小説

当たって砕ける話(前)

 木兎が課題のプリントを教室に忘れたことに気づいたのは、部活が終わり、更衣室に戻った後のことであった。「数学の課題、プリント出なかった?」「出た出た」「三問目分かる?」「応用だっけ」「わり。俺空欄だわそこ」練習と後片付けを終え、更衣室に戻り、汗でぐしょぐしょになったシャツを脱いでいる間に、同学年の部員たちは授業で出された数学の課題の話で盛り上がっていた。同じ教員が担当しているクラスは、出される課題もどうやら同じらしい。違うのは、その週の授業が早い曜日にやってくるか、遅い曜日にやってくるかだけの違いである。木兎が今日の昼間に受けるよりも早い日に、授業を受けて、すでに課題に手をつけている面々が配布された課題について話をしていた。「問三分かる奴いねえのかよ、使えねえなあ」「精々自分の馬鹿を恨めよ」「冗談キツイわ」「どうすんだよこれ、提出日間に合う自信ねえわ」どっと笑いが起きる。彼らの話を聞いて、そういえば、今日の午後イチに行われた数学の授業の終わりごろ、鐘がなる十分前にプリントが配られたことを木兎は思い出したのであるが、配布されたプリントを何も読まずに引き出しの中に片づけてしまったので、彼らの話す課題の内容のことは、あまりよくわからなかった。しかしながら、彼らの話を聞いていると"分からない三問目"とやらが気になって仕方がなくなってしまったので、通学用のカバンからプリントを引っ張り出そうとしたのであるが、探せども探せども、プリントの姿はどこにもなかった。授業で使った教科書の間に挟まってないかと悪あがきをしてみたが、プリントの端すら見当たらない。「やべえ、プリント教室だ!」汗にまみれたシャツを放り投げて頭を抱えていると、部員たちはそんな木兎のすがたを見て笑っていた。「汚えなあ投げるなよ」「木兎うるせえ」課題の提出日は明日ではないので、今日このあとすぐに取りに戻らなくても良いと思ったのであるが、自分のことを自分以上によく知っている部員たちが口々に「提出日に課題の存在を思い出すにラーメン」「俺も」「賭けにならねえじゃん」と話しはじめたのを聞いていると、プリントを今すぐに取りに戻った方が良いように思えてきてしまう。「木兎さん、ソワソワするなら取りに行った方が良いと思いますよ」そう、後輩に背中を押され、結局木兎はプリントを取りに教室に向かうことを決めたのであった。
 
 放課後の、特に男子バレーボール部の練習が終わった後の時間は、だいぶ遅い時間になる。体育館で部員たちと別れた後、校内ですれ違うのは、用務員のおじさんか、まだ残っている教員くらいなものであった。「センセー、鍵貸して」職員室に残っていた見知った教員にそう声をかけると、「忘れ物か?遅いから早くしろよ」と少し、疲れの滲んだ声が帰ってきた。職員室にいる教員の数も、昼に比べればずいぶんまばらになっていた。自分の教室の鍵を取ろうと鍵入れを覗き込んだのであるが、自分の教室の鍵はそこに入っていなかった。「まだ開いてんじゃん」そう、やや大きめの独り言を言うと、「木兎~頼んだぞ~」と教員から、自分の教室の鍵の施錠を頼まれてしまったので、元気よく返事をして、自分の教室へと向かう。人の姿のない、放課後の校舎はいたく静かであった。蛍光灯の明かりがついていない廊下は、窓から入り込んでくる運動場の照明から差し込む青白い光が、あたりを淡く照らしている。「誰もいねえなァ」そう、木兎はひとりごちた。自分の足音と、自然と零れた鼻歌以外の音は無く、一歩あるくたびに、上履きが廊下に擦れる音と、調子の良い鼻歌が廊下に反響してやけに大きく響いた。今年度になって嫌と言うほど通い慣れた教室の前で、「よォーし!」と気合を入れ、真っ暗な教室のドア思い切り引いて、開けた。鍵は、矢張り開いたままであった。教室のドアが急に大きな音を立てて開かれたことに驚いたのか、教室から小さな悲鳴が上がる。誰も居ないと思っていた教室から女子生徒の声が聞こえてきたことに驚いた木兎は派手な声を上げながら、おそるおそる教室の電気をつけた。真っ暗な教室に居たのは、クラスメイトのみょうじなまえであった。木兎のような、クラスのムードメイカー的な生徒とは対極にいるような、どちらかといえば地味な印象を与える女子生徒で、部活は特にやっていなかったはずだった。部活をやっていない生徒はもちろん、部活生すらもう帰りつつあるこの時間の教室に、まさかみょうじが居るとは思わなかった木兎はほっと胸をなでおろしながら「……みょうじちゃんか」と言った。窓際の、彼女の自席に座っていたみょうじは、木兎の顔をみてたいそう驚いて、細い声で「び、びっくりした」と言った。

「なんで残ってんの」

そう、木兎は問うた。「気づいたらこんな時間になってた……」と少し涙声のみょうじから曖昧な答えが返ってきたのに、木兎は「へー」と自分で聞いておきながら、さして気にも留めていないような返事を返した。「そろそろ、帰る」そう、みょうじは鼻をすすりながら言った。木兎は、彼女の声の調子と、彼を見たみょうじの目元が赤く腫れていることに気づくと、彼は彼女の目元を凝視した。彼の興味半分、疑問半分といった視線に晒されたみょうじは、たじろいだ。

「な、なに……」

木兎の丸い目にジッと見つめられたみょうじは気まずそうに目を逸らした。

「……泣いてんの?」

どうしたの、と木兎は問うた。みょうじの机の上に広げられていたのは、先月行われた、全国一斉模擬試験の結果であった。彼の中ではすでに受験した出来事だけが記憶に残っていて、成績のことはすっかり頭から抜け落ちてしまったあとのものである(彼は大学受験をスポーツ推薦で受験する予定であったため、あまり学力試験のことを考えていなかったのである)。彼女の机の上に置かれていたソレを、木兎がジッと見ると、みょうじは「アッ」と言って模擬試験の結果を裏返して隠してしまった。

「……今回、点数が悪くて」

そう、彼女は木兎に向かって、言葉を濁しながら言った。まるで、悪戯のバレた子どもが、自分のやったことを親に白状しているときのような顔にも見えた。木兎は、みょうじが隠してしまう前に見えた模擬試験の結果を思い出していた。木兎でさえ名前は聞いたことのある名門大学の名前と、その横に、B判定の文字が並んでいた。「そうかぁ?」そう、木兎はみょうじにそう言った。それは、嫌味が何一つ含まれていない声であった。志望大学欄に書かれた大学のレベルのことを含めても、彼にとってB判定というものは、決して悪いと言えない結果なのではないかと思ったのである。しかしながら、木兎はそうであっても、みょうじにとってはそうではなかった。彼女にとって今回のB判定というものは、一人でこんな遅い時間まで号泣してしまうほどに悪い結果だったらしい。

「もう、試験までそう時間がないのにB判定取っちゃうなんて……」

そう、彼女は言って、またぼろぼろと涙を流してしまった。まさか、泣かせてしまうとは思わなかった木兎はぎょっとして、「えっ」と間抜けな声を上げてしまった。みょうじは伏せた模擬試験の結果をもう一度広げて、見せた。殆どの科目で八割越えの点数を取っているのにも関わらず、今回は数学の点数だけが目立って落ち込んでいた。「……試験の日に、マークミスに気づいて、間に合わなかったの」そう、みょうじは木兎に言った。木兎は「なら次はマークミスしなければ大丈夫だろ」と至極単純なことのように言った。みょうじが、キョトンとした顔で木兎の顔を見ていると、木兎は「だってさあ、マークミスしてなかったら点数取れてたんじゃないの?」と続けた。みょうじはその言葉に、今回の試験の自己採点の結果のことを思い出していた。自己採点が間違いでなければ、今回の試験でマークミスをしなければ、九割は取れていたはずである。みょうじは、木兎の言葉に黙って頷いた。

「なら問題ないだろ、みょうじちゃんそんなに凹まなくてもいいじゃん」

そう言って、木兎は豪快に笑った。みょうじは、木兎の顔をマジマジと見つめて、「そういうものかなあ……?」とひとりごちた。木兎は「そうだろうそうだろう、次はマークミスに気をつけろよ」と言って、みょうじの肩を豪快に叩いた。「でも、当日同じことをしたらどうしようって、不安にならない?」とみょうじは木兎に問うた。木兎は「理由分かってんなら、大丈夫じゃん、次はしないよ」と彼はさも当然のように言った。「えっ、そう……?そうなの?」みょうじが、木兎の勢いに押されるままにそう言えば、木兎は「うん」とはっきりと言い切った。自身の中にあった不安をその一言で一蹴した木兎の豪快さに、みょうじは呆気にとられてしまった。「そんな単純な話かなあ」そう、彼女は言いつつも、そして豪快に笑う木兎に引っ張られてつい、「ふふふ」と笑ってしまった。絶対に同じ間違いを犯さないことの確約など誰にもできないはずなのに、何故だか彼にそう言われて仕舞えば次は大丈夫というような気になってしまう。簡単に流されて単純なのは自分の方かもしれないと、みょうじはそう思ったのであるが、不思議なことに、今はそれでもいいように思えた。
 木兎は教室の鍵を持ちながら、「もう帰る?」とみょうじに問うた。すっかり吹っ切れたような表情を浮かべた彼女は「うん、もう帰る」と言った。「鍵は閉めるから帰りな。暗いから気を付けて」そう彼女に言えば、みょうじは「木兎くん、ありがとう。鍵をよろしくお願いします。また明日」と言って、頭を下げて教室から出て行ってしまった。木兎はみょうじが帰るのを眺めたのちに、教室の鍵を締めて、帰路についた。彼が、部活が終わった後にわざわざ教室に戻った理由を思い出したのは、帰宅後に広げた通学用のカバンの中に課題のプリントがないことに気づいた後の話である。
2020-05-09