小説

群青#5

 望ちゃんと二宮くんと別れ、慶くんと暫く近場を散策したのち、わたしと慶くんは新弓手町駅へと向かっていた。今日の朝、慶くんと出会ったあの駅である。今日一日中、慶くんに過去のわたしが出かけていた場所や、偶然ではあったけれど、縁のある人に会って話をすることができたことに喜んでいるうちに、時間はあっという間に過ぎていってしまった。東の空に居たと思っていた太陽はいつしか空高くに上がり、今となっては西の彼方の方へと顔を半分隠している。青々としていた空は、夕焼けのせいで燃えるような橙色に染まっていた。わたしと慶くんが並んで歩いている時に出来る影が、気づいてみれば随分と長くなってしまったように思う。今日一日という、長いはずの時間は、駆け抜けるように過ぎ去って行ってしまった。

「帰りたくないな」

そう、自然と口から言葉が零れた。西の彼方、燃えるような夕焼けを見て、つい、目を細めてしまう。あの太陽が沈み切ってしまうころには、この町をわたしは出発しなければならない。この町を離れて、わたしが普段生活している町に戻らなければならないのである。わたしは帰りのことを思ってつい、わたしはため息をついてしまう。慶くんはそんなわたしの姿を見て「ははは」と笑っていた。

「収穫は何かあったか?」
「楽しかったってことと、良い友達がいたってことくらい!」
「そりゃ大収穫だな」

慶くんはそう言って笑っていた。わたしも、慶くんにつられるようにして、笑ってしまった。結局のところ、わたしが過去のわたしの歩いた場所をもう一度辿ってみたけれど、わたしの持っているそう多くは無い記憶の中に掠るものは何ひとつなかった。過去に行ったことのあるらしい場所も、出会った人たちも、どれもこれも、新しい経験としてわたしの頭の中に入ってきた。望ちゃんも、二宮くんも、過去のわたしの知り合いとはいえ、今のわたしは全然知らない人たちであり、過去の思い出というよりは新しくできた友達のようにも思えた。「次もし、なまえが来るなら、そのときはもっとたくさん人を呼ぶから連絡をちょうだいね。なまえが何も憶えてなくてもよくしてくれる人たちに違いないから心配しなくていいわよ」と言って、わたしのスマートフォンに連絡先を登録して(わたしの連絡先は望ちゃんのスマートフォンには登録されていたようなので、わたしだけが登録し直すことになった)別れた望ちゃんに、「気を付けて帰れよ」と気を遣ってくれた二宮くん、そして、丸一日、記憶がないと言ったわたしに、付き合ってくれた慶くん。わたしがこの一日という長いようで短い時間の旅で知ったことは、いい友達がいたということ以上のものは無いが、これ以上に素晴らしいものも、他には無いように思う。もし、これがうつくしい物語であるならば、慶くんと一緒にいる間に、都合よくわたしの過去の記憶がよみがえっていたのかもしれないと思う。しかしながら、そのようなことはなかった。わたしの記憶はやはり戻ってくることなどなく、新しい楽しい思い出ばかりが蓄積されていったことに違いない。
「記憶は戻らなかったのか」そう、慶くんはわたしに問うた。「うん。全く」そう答えれば、慶くんは「それは残念だったな」と軽い調子で言っていた。

「でも、今はいいかなって何となく思うよ」
「そうか?」
「戻ったら良いとは思ったけど、それ以上に良いことがあったから今日は良いかなって」
「おう」
「慶くんは残念に思う?」

わたしはそう、慶くんに問うた。慶くんは、「なまえがいいなら、それでいいだろ」と間髪置かずにそう、答えた。「そっかあ」そう、わたしが言えば、慶くんは「残念がってほしかったのかよ」とわたしに問うた。慶くんにそのようなことを問うたのはわたしであるのに、慶くんに残念がられたところでわたしにはどうしようもできないことに気づいて「ううん」と答えた。慶くんは「残念がれって言われても俺には無理だな」そう、慶くんははっきりと言い切った。今日一日慶くんと関わる中で、わたしは慶くんのそういう、妙に気を遣うではなく、こざっぱりとしたところを、好ましいと思っていたので、その物言いが何となく、慶くんらしいと思って笑ってしまった。

「面白いこと言ったか?」
「なんか、慶くんらしいなって思って」
「そうか?」
「そう、はっきり言い切るところが好きだなって思うよ」
「褒められているのかそれは」
「ほめてるほめてる」

慶くんは「そうかあ」と余り納得いってなさそうな顔をしていた。「今日は本当に、慶くんに会えてよかったって思ってるよ」そう、慶くんに伝えれば、慶くんは「そうかそうか」と言った。

「まあ、良いことが一つでもあったなら、来てよかっただろ」
「うん。一個どころじゃなかったけどね」
「そりゃあ、良かったなあ」
「二年前に良い手帳を買って、予定を書き込んでて良かったって思うよ」
「ははは。二年前の俺の苦労も報われたってワケだ」

予定が数年分書ける手帳を買ってなかったら今日慶くんと会えなかっただろうし、と言えば慶くんは「そうだな」と答えた。わたしは、鞄の中に入っているあの薄汚れた赤い手帳のことを思い浮かべていた。過去のわたしが選んだ手帳が、未来のわたしと慶くんの縁を結ぶことになるとは、過去のわたしは少しも考えていなかっただろうと思うけれど、こればかりは過去のわたしに感謝せざるを得なかった。そして、二年前にした約束だというのにそれを覚えていてくれた慶くんにも、である。もし慶くんが覚えていなかったらわたしは今日、新弓手町駅の構内でひとり途方に暮れていたのかもしれない。
 あの手帳に予定を書き込んだ日は、どんなことを考えていたのか、今のわたしには分からない。「この予定を決めた日のわたしって、どうしてたのかな」そう、わたしは慶くんに問うた。慶くんは「そうだな……」過去の出来事をゆっくりと思い返すような顔をしたのちに、わたしの顔をジッと見ていた。慶くんが大真面目な顔をしてわたしの顔を見るので、思わず生唾を飲み込んだ。

「ははは、教えられん」
「……知ってるの?」
「おう」
「教えてくれないの?」
「秘密だ秘密」

そう言って、慶くんは「ははは」と笑って誤魔化した。「いじわる」そう言っても、慶くんはそのことを決して、教えてくれなかった。

「帰りたくないな」

わたしはもう一度、そう言った。慶くんは「そんなに楽しかったか?」と笑うばかりであった。「本当に、楽しかったんだよ。もっと続いてほしいって思うくらいには」そう言えば、慶くんは「そりゃ、いいことだ」と言っていた。「なにがいいことなの」そう、慶くんに問えば、慶くんは「なまえが楽しそうなこと」と言った。そして、なまえが元気そうでなにより、と慶くんはわたしの顔を見て、そう続けて言った。「楽しかったから、余計に慶くんのことを何も覚えていなくて申し訳ないとは思う」そう、わたしが言えば、慶くんは「まあ、忘れたモンはしょうがないしな。無いものは無い」無いものを出せって言っても困るだろ、と慶くんは言った。たしかに、それは彼の言う通りなので「そうだね」と返事をした。




「もう帰るのか、早えなあ」

駅の改札の前で、わたしと慶くんは立っていた。駅構内を行き交うひとびとの姿を見ながら、わたしが改札を通り抜けなければならない時間の間際まで、わたしと慶くんは一緒にいることにした。駅構内にある時計の針が、六時の十五分前を指している。あの秒針があと十回回るころにはわたしは、この目の前の改札を通らなければならないし、さらにそこから五回ほど回ってしまえば、もうわたしはこの市から去ることとなる。

「うん、今日一日早くてなんだか寂しい」

そう答えれば、慶くんは「そうだな」と言った。「慶くん」わたしが、彼の名前を呼べば、慶くんは「おー」と気の抜けるような返事をした。わたしは、鞄の中から薄汚れた赤い手帳を引っ張り出して、今日からずっと先の日付、だいたい一年後の、今日の日付のある週の休日の場所を、慶くんに見せた。慶くんは、予定が空っぽのスケジュール帳をまじまじと見つめて「どうした」とわたしに問うた。

「また、三門に来てもいいですか」
「いいぜ」

慶くんは、即答した。「防衛任務が有るから予定が少しずれるかもしれないけどよ、それでいいなら」そう、慶くんは言った。わたしは、また、慶くんたちに会えれば良いと思ったので、首肯した。慶くんと連絡先を交換し、簡単なメッセージを送る。「連絡先、変わってなかったのか」そう、慶くんは言った。故障したわたしのスマートフォンの中に入っていただろう慶くんの連絡先を、もう一度わたしは今持っているスマートフォンに登録した。わたしは、登録したばかりの慶くんの連絡先を眺めて、メッセージを送信した。目の前に立っている慶くんから、メッセージの返信が来たのを確認した。慶くんは「これでまあ、いいだろ」と言った。そして、わたしは薄汚れた赤い手帳に、慶くんとの予定を書き込んだ。今日待ち合わせをした場所に、同じ時間を書いた。わたしは慶くんに、「今度会った時は何をしようか」と問うてみたけれど、慶くんは「まあ、今日と同じ感じでいいだろ」と言った。また会ったときに決めればいいだろうというのは、過去のわたしと慶くんがした約束と同じなのだろうか。「過去のわたしと同じ約束をする?」そう、慶くんに問えば、慶くんは「おー、それでもいいけどよ、なまえお前憶えてないだろ」と言った。たしかに過去のわたしのした約束を、わたしは知らないしそれを慶くんは教えてくれなかった。今になってようやく教えてくれるのかと思ったけれど、慶くんはやはり教えてくれはしなかった。「次会った時に分かるから、良いだろ。俺が憶えてるしな」そう、慶くんは言った。「わかった」わたしがそう答えれば、慶くんは「おう、じゃあそう言うことで」と返事をした。

「じゃあ、約束ね」
なまえ、次は忘れんなよ」
「うん、次はきっと憶えてる」
「そうしてくれ」

もう事故にあったりするなよ、そう慶くんは言って笑った。「じゃあな」駅構内の時計が、十八時の五分前を指しているのを見た慶くんが、わたしを改札の向こう側へと送り出した。わたしは、改札越しに、慶くんに向かって手をふる。「また、来年」そう、慶くんに言えば、慶くんは「おー」と気の抜けるような返事をして、手を上げた。わたしは、慶くんにもう一度手を振って、自分の乗る電車のやってくる駅のホームに向かって歩いた。視界の隅にいた慶くんが、帰路につく姿がちらりと見えたときに、本当に今日が終わりなのだと思って、少しばかり寂しくなってしまった。いよいよ帰らなければならないのかと思うと、自然とため息が出てしまう。今日がもう少し長く続いてくれればよかったのにと、そう願わずにはいられなかった。駅のホームから見える空は、東の方から夜の紫が滲み、西の果ては夕焼けの残滓が橙色を残している。もうじきに、夜がやってくるだろう。東の空には小さな星の姿がひとつ、ふたつ散らばっていた。わたしは三門市で得た思い出を胸に、帰路につく。今日この日、過去のわたしの残した足跡をたどってこの町に来て本当に良かったと、心の底からそう思うのであった。

2020-06-07