小説

板挟みの話

 「次だよ」そう、亜季ちゃんに肩をつつかれて、彼女の言う方を向いた。まぶしい太陽のひかりに、つい目を細めて、彼女の言う方向を見る。春というには強すぎる日差しが、わたしのむき出しの手足を容赦なく焼き、時折吹く風が、グラウンドの熱で暖められた空気を運んでくるのるが、それはもう夏のものに限りなく近い。汗ばんで背に張り付く体操服が気持ち悪かった。亜季ちゃんの指した方向は、グラウンドのわたしたちの立っている高跳びのマットのある場所から、ちょうど対角線上にある五十メートル走のレーンがある場所だった。わたしたち女子生徒は炎天下のグラウンドの一か所に集められて高跳びの授業をしているけれど、男子生徒たちは木陰のある場所で五十メートル走の測定をやっている。暑い中で高跳びの順番を待ち続けるのも嫌だが、いくら日陰で順番待ちが出来るからと言って五十メートルを走りたいかと言われたらそれもあまり好きではないので、男女ともに今日の体育は少しだるいなあ、と思った。木陰の下、五十メートル走の、スタート地点を先頭に並ぶ男子生徒の群れの中に、頭が少し出ている男子生徒の、きれいに伸びた背筋に自然と視線が吸い寄せられた。遠くから見てもあの立ち姿は辻くんだろうと分かってしまうのは、辻くんの立ち姿が綺麗だからなのか、それともわたしが辻くんのことが好きであるあまり、彼を贔屓目で見てしまっているからなのかは定かではない。学校で制服を着ている時の姿より、わたしはボーダー本部で見かけるスーツ姿の辻くんの方が見慣れているので、体操服のような比較的動きやすくてラフな格好をしている辻くんの姿は、ちょっと珍しいと思う。好きな男の子の、珍しい姿を見られたことが少しだけ、嬉しかった。

「ねえ、ちょっと」

亜季ちゃんは、わたしの肩を二度つついてそう、わたしを呼んだ。「エッ!」動揺したわたしが、慌てて高跳びの授業の方を見ると、わたしの順番はまだ先で、暫く来ないようだった。少し大きな声を出してしまったせいで、わたしの前後に居た女子生徒が一斉にわたしの方を向いたのがすこしだけ、恥ずかしかった。

「びっくりさせないでよ」
「夢中になってみてるから、つい」

丁度飛ぼうとしていたのは、陸上部の高跳びをしている女子生徒だった。噂で、地区の大会に出るのだと聞いたことがある。女性教諭の合図に、駆け出して、飛んだ。地面を蹴って、身体が美しいアーチを描いて、マットに倒れ込む一連の動作、ほんの数秒にも満たない、飛んでから落ちるまでの所作に、自然と目が吸い寄せられてしまう。動物の特集番組に出てくる四つ足の草食動物が、倒木を軽々と飛び越えて走っているシーンの、流れるようなうつくしい走りを、なんとなく思い出した。「あんなにきれいに、飛べるんだ」思わず、わたしは声にだしてしまった。

「走るよ」

亜季ちゃんが、男子生徒の体育の方を見て、そう言った。スタートラインに並ぶ辻くんが、地面に両手をつけて、クラウチングスタートの姿勢を取る。そうして、スタートの号令がかかったのか、レーンに並んでいた辻くんを含む走者は一斉に走り出した。立ち姿もきれいだけど、辻くんは走り姿もきれいだったことをふと、思い出した。わたしが視慣れているのはトリオン体の彼の走りの方で、カッチリとした服を着ているから綺麗に見えるのだと思っていたのであるが、辻くんは生身で走る姿もきれいだった。背がしっかり伸びていて、風を切るように走るさまを、わたしは夢中になって見ていた。辻くんは、早くもなければ遅くもない順位で、五十メートルを走り切っていた。

「きれいだった」
「どっちが?」

高飛びのことを言っているのか、辻くんのことを言っているのかで答えを出しきれずに言い淀んでしまい、口をつぐんで亜季ちゃんの顔をジッとみていると、亜季ちゃんは可笑しそうに笑って「意地悪言ってごめんね」と言った。彼女は、わたしが言いよどむことを知っててそう、問うたのだ。陸上部のあの子が描く身体のアーチも、辻くんの走りっぷりも、どっちもきれいであることには変わりなかった。

「いいなあ」

「何が」亜季ちゃんは、わたしの独り言に対してそう、問うた。

「亜季ちゃん、いつも見てるんでしょ」
「誰を」
「辻くん」
「そうね」
「いいなあって」

辻くんのことを、いつでも見れていいなあ、なんて子どもみたいなことを言うわたしに、亜季ちゃんは呆れたような顔をして口を開いた。

「……私が見ているのは辻くんだけじゃないよ」
「でも、見てるんでしょ」
「それが仕事だから」

亜季ちゃんはくだらないとでも言いたそうな顔をして、わたしに向ってそう言った。「嫉妬されても困るよ」そう言って亜季ちゃんはため息をついた。

「嫉妬じゃないもん、多分……」
「はいはい」

走り終えて列の後列に戻って行った辻くんから、視線を自分たちの高跳びの授業の方へと戻す。百センチと少しの高さに設定されたバーを軽々と飛び越える陸上部の子を見ていたが、わたしもあんな風にきれいに飛べるようには思えなかった。トリオン体ならば簡単に飛べるのに、と思ったけれど、トリオン体でもきっと、きれいには飛べないだろう。わたしも、あんな風にきれいに飛べたらなあ、そう、運動部でもなんでもないわたしがそれを思うのは、高望みに違いないのであるが、そう望まずにはいられない。きれいなものにはどうしても憧れてしまう。わたしもあんな風に、きれいに飛べたら、というのはわたしがただ、きれいに飛んでいる所を誰かに見られて、きれいだと思われたいからなのだろうか。たしかに、辻くんにはわたしのきれいなところだけを見てほしいとは思わなくもないけれど、とぼんやり考えていた。わたしの目の前の女子生徒が飛んだあと、いよいよわたしが飛ぶ順番が来た。高跳びのバーの高さを見る。百センチと少し、わたしの身長よりは随分と低い所にそれは設置されていた。走る前に、陸上部の女子生徒が飛んでいたさまと、トリオン体で行う跳躍のことを思い出す。どの場所で踏み込めば飛べそうかを考えた。この高さならば、トリオン体であればスタートラインであるこの場所からでも軽々超えられるのになあ、なんてことを考えたが、自分の体は残念ながらトリオン体ではなく、それなりの重さのある肉で出来たからだである。

「ねえ、亜季ちゃん」
「なに」
「あの高さを飛べたらさあ、辻くん褒めてくれたりしないかな」
「私じゃなくて、本人に聞きなさいよ」

笛の音を合図に、わたしは走り出した。地面を蹴ったときにもう少し前だったかもしれない、と思ったのは思った以上に自分の肉のからだが前に飛ばなかったからだった。しかしながら、そう思ったときにはもう手遅れだった。地面から足を放した瞬間に、遠くの空がほんの一瞬だけ、近くに来たような錯覚を覚える。青い空、まぶしい太陽が視界に広がって、わたしのからだはマットの上に音を立てて落ちた。体育館倉庫の中に随分と長い間押し込まれていたのか、少しの黴臭さと、石灰粉の匂いが鼻につく。マットの上にころがったまま、バーがあった方を見た。バーは、わたしが飛んでいる最中に、足に引っかかって地面に転がってしまっていた。「おしい」そう言う、女性教諭の声をきいたのちに、わたしはマットの上から降りた。辻くんに褒めてもらいたかったなあ、なんて思いながら、五十メートル走のレーンの方をもう一度見た。相変わらず、きれいな姿勢をした辻くんは、男子生徒の群れの中に立っていたけれど、辻くんはこちらを少しもみていなかった。


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 「いいな」という単語を私にむかって使う男と女のことを良く知っている。ふたりはどうも互いに対して言葉が足りていないように見えるし、あまり上手に自分のことを話すことが出来ていないだけのように思えて仕方が無かった。彼らの、男女の関係の上で不器用に紡がれる関わり方というものがいじらしくも、少しばかりカワイイように思えてしまうのは、友人だからなのか、チームメイトだからというところから来るものなのかはわからない。彼らのちりちりとした嫉妬の感情を向けられては、そんな二人をぞんざいに突っぱねることもできずに、呆れるを繰り返してしまっている。一人は、同じ隊のメンバーで、もう一人はクラスメイトの女子生徒、かつ、別の隊の攻撃手だった。同じ武器を持って、働いている時はふたりともサマになっているのに、これがふたりの関わり合いとなると、全くと言っていいほど格好がつかない。辻君のきれいなところが見れて羨ましいと言う彼女の気持ちは、たしかに分からなくもないが(自身、好きな男の子の姿がいつでも見れるのは羨ましいと思っている節が全くないわけではないのである)、そのド直球の感情を自身に向けられてしまっても私にはどうしようもないのである。

「ひゃみさん」

ショートホームルームが終わり、ゴミ当番のゴミ捨てに出かけたなまえを見送ったのちに、私の名前が呼ばれた。その呼び方をする人に心当たりがあった。同じチームメイトで、女子のいるこの教室にはあまり自分からやって来ることがないチームメイトの姿であった。「どうしたの」そう、私は辻君に問うた。辻君は、私の教室の中をぐるりと覗いた後に、「なまえちゃんってもう帰った?」と問うた。

「今ゴミ捨て行ってるから、まだいるよ」
「ありがとう」
「連絡しないの?」
「したけどほら、なまえちゃん、連絡あんまり見ないから」

そう、辻君に言われてなまえの机の上を見ると、なまえのスマートフォンは机の上に置きっぱなしにされていた。「やっぱり持って歩かないよね」辻君はそう、私に言った。

「……私用端末は相変わらずみたいね」

そう、返せば辻くんは困ったような顔をしていた。彼女のスマートフォンの画面がまだ少し明るいのは、辻くんがここに来るより先にメッセージを送ったからなのかもしれない。なまえはスマートフォンを全くと言っていいほど携帯して歩かないので、連絡が取れないことが屡々あった。さすがに、ボーダーの支給端末だけはきちんと持つように口酸っぱく言われているせいか、支給端末だけはやっと忘れ無いように持ち歩くようになったらしいが(彼女の隊長から、そこまで不携帯なら服に縫い付けるとまで言われて叱られていたから仕方が無いのだろうと思う)、私用端末は相変わらずであった。辻君は、なまえのカバンとスマートフォンが放置されている座席をジッと見た後に口を開いた。

なまえちゃんって教室でもいつもの通りなの?」
「いつもの通りって?」
「本部に居る時みたいな感じ。ちょっと怖い」

彼女のことを怖い、と辻君が言っているのを聞いて初めて、ボーダーでのなまえは辻君の中では怖そうな人に当てはまっていたことを初めて知った。思えば、辻君がなまえと良好な関係を不器用ながら築くまでに、一年近くの時間が必要だったことを思い出した。辻君に絡むなまえに対して怯えたような顔をして、私に助けを求める視線を送っていた辻君が、今となっては懐かしい。今はもう、辻君は、なまえとまともに会話ができるようになっているけれども、ほんの一年前は全くと言っていいほど会話になっていなかったように思う。

「辻君ってなまえのこと、怖かったんだ」
「うん……ちょっとだけ。今は怖くないよ」
「知らなかった」
「うん。反省会の時黙ってる時が多いし喋ったら結構鋭いこと言うから」
なまえが?」
「うん」

なまえがボーダー本部に居る時は弧月を持ってランク戦と反省会を繰り返していることが多く、あまりそれ以外の話をしないで黙っていることの方が多いのだと辻君は言った。辻君も、なまえに慣れた後では黙り込んでジッとしているなまえのことをなんとも思わなくなったようであったが、私にとっては黙っているなまえの方が珍しいもののように思う。なまえのことを硬い人だと思って居る人は少なくないようであるが、私にはなまえが硬い人だという印象はあまり無かった。それは、一年生の頃から同じクラスでなまえと関わり合いがあったせいなのかもしれない。学校でのなまえは授業中に小声でおしゃべりをすることだってあるし、たまにびっくりして大きい声を出して周りの注目を集めてしまって恥ずかしそうにしている時だってあるし、体育の授業中に好きな男の子を見て夢中になることもあれば、嫉妬することだってある。私から見ればどこにでもいる高校生の女の子に違いない。

「私は怖いと思ったこと無いけど」
「そうなんだ……今日体育の時にひゃみさんと話してたでしょ」

辻君は話をつづけた。

「ひゃみさんもなまえちゃんも授業中でもしゃべるんだなって」
「そう?」
「うん。なまえちゃんもひゃみさんも黙って授業してるんだろうなって思ってたし、なまえちゃんと楽しそうにしてたでしょ」
「……そう?」
「うん。やさしい方のなまえちゃんだった」

辻君の言う"やさしいなまえ"と"怖いなまえ"の違いがあまりよくわからなかった。ボーダーでの顔と、学校での顔が違うということをたぶん、彼は言いたいのだろうと思う。辻君は、主のいないなまえの席を見て「いいな」と言った。「そう?」そう問えば、辻君は「うん」と少し照れながら頷いた。

「俺、そういうなまえちゃんをあまり見れないから、ひゃみさんが羨ましい」
「……辻君と喋ってる時のなまえと教室のなまえは変わらないと思うけど」
「でもひゃみさんの方が俺よりそう言うなまえちゃんを見てるでしょ」
「まあ、そうだけど」

そう言うと、辻君は「だから、ちょっとうらやましい」と言った。「教室だとやさしい方のなまえちゃんなんだ」そう、辻君は続けて言った。

「やさしい方?」
「ひゃみさんと喋ってるときみたいな、あとは俺の前でもちょっとやさしい」
なまえはいつも通りだと思うけど」
「俺、ボーダーで会うときの方が多いから、ちょっと怖いなまえちゃんを見るときの方が多いよ。ひゃみさんはやさしいなまえちゃんがたくさん見れていいなあ」

そう、辻君が言うので、思わず「辻君も私に嫉妬するの?」と返してしまった。辻君は「辻君"も"ってなに?」と私に問うた。辻君は多分、なまえがわたしに対して辻君のことで嫉妬していることがあることを知らなかったのかもしれない。ついうっかり口を滑らせてしまったと思ったのであるが、言ってしまったものはもう仕方がなかった。「なまえに聞けば」そう、突っ撥ねるように言えば、辻君は「なまえちゃんに聞くの……?うん……」としりすぼみになりながら、少し照れ臭そうな顔を隠すように俯いてしまった。「照れてる?」そう問えば、辻君は「うん」とだけ返事をした。「その顔、なまえが戻ってくるまでになんとかしてよ」と言えば、辻君は「うん、そうだね」と言った。また私がなまえに何か言われるのは堪らない、と言えば辻君は「そっか……」と少し嬉しそうな顔をして、未だこの場所に戻ってこないなまえの座席を眺めていた。

2020-05-31