小説

十二月二日:傘泥棒に遭う話

「おかえり」
「ただいま」

わたしのすがたを見た倫太郎は「うわ」と苦い顔をした。「本当についてない」そうわたしが倫太郎に言えば、倫太郎は「ドンマイ」と言って、玄関先から風呂場へと行ったのちに、タオルを持って戻ってきた。頭から靴の先まで、冬先のつめたい雨でびしょ濡れになってしまったわたしは、すっかり冷たくなってしまった手で倫太郎からタオルを受け取った。かじかむ指先でタオルを握るけれども、タオルを握っているという感覚だけがあって、そのタオルが暖かいのか、冷たいのかまでは分からない。タオルを握るついでに倫太郎の手を握ってやれば「冷たいから離して」と冷たく言われて手を離されてしまった。ほんの少しだけ触れた倫太郎の手の温度も、今のわたしの手ではそれが暖かいものなのか、冷たいものなのかは分からなかった。

「寒いのに災難だね」

そう彼は言って、ふたたび風呂場の方へと消えて行ってしまった。おおかた、濡れねずみになってしまったわたしのために、お風呂を入れてくれているのだろう。風呂場の給湯器の軽快な音楽が流れたのちに、風呂場から玄関先にまた顔をだした倫太郎が、「濡れた服早く脱ぎなよ」と言って居間に戻ってしまった。玄関先でびしょ濡れになった服を脱いで、洗濯機の中に服を放り込んだ後で、タオルに包まって居間に入れば、倫太郎が「ごめん」と言ってわたしにスウェットをよこした。「服持っていけばよかった」そう言う倫太郎に、「ありがとう、次は服も持ってきてくれると嬉しい」と言えば、倫太郎は「ごめん」と謝罪の言葉を吐いた。全裸で玄関から部屋まで歩いてきたわたしのことをいたたまれないと思っているのだろう。

「風呂できるまで待ってね」
「うん」

わたしは居間のソファの上で毛布に包まりながら風呂が出来るのを待っていた。濡れた髪の毛の先が頬に当たるのが冷たい。「今日傘持って行かなかったの?」倫太郎は淹れたばかりのコーヒーをテーブルの上において、そうわたしに問うた。わたしはその倫太郎の言葉に、つい先程、わたしがこんな目に遭って帰ってくることになった理由を思い出して、かっと頭に血が上ってしまうのを感じた。「聞いてよ!」そう、わたしが食い気味に言うと、倫太郎の細いまなこがまんまるに見開かれた。わたしが急に大きな声を出してしまったから、驚いてしまったのだろう。「何かあったの?」そう、倫太郎はわたしに問うた。

「盗まれちゃったの」
「傘を?」
「傘を」
「コンビニ?」
「そう。コンビニで買い物するのに傘置いて店に入って、出た時にはわたしの傘が無くなってたの!」
「ビニールの傘だっけ」
「そう」
「あー、ビニールの傘だったらたまに盗まれるよね」

ご愁傷さまです、と倫太郎は言った。「本当についてないと思わない?」わたしが倫太郎に愚痴を漏らすと、倫太郎は「ドンマイ」と言って笑っていた。あの傘泥棒さえいなければわたしはこんなに濡れて帰ってくることも、この雨で余計に寒い思いをすることもなかったことを思うと腹が立って仕方がなかった。わたしのかわいいかわいい傘(とはいえ、ビニール傘である)を盗んで行ってしまった名前も顔も知らぬどこぞの誰かのことを恨まずにはいられない。

「傘泥棒は一度見せしめでキツめの罰をうけて欲しい」
「ははは」
「そうしたら二度と傘泥棒しようと思わなくなるじゃん」

わたしの傘も、もう二度となくならなくてハッピーだよ、そう言えば倫太郎は「まあ、たしかにそうかもね」と言った。倫太郎が入れてくれたコーヒーカップに口をつける。「まだ熱いかも」わたしがコーヒーカップに口をつけると同時に、倫太郎はそう言った。カップに口をつける前に言ってくれと思ったけれども、それも後の祭りである。倫太郎の言う通り、コーヒーはとても熱くてまだ飲めそうになかったので、おとなしくテーブルの上に戻しておいた。テーブルの上に置いた熱すぎるコーヒーから、倫太郎の方をじっと見る。倫太郎は少しだけ申し訳なさそうな顔をして「ごめん」と言った。「いいよ」コーヒーを入れてくれた倫太郎を責めることなど出来るわけもなかったので、わたしはそう返した。

「傘、どうしよっか」

倫太郎はそう、わたしに言った。彼に言われてはじめて、わたしは家に予備の傘がないことを思い出したのだ。家にあるのは倫太郎の使っている折り畳み傘が一本だけである。

「またコンビニで買おうかなって思ってるけど」

そう、わたしが倫太郎に言うと、倫太郎は「また盗まれるかもしれないじゃん」と言った。倫太郎に言われて、使っていたのがどこでも手軽に買えるビニール傘だったのがまずかったのかもしれないとも思った(しかしながら、一番悪いのはどう考えても人の傘を盗む奴であると思い直した)。今度はきちんと名前を書いておくべきなのか、それとも『お前の傘じゃない』とでも書いたシールでも貼るべきか、と思ったけれども、いっそ、この機会にビニール傘ではない傘を買うのも良いかもしれないと思った。少し値が張る傘でも買えば、今度はコンビニの傘立てに傘を入れたりせずに、お店の中にもって入るようになるだろうとも思ったのである。

「傘かあ」

わたし、ビニール傘くらいしか買ったことないや、そう倫太郎に言うと、倫太郎は「俺も自分で買ったこと無いよ」と言った。

「あの折り畳み傘?」
「うん。実家から持ってきたやつだよ」

学生の頃から使ってる、と倫太郎は言った。「結構長持ちするね」倫太郎が学生でなくなってから、それなりの時間が経っているが、倫太郎の傘は未だにくたばる気配を見せていない。倫太郎の使い方が良いのか、傘がずいぶん頑丈なのかはわからないが、もしかしたら、その両方なのかもしれない。よく考えてみれば、彼がスマートフォン以外の物をすぐに買い替えているところをあまり見ていないように思う。

「大きい折りたたみ傘があるならそれがいいな」
「俺が使ってる奴は?」
「倫太郎が使える傘だったらわたしも十分な大きさだと思う」
「だよね。この傘どこで買ったか聞いておくね」
「倫太郎の実家のそばにしかないお店だったりしなければいいけど」
「近場にあるといいね」
「うん」

わたしがそう答えたときに、ちょうど、お風呂が出来上がったということを知らせる軽快なアラームが流れた。

「お風呂行ってきなよ」
「風呂入ったらコーヒー冷めちゃうけど」

わたしがそう、テーブルの上で未だ湯気ののぼるコーヒーを示せば、倫太郎は呆れたような顔をしてわたしの顔を見ていた。「俺が飲むからいいよ、お風呂が先」風邪ひいてもいいならいいけど、と倫太郎は少し意地の悪い言い方で風呂に入るように言うので、わたしは、彼の淹れてくれたコーヒーが気にかかって仕方がなかったけれども、彼のいうことに素直に従うことにした。
2020-12-02