小説

当たって砕ける話(中)

 みょうじが木兎光太郎というクラスメイトのことを意識し始めたのは、冬に片足を踏み入れ始めた秋のおわりの頃のことである。秋の半ばに受験した全国一斉模擬試験の結果が帰りのショートホームルームで返却された日、みょうじは自分の試験の結果が芳しくないことを覚悟していたが、それでも印字された結果を受け止めきれずにいた。いくらマークミスとは言え、点数が取れなかったことには変わりなく、受験までの日付はもう、数か月と無いこともあり、みょうじは自分の情けなさと、今まで取ったことのない最悪の点数が印字されていることの二重のショックをうまく受け流すことができなかったのである。帰りのショートホームルームの後、クラスメイトたちが帰宅して、自分一人だけが教室にいることを確認して、みょうじはひとりで泣いた。試験の結果で一喜一憂しているところを、ほかの誰にも見られたくなかったのである。結局その日の放課後、みょうじは自分が泣いているのをクラスメイトに見られてしまうのであるが、その出来事が、彼女にとって、ただのクラスメイト──とりわけ、クラスの中でもいい意味でよく目立つ木兎である──でしかなかった彼の存在を意識せざるを得なくなってしまう切欠になってしまった。「次はしないよ」とはっきりと言い切った彼の溢れる自信がどこからやってくるのかは分からない。少なくとも、みょうじにとって失敗というものは恐ろしいものであったし、次も同じことをしてしまったらどうしようということを考えれば考えるほどに、自分の自信が目減りしていくような気持ちになるのであるが、なぜか、次同じ失敗をしないという自信があった。ひとりのクラスメイトに乗せられてそういう気持ちになるのは単純すぎやしないかと思うのであるが、それでもいいように思えたのである。木兎光太郎というただのクラスメイトでしかなかった人間の一面を知らなければ、ただ泣くクラスメイトひとりを慰める言葉として終わっていたのだと思うのだろうが、木兎の一面を見てしまえば、彼のことばからくる説得力というものは恐ろしいほどに変わってくるのであった。

 図書館の閉館時間を迎え、みょうじは勉強道具を片づけて帰路につく。赤や黄色の葉が散れば、苦渋を味わった秋はもうおしまいで、鮮やかな葉をつけていたはずの木々は、空高くに向って裸の枝だけを伸ばしていた。すっかり陽は西の彼方に去り、とっぷり日が暮れた空は、まばらに星を散らし、半分欠けた月が顔をのぞかせていた。マフラーに顔を半分埋め、肩を窄めて歩く。もうずいぶんと遅い時間だというのに、体育館はまだ明るかった。部活生も殆ど帰り始めているというのに、体育館ではまだ練習を続けているようで、ボールの跳ねる音と、シューズが床をける音がよく響いていた。入り口から覗き見るように、こっそりと体育館の中を覗くと、あの日みょうじに声をかけたクラスメイトが居た。体育館の天井に向けて高く上がったバレーボールを、打つ。ボールを打つ重い音が、体育館に反響した。あのボールを受け止めたら腕が弾け飛ぶのではないかと思うとぞっとしてしまう。それでも、彼にとってはいまいちだったらしく、あまり納得のいかないような顔をしていた。十分すごいのにあれでもダメなのかと、みょうじは体育の授業でよく見るバレーボールと彼らのやっているバレーボールは、同じスポーツであるはずなのに全く違うスポーツのようだと思った。木兎は、「もう一回」と叫んだ。「まだやるんですか」そう、呆れたような声と共にまた、ボールが高く上げられる。大きな手のひらが、飛んできたボールを打つ。剛速球が反対側のコートに向かって飛んでいった。今度はうまくいったのか「フゥー!」とガッツポーズと共に調子のよい声が聞こえた。しかしながら、彼は再びこう言うのである。「なあもう一回!」「……わかりました」もしかしたら、彼が納得するまで彼の練習は続くのだろう。
 
みょうじさんだ」
「こんばんは」
「同級生なのに硬い硬い」

男子バレーボール部の面々が、体育館から大荷物を持ってぞろぞろと出てきた。木兎は未だ練習をしているようであるが、彼らはもう帰るらしい。集団の中の一人、一年生の時に同じクラスになった記憶のある男子生徒がみょうじに話しかけた。みょうじは、その顔をたしかに知っているのであるが、しっかり話をしたことが無かったので、ぼんやりとした記憶しかなく、申し訳ない気持ちになっていたのであるが、相手はそのことに一切気づいていないようであった。「どうしたの?」その彼の言葉に、「えっ」と素っ頓狂な声を上げてしまった。

「遅くまでやってるんだなって思って」
「木兎は何時もだな」
「遅くまで?」
「うん?アイツずっとやってるよ」
「そうなんだ。……のぞき見してるみたいになってごめんね」
「いや、いいよ。みょうじさんはどうしたの」
「居残りしてて、通りかかったらまだやってたから、ついみちゃって」
みょうじさんもよく遅くまでやってるよね」

勉強、よく頑張るよねと彼は言った。その表情にあったのは、すこしの呆れのようにも見えた。「そうかな」「この時間までやってるってことは相当頑張ってるでしょ」体育館の天井に向ってボールが高く上がるのが見える。高く上がったボールを、打つのが見える。今度は余りうまく行かなかったのか、首をかしげて「なあ、もう一回。あとちょっと!俺はもっとできるはずだ!」と大きな声を上げているのが聞こえた。「全然ちょっとじゃないじゃないですか」その声が聞こえてきたときに目の前の彼は、「付き合わされる方はたまんねえよな」と呆れたように言った。彼の言葉に、みょうじは素直に頷くことが出来ずにただ、曖昧に笑ってごまかした。「みょうじさんも早く帰った方が良いよ」「うん、そうする。ありがとう」彼はすでに先に歩いて行ってしまった男子バレーボール部の面々の背を追うように、行ってしまった。みょうじは小さくなってゆく背を見たのちに、ボールの跳ねる音と、床を蹴る音の響く体育館の方を見た。体育館での練習は、まだずっと続くようであった。木兎が、同じ失敗をすることに怖がる私に対して、はっきりと「もう次はしないよ」と言い切ったのは、彼自身こうして遅い時間まで納得するまで練習をしているからこそくる絶対の自信なのだろうか。周りの人間が呆れてしまうほどに練習を毎日続けることができるということ、そして、その練習の積み重ねで自分の実力に自信を持っていることをみょうじは羨ましく思った。

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 空高くに裸の枝を伸ばしていたはずの桜の木には白や桃の花がぽつぽつと咲き始め、春はもう目と鼻の先まで来ていた。みょうじは、第一志望の大学に前期試験で合格し、卒業式までの二週間程度の時間を、進路の心配をすることなく過ごせることとなった。みょうじは木兎に言われた通り、自分のミスに泣いた秋の日と同じ失敗を繰り返すこと無く試験を終えることが出来たのであった。体育館で練習を積み重ねるクラスメイトの姿に焦がれながら自分に出来ることを全てやり切って迎えた試験当日は、思ったよりも緊張しなかった。あのクラスメイトの姿が無ければ、若しかしたらここまで出来ていなかったのかもしれないと、みょうじはそう思う。みょうじは、卒業を迎えるまでにどうしても伝えなければならないことがあった。クラスメイトの木兎光太郎に、お礼と、自分の気持ちをどうしても伝えたかった。「ありがとう」と「好きです」の二言を告げるための時間はもう、あまり残っていなかった。前期試験の合格発表を聞く頃には、卒業式までもう、二週間を切っていたのである。進路が決まったことを報告しに職員室に向った時に、「穏やかに過ごせてよかったな」と教師から言われたのであるが、みょうじ自身は全く穏やかで居られなかった。卒業してしまえばもう、二度と会うことがなくなるかもしれないクラスメイトに対して、感謝の言葉と、好意のたった二言を伝える、ただそれだけのこと言われればそれまでのことなのであるが、そのことでみょうじは緊張していた。お礼と好意を木兎に告げて迷惑がられたらどうしようという一抹の不安は、みょうじの心を折るには十分すぎたのである。結局、みょうじが伝えそこね続けて二週間、あっという間に卒業式の日は来てしまった。

「木兎くん、ちょっといいですか」

卒業式の式典が終わり、教室での最後のホームルームを終えた後、そう彼に話しかけると、木兎は「どうしたの」と言った。「ちょっと、言いにくい話があって」と彼に言ったところであまり、彼には伝わらなかったようで、それを聞いていた周りの人の方が気を遣う始末であった。そのやり取りをしている時点でもう、みょうじが何をしようとしていたのかはもう周りに筒抜けであったので、人の居ないところで話そうが、話さないでいようが、もう変わりないことであった。もう自棄になったみょうじは、木兎と人の居ないところで話すことを諦めて、口を開いた。

「わたし、木兎くんが好きです。落ち込んでた時に助けてくれてありがとう」

大きな声ではないはずの、尻切れになったみょうじの声をきいて騒がしかった教室がシンと静まり返った。クラスメイトの視線が、一斉に木兎とみょうじに注がれる。木兎はキョトンとした顔をしたのちに「えっ、そんなことあったっけ?まあいいや!ありがと!」と大きな声で返事をした。みょうじにとって救いになった一言というものは、木兎にとってはなんでもない一言であったのだろうということに一抹の悲しみをたしかに覚えたのであるが、あの日の出来事が彼にとっては特別でもなんでもない、普通の事であったということは、みょうじをひどく安心させるものでもあった。あれは、彼にとってごく当たり前のことであるという事実がうれしくもあった。そして、みょうじ自身、木兎のそういうところを好きになったのだと思う。

「聞いてくれて、ありがとう」
「うん!」

静まり返った教室は再び、騒がしさを取り戻していった。みょうじは、木兎と個人的に話すよりも恥ずかしいことをやってしまったのだということに後々気づいて小さくなってしまった。しかしながら、みょうじにはそこで立ち止まっている時間は無かった。「ねえ木兎くん、最後にいい?」そう、みょうじは勇気をだして木兎に向かって再び口を開いた。「んー?」木兎は視線だけをみょうじに向って寄越す。

「木兎くんは出来るようになりたいけど出来ないことがあったらどうする?」
「んー、出来るようになるまで練習する!んで、出来るようにするよ、絶対」
「わかった。ありがとう」
「うん?」

2020-05-17