小説

続・遠足

「涼しい」
「そうだなァ」

寄せては返す波が、砂浜の白い砂を食ってまた沖のほうへともどってゆくのを、ぼんやりと見ていた。穏やかな潮風が、少し前に切ってもらったばかりのわたしの前髪をいたずらに揺らしてみては、どこかへと去ってゆく。夕暮れの海辺に弓場とやってくるのは、二度目だった。防衛任務を終えた帰りの足で、駅から市外に出る電車に乗ってこの砂浜に、わたしと弓場はまたやってきたのである。春の頭はあんなに寒かった海辺も、初夏に片足を突っ込み始めた時期になれば、随分と過ごしやすかった。燃えるような橙色の西日が背中を焼くのは暑かったのであるが、吹く潮風は爽やかな涼を運んでくるので丁度よかった。春の頭ごろに来たときには人の姿なぞわたしと、弓場くらいしか人の姿が無かったのに、初夏に片足を突っ込んだ今では、マリンスポーツを楽しむ人たちの姿がまばらにあった。「すごい、サーフィンしてる」わたしが、打ち寄せてくる波の上を器用に滑る人たちのすがたを見て言えば、弓場は「そうだなァ」とわたしの視線の先と同じ方向を見ながらそう、言った。

「弓場ってやるの」
「アレをか?」

弓場が、海の上を器用に滑る人の姿を見ながらそう、わたしに問うた。

「そう」
「やったことねェな」
「結構似合いそうだなって思うけど、どう?」
「そうかァ?」
「うん。でも弓場ってゴツいバイク乗ってそうなイメージの方があるかも。マリンスポーツより海沿いとかバイクで走ってそうな感じがする」
「お前の中の俺のイメージはどうなってンだ」
「アニキって感じ。すごい背中が広くて頼れる感じの」

なんか弓場って面倒見良いところあるじゃん、とわたしが言えば、弓場は「そうかァ?」と言っていた。弓場にとってはあまり、自覚のないことなのかもしれない。

「前は寒かったよね」
「良かったなァ、寒くなくて」
「うん」

わたしは白い砂を蹴って、砂浜の上を走った。弓場の隣を走り抜ける。つま先がもったりとした白い砂を蹴り上げ、着地をするときは足先が深くまでめり込むのではないかと思うほどに足先を、優しい砂が包み込んでくる。ほどよい気温は、わたしの気分をどこまでも高いところに連れて行こうとしてしまうのか、重たいはずの足元はなんだか軽いような気がしてしまう。春先に来た時はまだ寒くて身体がカチカチに固まっていたのに、今はそんなことがあったことすら忘れてしまいそうなくらいに、身体は我先にと走り出していた。「余り燥ぎすぎるなよ」そう、後ろの方からゆっくり歩いてくる弓場が、少し大きめの声で、数十メートル先を走るわたしに言った。

「大丈夫、転んだりしなアッ」
「言ったそばから転ぼうとするんじゃねェ」

柔らかい砂に足を取られてバランスを崩したわたしの顔を、弓場が呆れたような顔をして見ていた。転ぶ前にもう片方の足で踏ん張って、不格好な形ながら転ばずに済んだので「セーフ」と言い切ってみたが、弓場は「アウトだろォが」と言った。「エッ、ダメ?」そう言えば、弓場は「アウト」ともう一度言った。わたしは恥ずかしさを隠すように、「へへへ」と笑って見せたけれど、弓場の顔はそれを見逃してはくれなさそうであった。

:

 防衛任務が終わり、帰宅の用意をしようと本部内を歩いている時に、反対側の通路から、見知った背格好がやってきた。すれ違いざまに、「よォ」と調子よくわたしに声をかけてきた弓場は、相変わらず爽やかな真っ白いジャケットのトリオン体で、そう言えばわたしと同じ時間帯に彼もまた防衛任務が入っていたことを思い出す。「防衛お疲れ」そう伝えれば、弓場は「あァ、お前も」と言った。彼の着ている白いジャケットは清々しい彼の性格とよく合っているように思うのであるが、それを本人に伝えたことはない。「弓場じゃん。どうしたの」やけに気さくに話し掛けてきた弓場にそう問えば、弓場は「暇か」と問うた。わたしは彼の言葉に頷いた。

「ちいと顔貸してくれや」

そう、彼は言った。自分の顔を指さして、「わたし?」と問えば、弓場は「他に誰が居るんだよ」と呆れたような顔をして言った。たしかに、今この場所にはわたしと、弓場の二人しか居ないのだから彼のいう対象はわたしに違いないのだろう。それはそれとして。

「……弓場の顔でそれ言われるとちょっと怖い」
「俺がどんな顔してるって?」

なんか体育館の裏に呼び出されるやつみたい、と軽口を叩けば弓場はわたしの頭を、彼の大きな手で思い切り掴んだ。まるで、スイカか何かを掴むようにわたしの頭を鷲掴みにする弓場に思わず「いたたたギブ、手加減して」と言ってしまったのであるが、トリオン体である上に痛がりのわたしはトリオン体の痛覚を殆ど切っているのだから痛みも何もないのである。「トリオン体だろお前」弓場はわたしの頭から手をはなして、呆れたような顔をしてそう言った。

「トリオン体だけどさあ、痛みがあるじゃん」
「ねェだろお前の設定知ってるからな」
「心が痛いかもしれないじゃん」
「そうかァ」

「悪ィなあ、それは痛かったな」と弓場は茶化すように言った。そして、彼は「そうだなァ」と時間を確認したのちに、「三十分後、何時ものところでいいか?」と問うた。「うん、いいよ」準備したらすぐに行くね、と言えば、彼は「もう少し後の方が良いか?」と言うので、「ううん。大丈夫だよ」と返事をした。今日のわたしはトリオン体をただ解除するだけで準備らしい準備が終わってしまうので、待ち合わせの場所に行くまでに十分程度あれば十分なのであるが、それは言わなかった。わたしはもう一度時間を確認して、「また後で」と言って弓場と別れた。わたしは弓場の歩いてきた先にある自分の作戦室へ向かう。弓場はきっと、わたしが歩いてきた方にある彼の作戦室に戻るのだろう。わたしは三十分後に弓場と何をするのかを考える。弓場は結局わたしに顔を貸せと言っただけで詳細については何一言話をしなかった。

:

 三門市内から市外へと向かう電車に乗り、車両に揺られていると目的地へと到着するのにそう時間は掛からなかった。前回は電車が目的地に到着するまでに寝てしまったけれど、今回は、小声で弓場と話をしていたせいか寝る間もなかった。弓場は、「よく喋るなお前」とわたしに対して言っていたけれど、「逆に弓場があまり喋らなさすぎるんだよ」と言えば「そうかァ?」と何処か納得したような顔をしていた。「嵐山とか、迅とかってもっと喋るよね?」そう問えば、彼にも思い当たるところがあるのか無言で頷いていた。嵐山も迅も、彼らの中では自発的によく話す人の印象があるので、あまり自発的に話さない弓場と比べるのはおかしな話かも知れないと思ったけれど、弓場が特になにも言わなかったので良しとした。磯の香りの漂う改札を通り抜けて、わたしと弓場は駅舎を出る。燃えるような夕焼けが西の空と、海面を焼いているのがまぶしくて思わず目を細めてしまった。「まぶしい」思わずそう口に出して言えば、弓場も「ああ」と相槌を打った。地平線の彼方、海と空とが交わるところから聞こえる海鳴りの声を聴きながら、わたしと弓場は過去に一度歩いた道のりをまた、歩き始めた。「あれ」「何だ?」前来た時はここ、やってなかったと思うんだけど、そうわたしは弓場に話し掛けた。通り抜けたばかりの駅舎から海岸に向けて半分ほど道のりを歩いたころに、小さな個人商店の電灯が灯っているのを見た。以前来た時は建物を見た記憶はあったのであるが、この店が営業していた記憶は無かった。「行ってみようよ」そう言って、わたしは弓場の手を引いて個人商店の中に入る。「ここ、前やってたっけ?」「さァな」弓場と商品棚を眺めながらそう話をしていると、店員が「夏期だけやってるんですよ」と言っていた。道理で前回来た時は気づかなかったわけだ(前回来た時は営業期間外だったのだろう)とわたしは納得した。

「ねえ見て、花火あるよ花火」

わたしがそう言えば、弓場はわたしの見ていた商品棚と同じところを見ていた。手持ち花火が十本程度入った、小さなパッケージの花火であった。「ねえ、花火」わたしがもう一度言うと、弓場は「うるせえ」と言って花火のパッケージを一つと、ライターとろうそく、それから、缶のボトルコーヒーを一本持って会計に向かった。「まって、わたしもペットボトル買う」「おう」彼の背を追うように、わたしもペットボトルの飲み物を一つ持って、会計に並ぶ。「纏めて会計した方が早ェだろ」そう言って、弓場はわたしの飲み物も一緒に会計を通してしまった。「後でお金返すね」そう言えば「知らねえ」と言われてしまった。「知っててよ」「忘れた」「忘れるのが早すぎる」そう言い合いをしていると、店員にくすくすと笑われてしまった。買い物を終えたわたしたちは、再び浜辺のほうへと歩く。せめて荷物持ちをすると言ったのであるが、弓場は全く知らない顔をして、わたしのその申し出すら無視してどんどん歩きだしてしまう。「人の話聞いてよ」そう言っても、弓場は「知らねえなァ」といって嫌な笑みを浮かべるだけだったので、荷物運びをすることを諦めて素直にお礼を言うだけになってしまった。

:

 すっかり陽が落ち、海辺の空の橙が西の彼方に残り、明るい紫色が覆ってしまった後で、弓場はボトル缶のコーヒーを一気に飲み切ってしまった。そうして、波打ち際に歩いて行って、ボトルに塩水を入れて彼は戻ってきた。「燃え殻はこっちに入れろよ」そう言って、海水の入った缶のボトルを砂浜の上に置いた。ろうそくは余ったボトル缶の蓋に蝋で付けて置いていた。「風が強くなくて良かったなァ」そう、弓場は言った。時折おだやかな風は吹いているが、それも肌を撫でるほどのもので、ろうそくの火を吹き消してしまうほどでは無かった。手持ち花火の先を、ろうそくに向ける。花火の先がゆっくり燃えて、シュワシュワと音を立てて黄色や、緑の火花が砂浜の上に落ちてゆく。花火の先から白い煙が立ち上って、火薬のにおいが鼻腔をくすぐった。「弓場はやらないの」そう、わたしが言えば、弓場は「俺はいい」と言って遠慮していたけれど、一本目の花火が終わった後の燃え殻を缶ボトルに捨てたのちに、袋から取り出した二本のうちの一本を弓場に渡せば、弓場は渋々と言った顔で花火を受け取っていた。

「なんで今日わたしを誘ってくれたの」

二本目の花火に火をつけたあとで、わたしは弓場に問うた。今日顔を貸してくれと言われたけれど、結局弓場は海辺へわたしを連れてきただけで、結局のところ、わたしの我儘に振り回されているような形になっている。「あァ」弓場は思い出したようにそう、言った。「出かけたくなっただけだ」続けてそう、彼は言った。

「気分転換みたいな?」
「そうだな、そんな所だなァ」

二本目の手持ち花火が半分ほど燃えたころに、火花の色が変わる。黄色い火花は橙色の火花へと色を変え、小枝のような火花は、白い砂浜に向かってパチパチと音を立て、白い煙を空に上らせながら、枝の先を伸ばしていた。

「ふうん。一人で出かけるのは寂しかったんだ?」
「そうかもな」

そう言って弓場は冗談めかして笑っていた。弓場の持つ手持ち花火の先から、火花が豪快に吹き出ているのを眺めながら、わたしは「弓場にも寂しいとかってあるんだ」と思ったことをそのまま言ってしまった。

「悪ィか?」
「いや、なんか意外だなって思ったから」

どちらかと言うと寂しがりの面倒を見ている感じがするから、と言ったら弓場は「違いねェな」と言ってまた、笑っていた。わたしもそれにつられるようにして笑ってしまった。気づいてみれば空は真っ暗になっていて、花火を燃やしているわたしたちのまわりだけがほんの少しだけ明るかった。花火の光の色に照らされた弓場の表情が、普段見かけるどこか硬い表情ではなく、砕けたものであったのでわたしはどきっとしてしまった。一人で出かけるのが本当に嫌だったのかどうかはわからない。ただ、そういうことにしているだけなのかもしれないが、それでも弓場が、彼のなかの寂しさを埋めたいと思った今このときだけでも、わたしと一緒に居たいと思ってくれていることが、純粋に嬉しかった。会話の途切れてしまったわたしたちの間では、花火の燃える音と、波の音だけが響いていた。ざざん、ざざんと砂浜の砂を食う波の音に、シュワシュワ、パチパチという花火の音がとけている。今この時が、陽の落ちた後で良かったと思った。今明るかったら、照れてしまったわたしの顔がそのまま、彼に筒抜けだったかもしれない。わたしは、外が暗いことをいいことに、弓場から目をそらして、花火の先を見ているふりをしながら、緩みそうになる頬が緩まないように、もう片方の手で隠すのに精いっぱいだった。自然の音と、花火の音だけが響くこの空間は、不思議と居心地が良かった。「結局花火してるけど、良かったの?」そう、わたしは弓場に問うた。弓場が本来、海に行こうとしていたとして、何かやりたいことがあったのかもしれないと今更ながらそう、思ったのだ。弓場は「あァ、良いんだ」と言った。「本当に?」そう、追い打ちをかけるように問えば、弓場は「あァ」とだけ答えた。
2020-05-24