小説

十二月九日:塩の偏ったおにぎりを食べる日の話

 週の半ばの今日に限って残業をしなければならないとは、本当についていないと思う。人の多いバスに揺られ、冷たい北風の吹く道路を、肩を窄めながら歩いて家に帰る。家の窓からは明かりが漏れ、ドアの鍵も開いていた。もう倫太郎が家にいるのだろうと思って、ドアを開けると同時にただいまの挨拶をすると、部屋の奥から、「おかえり」という倫太郎の返事が返ってきた。「今日は早かったんだね」手を洗って居間に向かうと、台所に倫太郎の姿があった。「そっちが遅かっただけじゃない?」倫太郎はそうわたしに言った。

「……倫太郎が台所に立ってる」

どうしたの、そうわたしが倫太郎に問えば、倫太郎は「ご飯まで我慢できなかった」と答えた。台所にはお茶碗とラップと塩と、おにぎりが置いてあった。彼の手元をまじまじと見ていたせいか、倫太郎は「包丁は使ってないよ」と言った(倫太郎は包丁の持ち方が危なかしいので、包丁を持たないように強く言っている)。

「炊飯器のお米使った」
「晩御飯の分のお米ある?」
「残してるから大丈夫だよ」
「じゃあ大丈夫」

「カップめん家に無かったし、かといって晩御飯があるのにがっつり食べるのもどうかと思ったけど、我慢できなかったんだよね」と倫太郎は言った。ラップに包まれた白いおにぎりがふたつ、これだけでも十分がっつりな量じゃない?と言いそうになったけれども、それは言わなかった。つくったばかりのおにぎりを持った倫太郎が、わたしに「一つ食べる?」と問うた。倫太郎が握ったおにぎりを一つ食べたら晩御飯が入らなくなりそうだったので、わたしは遠慮しておいた。「二つ食べて晩御飯食べれる?」そうわたしが倫太郎に問えば、倫太郎は「余裕で入る」と言った。倫太郎の身体がこんなに大きくなったのは、もしかしたらこうしていっぱい食べているからかもしれないと思う。
 倫太郎と入れ替わるように、わたしが台所で夕食の用意をする。冷蔵庫にあるものからすぐに作れそうな献立を考えていると、居間の方から「しょっぱい」という倫太郎の声が聞こえた。自分で作ったおにぎりに文句を言って渋い顔をしながらおにぎりを食べているのが可笑しくて笑っていると、倫太郎が「食べてみなよ」と言って食べかけのおにぎりをわたしのところに持ってきた。

「いいよ」
「遠慮しなくていいから」

そう言う倫太郎の押しに負けて、わたしが倫太郎の食べかけのおにぎりを一口だけ食べてみたけれども、米の味がするばかりで塩の味は少しもしなかった。「お米の味がする」わたしがそう言えば、倫太郎は「嘘つかないでよ」と言ってもう一度自分のおにぎりに口をつけた。「ほんとだ、こっちは塩の味がしない」そう倫太郎は渋い顔をして自分で作ったおにぎりを見ていた。残ったおにぎりを口の中に詰め込んでしまった倫太郎が、テーブルの上にあるもう一つのおにぎりを渋い顔をして眺めていた。倫太郎が作った一つ目のおにぎりを食べ切っても、倫太郎にはもう一つおにぎりが残っているのである。「……食べる?」倫太郎はそうわたしに問うた。「ううん、いらない」わたしが即答すると、倫太郎は「だよね」と言った。それは、目の前にある一つ残った塩の偏ったおにぎりをどうするかを考えているようにも見えた。

「おにぎり崩してお米混ぜ直して塩ご飯にした方が食べれそうじゃない?」

わたしが倫太郎にそう言うと、倫太郎が黙っておにぎりを持って台所にやってきた。倫太郎からおにぎりを受け取って、お茶碗の上に置いておにぎりを崩す。少し混ぜてやれば偏った塩も多少はマシになるだろう。倫太郎はわたしがおにぎりを崩していくのを眺めながら、口を開いた。

「おにぎりなら俺にも出来ると思ったけどうまくいかないね」
「満遍なく塩味にするのが難しいよね」
「うん。塩、片側に寄ってたし」
「片方にしかかけてないからじゃん」
「ははは」

わたしはおにぎりを崩して塩ごはんにしたものを、倫太郎に返した。倫太郎は、台所に並んだ、晩御飯になる予定の食材を眺めた後で、「これ、今じゃなくて晩御飯と一緒にたべようかな」と言った。

「晩御飯の頃にはお米冷たくなってるかもしれないよ」
「おかずが温かいから大丈夫だよ」
「そう?」
「自分の作ったおにぎりで懲りた。きちんと晩御飯まで待つ」
「おにぎりが美味しかったら晩御飯の前につまんでたの?」
「摘んでたと思う」

少し反省してる、と倫太郎はお茶碗に乗ったおにぎりだったものの姿を、渋い顔をして見ながらそう言った。

2020-12-09