のほうが多くてもおかしくないはずだ。そのような状況で神を信仰しろと言い出した女は、事故のこともあり頭が完全におかしくなってしまったのだと言われても仕方がない。女が婚約者を失ったせいでこうなってしまったという経緯があり、不幸にも女が優秀な人間であったからこそ、周りの人は女を憐れみの目で見ていたのである。しかしながら、女が信仰の話をしだしたときに、周りの人間たちは耐えられなくなって離れて行ってしまった。もうこの女は完全に狂ってしまったのだと誰もがそう思った。だから、女と極力会うことがないように、この狂った女が他の誰かの目に触れずとも済むようにと、この狭い部屋の中に入れて自分たちの視界から無理やり外に追いやることしかできなかったのだ。「ねえ、あなたもわたしと同じことを考えてくれているわよね」そう、女は己に縋りついてきた。「……」女の言葉の回答は否である。しばらく黙り込んだのち、返事をしようとしたが、叶わなかった。

「わたしにはもうあなたしかいないみたい」

 「ねえマチルダ」女はそう、己に話しかける。まるで、愛する男にそう話しかけるように、己の手を取り、指先を優しく絡めた。「みんな、わたしのことを狂ったと言うわ、誰も彼もが」そう女は言った。自分自身が鼻つまみ者になっていることを、この女は自覚しているようであった。この女は、己のことをマチルダと呼ぶが、己の名前はマチルダではない。彼との共通点といえば彼と同じ金髪と、同じ目の色をしているということだけである。「……みんな、わたしから離れていくのよ」女は目を伏せた後、さみしそうにつぶやいた。この女のそばにいるのは、もう己という人間ひとりだけなのだと、そうこの女は言っている。しかしながら、この女は己をダインスレイヴという人間ではなく、マチルダとして見ているだけであり、マチルダという男はもうこの世には居ない。マチルダという男はこの女にだけには優しかったのか。そうふと考えたがそれも、この女の都合のいいマチルダという男を見ているだけだという可能性もある。

「ねえマチルダ、わたしはあなたに神を信仰するように言ったわ。でもあなたも信仰してくれないのね」

女は至極残念そうな顔をして言った。「ああ」そう、己は女の問いに答えた。マチルダという男であるならば、女と共に祈っていた可能性があったかもしれないが、己はマチルダではないのだから彼と同じ振る舞いをする必要はないのだ。そもそも、己はマチルダという男のことをよく知らないため、ふるまいようがないのであるが──女は目を伏せたあとに、「でも、あなたはわたしと一緒にいてくれるのね、彼らみたいにわたしから離れて行ったりしない」そうくすくすと笑った。女のしなやかな指が己の指に絡み、優しく握られる。己は絡めとられた手をぼんやりと眺めた後で、女の手を握った。彼女は目を丸くしたあと、顔を綻ばせた。「ええ、やっぱりマチルダ、あなただけはわたしと一緒にいてくれるのね」そう、女はそう己に問うてきたが、その問いには答えられなかった。女と一緒にいてやりたい、その気持ちが同情からきているものなのか、純粋に女に対して想っている親愛の気持ちから来ているものなのかはわからない。しかしながら、その問いに答えてしまえば、己はダインスレイヴとしてではなく、マチルダとしてこの女の前にあらねばならなくなってしまうからだ。女はくすくすと笑った後で「照れ屋のマチルダ」と言った。己が何も言わないことを、照れているのだと女はそう勝手に都合よく解釈したのだ。婚約者が死んで壊れてしまった悲しい女を眺めた後で、本当に神様というものがいるのであれば、そもそもこの女はこんなにも深い悲しみを背負うことなどなかったのだろうと思う。本当にいるのであれば、女がこうなる前に救われていたはずなのだ。そういったところで、女はきっと聞く耳を持たないだろう。信仰をしなかったからこうなってしまったのだと言われてしまえばこちらから何も言うことはできないのである。女は来る日も来る日も神というものに対して祈りをささげていた。その行為が不毛なものであり、奇行そのものであったのだが、女からそれを取りあげることはできなかった。その”祈り”という奇行自体が、もうこの女の中の救いになっていたからである。それすらも取り上げてしまえば、この女はもっと無残なものになってしまうことを想像せずとも明らかであった。己の名前を「マチルダ」と呼ぶこの女について、人々は悲しみの目を向けることもあれば、目をそらすこともあった。そして、己がその行為をよしとしていることについて、憐みの目を向けてくる部下たちもいた。「もういいんです、こんな人放っておいても……」そう言う人間もたしかに、いた。しかしながら、女とのこれまでの関係があったせいか、この女をそのままひとり放っておくこともできなかった。この女がなまじ優秀な技術者であったせいで、己がこの女の介抱をしているのだと思っている人間も、たしかにいた。しかしながら、己がこの女に対して優しくしている理由というのは、そのような体裁を整えるためだけの理由だけではなかった。己は友人であるこの女に、心の底から同情していたのだ。

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 国が、業火に包まれる。豊かであったはずのカーンルイアの国土が、赤黒い大地へと変わり果てて行こうとしている。目の前に広がる赤黒い世界、それをどのような言葉で形容するのが正しいのか、わからなかった。全てを焼き尽くす脅威なる力、黒土の術がこの国を包み込み、この国の人々はそれらに飲み込まれていってしまった。この国に住まう人々が、人の姿をしていたはずの民たちが異形の魔物に姿を変えられてゆく。仮面をかぶった異形の魔物に変わり、この国の衛兵たちは魔術師や使徒という魔物へと姿を変えられてしまった。一人でも助けられるように、この国を守るために──そう思いながら最後まで武器を振るっていたが力は及ばなかった。己の姿こそ魔物に姿を変えられはしなかったものの、この国の王室を守れなかった罰として、不死の呪いをかけられてしまった。己の無力を思い知らせるかのように、”呪い”は己のことをせせら笑い、すべてを飲み込んでいった。目の前に広がるのはその末路である。「ほかに生きている者は……」そう、あたりを見渡した時に、うずくまっている人の姿が見えた。かつて、”耕運機”の開発を行っていた研究所があった場所である。ここも、呪いにすべてを食い尽くされ、建物は崩壊していた。赤黒い瓦礫の間に、”それ”は居たのだ。「生きている人間は……」そちらに走って歩み寄り、人の背に向かって手を伸ばす。肩に触れると、”それ”はこちらに振り向いた。あの女だった。赤黒い業火に焼かれる国を見た女は、崩壊する国の様子を見ながらも「神は……」とうわごとのようにつぶやいた。この世界にお前のいう、神が存在するのであればこのような目には遭っていないと、そう大きな声で言ってやりたかった。

「……神は、居なかったのですね」
「そうだ」

神など初めからいなかったのだと、そう女に言った。日々祈りをささげて居たのにも関わらず、結局はこうして強大な力によって蹂躙されてゆく。その様子さえ見れば、神に夢を見ていた女であれ、いい加減目が覚めるだろうと思ったのだ。”神は居ない”──女の口からその言葉を聞いたとき、女が、このような状況でようやく正気を取り戻したのだ。もっと別の場所であれば良かったのにと願わずにはいられなかった。女はゆっくりと立ち上がり、赤黒く燃える大地を見た。そして、女が先ほどまで居たと思われる研究所の無残な姿を眺めている。研究所の、かつて人間だったものたちが、魔物へと姿を変え、隊列を成してどこかへと歩いてゆく。

「あれは……」
「この施設の人間だろうな」
「あれは人間ではありません」
「そうだ。皆、魔物に姿を変えられてしまった。呪いの力で」

女は目を伏せた。赤黒く燃える大地を眺めたのちに、彼女は「いずれわたしもあの呪いに飲まれて、魔物になってしまうのですか」とすべてをあきらめたような顔をして言った。「……」己が答えずにいると、女は「いいんです。正しい答えを持っているとき以外、あなたは質問に答えないでしょう」と言った。「ダインスレイヴさま」そう女はようやく、己の名前を呼んだ。今までマチルダと己のことを婚約者の男の名前で呼んでいたこの女が、やっと己の方を向いたのだ。夢におぼれていた女がようやく目を覚ました──その事実だけで胸が熱くなった。今まで己の方を見向きもしなかったこの女が、己のことを名前で呼び、その二つの目でまっすぐ己のことを見ている。それがどれほど喜ばしいことか、この女には全く想像できないだろう。「……ああ」彼女の呼びかけに、己は平静を装って答えた。このような状況で、かつてこの女の言っていた、地に足のつかない浮遊感の伴う幸福というものを、今心の底から味わっている。

「……お願いがあります、一生のお願いです」

女はそう、震える声で言った。一生を賭してまで願う望みというものは何なのか。

「……それは、俺に出来ることなのか」
「今のあなたにしかお願いできないことで、きっとあなたならばやってくれると思います」

女はそう言ってしばらく黙り込んだ後、口を開いた。

「わたしが魔物になってしまう前に、殺してください。あの魔物になって生きるくらいならば、今この姿のまま死にたい」

女は震える声で言った。死ぬことを望んではいるものの死ぬことが怖いのだろう。女を呪いから守ってやると、心配するなと言うことができるのであればよかった。しかしながら、その不確かな約束はできずにいた。王朝すら守れなかった末光の剣にできることといえば、今この女の望みをかなえてやることくらいだろう。この女が呪いを受けずに生き残る方法を考えたが、さっぱり思いつかなかった。女はまだ人の身体を維持しているというだけの話で、呪いそのものにはすでに犯されているのである。それらを考えたのちに、今の己にできることといえば、女の言う通り、この女の望みを叶えることだけである。女と一緒にいるうちにこの女に愛着が湧いていたのも確かであった。しかしながら、それは所詮己の勝手な思いであり女には全く関係のないことである。始まりは単純な同情からだったかもしれない。いや、それよりも前からこの女には悪くない思いは確かにあった。好いた女に今の己が唯一できること、それはこの女の望みを叶えることであり、それは愛した人間を自分の手にかけると言う意味でもある。武器を抜き、女の心臓をひと突きしてやれば一番早く済むのだと言うことはわかっていた。しかしながら、己はできるだけこの女の肉体に傷を残さず綺麗なままでいて欲しいと願ってしまった。あくまで、それは己の自己中心的な考えに違いないのであるが、女の肢体を赤黒い血で汚したくなかったのだ。女が魔物に姿を変えられてまで生きたくないと願うのだから、血を撒き散らして死にたくないという思いは、この女にもきっとあるはずだと言い聞かせていた。

「お願い、ダインスレイヴさま」
「……分かった」

一息ついた後、女の白い首に触れた。両手で女の首に指で触れた瞬間、女の身体が震えた。やはり、この女は死ぬことが怖いのだ。死を望みながら、死を恐れるのは矛盾して居るように思うが死という誰もが経験したことのない現象に立ち向かうのだから怖いのは仕方がないことである。「……」大丈夫だとも、怖くないとも声をかけることはできなかった。死というものを知らない己に掛けることのできる気休めの言葉など少しも意味がないからだ。首筋に触れ力を入れる前に、女が口を開いた。

「こんなことをさせてごめんなさい……ありがとう、ダインスレイヴさま」

この女が最期に見る顔が、女の愛した男でなく勝手にこの女を好いている男であったのは不幸だろうと思った。しかしながら、己は幸福に打ち震えていた。この女が最後の最後で縋った相手が己であったという歓喜──この女を今から殺すと言うのに、そんな感情を抱いていたのだ。震える女の喉すら愛おしい。このまま時が止まってくれればよいのにと願ってしまった。この状況で、この世界にいるのが己とこの女の二人だけだと勘違いさせてほしいとさえ思った。しかしながらその望みは、残念ながら叶うことはなかった。女の指先が少しずつ魔物に変わろうとしていた。もう時間がない。別れの言葉を言う時間すらないのだ。思い切り、女の首に触れる指先に手に力を入れた。女の身体が強張り、苦しそうな表情を浮かべている。早くに殺してやらなければと、気管を潰し、首を締め上げた。女はしばらく苦しそうな顔をしていたが、全てを諦めたような顔をしたあと気持ち穏やかな表情を浮かべて逝った。この女の不幸な夢も、女の死をもってようやく終わったのだ。人の形を保ったまま、女は還っていったのだ。残された己に残ったのは、愛した女を失ってしまったという悲しみと、女を殺してしまったという罪悪感が一抹、それから女に最期に己の目を見て、己の名前を呼んで縋られたということの喜び──それらが入り混じった感情だけである。それが心臓を動かし、己の体温を上げるのだ。この状況で、己はひどく興奮していた。愛した女を殺しておきながら、だ。このような感情を抱くのは、己も黒土の呪いを受けたからなのだろうか。でなければこのような邪な感情を抱くことはなかったのかもしれない。

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 「なあ、ダイン」そう、己の名前を呼ぶ声がする。空気は澄み、心地の良い風が吹いていた。「……」旅人と共にいる白い小さな空を飛ぶ生き物、それは己の顔を覗き込み「大丈夫か」と問うた。「……ああ」そう答えると、それは胸を撫で下ろし、「心配したぞ」と言う。心配されるほどのことを己はしたのか、それは申し訳なかった。そう思いながらそちらを見ると、その生き物は「ダインがぼーっとしてたから、何か心配事でもあるのかと思ったぞ」と言った。朗らかに笑いながら言うその生き物は、胸を張って「何かあるなら言ってくれよな」と言った。まったく、頼り甲斐のない生き物であったが、今はその心遣いが優しかった。ふと、空を仰ぎ見る。青い空は遥かどこまでも続いていて、どこまでも澄んでいた。大地の果てには七天神像が静かに鎮座している。それが視界に入った時、何ともいえない不快感が押し寄せてきた。神というものの存在だけでなく、今懐にある耕運機の眼の存在が、あの日殺した、愛した女のことをつい先日の出来事のように思い出させるのだ。神を信じた女が神に裏切られ、己の名を呼び縋り付いてきた、あの時のことだ。そして、その日に抱いた、抱いてはならなかった感情のことも──「ダイン」白い生き物が、己の名を呼びふわふわと漂いながら、視界に入っていた七天神像を遮った。黒い二つのまなこが、己の目を心配そうに眺めている。「何でもない。考え事をしていただけだ」そう答えると、それはほっと胸を撫で下ろしていた。「困ってるならオイラを頼ってもいいんだぞ」それはそう胸を張って言った。愛した女と己の話をもし誰かにできるのであれば、よかった。しかしながら、この話は誰にも言うことはできないだろう。「気持ちは受け取っておく」そう答えると、それは不満そうな顔をして怒り出したが、無視した。再び、七天神像の方を仰ぎ見る。それは己の感情は何一つ知らぬまま、静かにそこに鎮座していた。