小説

地に足が付いた話

「信介くん、ちと付き合うてよ」

時折ぴゅうと音を立てて吹く北風は、わたしのむき出しの首筋や、頬や、手指の先を冷やすのには十分すぎた。首筋と、コートの隙間から風が入るたびに肩を窄めてしまう。真昼間で太陽は高くに登っていると言うのに、気温があまり上がらないせいか、外は明るいはずなのになんだか暗いように思えて仕方が無かった。かじかんで言うことを聞かない手指をすり合わせて、手指を暖めるように息を吐いているわたしの顔を、信介くんは呆れたような顔をして見ていた。漸く口を開いたと思えば、彼は「無理すんな」の一言だけを、わたしに向かって言ったのである。それは、わたしが彼の真似をして喋って見せた下手くそな関西弁のことを言っているのか、それともこの寒い日に、手袋とマフラーを家に置いてきて寒がっている癖に外に出ていることを指しているのかは、分からない。それを彼に問うたところで、次にやってくるのはのわたしの心にぐっさりと刺さる説教に違いないので、この場合は何も言わずに黙っていることが正しい。

「何処行くん?」

信介くんは、そうわたしに問うた。「ちと、神頼みにでも行こ思うて」そう、信介くんに向かって言えば、信介くんは思い切り顔をしかめていた。「下手くそな関西弁使うなや」その時の信介くんの顔が本当に嫌そうだったのが可笑しくて笑っていると「なに笑とんねん」と心底うんざりしたような顔をされてしまった。

「信介くんがそういう顔しているのが面白くて」
「なんでやねん」

信介くんはあまり表情が豊かなほうではないから、表情が豊かに見えるとちょっとイイもの見た感じがして嬉しいんだよ、と言ってみたけれど、信介くんはわたしの言っていることがあまり、よくわかっていないような顔をしてわたしの顔をただ見ているだけであった。信介くんとわたしの間に、少し気まずい沈黙が走る。わたしは真顔でわたしを見ている信介くんに、「急に家に行ってごめん」と謝ってしまった。信介くんは「ほんまにな」と言った。一報を入れるよりも、彼の家をそのまま訪ねた方が早くて済むので、わたしはつい、彼に連絡を入れることをサボってしまう(一方で、信介くんはわたしに用事があるときは先に連絡を入れてくるので、わたしは彼のことを見習うべきだと思う)。今日も例に漏れず、連絡をしないまま彼の家を訪ねてしまったので、信介くんが若干迷惑そうな顔をしていても仕方が無いことであることは重々承知していた。「信介くんの時間があったらでいいんだけど……」と彼に言えば、信介くんは「別にかまへんけど」とわたしに言った。「準備するわ、ちょっと待ってな」信介君に手招きされるまま、わたしは彼の家の玄関先で待たせてもらうこととなった。彼の家の玄関先は、わたしが初めて彼の家に訪れた日からずっと変わらない。信介くんの家の玄関は何時も綺麗だった。靴は靴箱に片付けられていて、床は何時も掃き掃除がされている。わたしの家の、いつか履こうと思ってそのままになって靴箱に入り切らなくなったまま、玄関先でインテリアの一部となって賑やかになっている玄関よりもずっと、落ち着いていて、きれいだった。玄関掃除をしているのは信介くんなのだということを知った時は、驚きよりも納得の方の気持ちが大きかったのは、誰にも言えないままでいる。
 玄関先に置かれた時計の秒針が、十回も回らぬうちに、信介くんはわたしの待つ玄関先に戻ってきた。戻ってきた信介くんは、さっき見た時よりも随分と厚着をしていて、両手にマフラーと手袋を二組持って戻ってきた。信介くんは両手に持った手袋とマフラーのうち、ひと組をわたしに寄越した。

「これ、どうしたの」
「オカンの」
「貸してくれるの?」

彼は頷いた。

「……ありがとう」
「風邪引いたら困るやろ」
「信介くんのお母さんにも言っておいて」

信介くんは、わたしが信介くんから貸してもらったマフラーと、手袋を付けるのを見ていた。「どや!」信介くんに胸を張って、首に巻いたマフラーを見せると、信介くんはわたしを上から下まで見た後に、首元をジッと見て「『どや!』とちゃうわ」と大真面目な顔をして言った。

「えっ、ダメ?」
「あかんわけやないけど」

わたしの首元に信介くんの手が伸びてきた。彼の大きな手指が、わたしのマフラーに触れた。わたしが巻いたマフラーは、彼にとってあまり納得のいく出来ではなかったらしい。信介くんの手が、わたしが巻いたマフラーの位置を丁寧に直していた。「ここ空いてんねん、風入るやろ」マフラーと、首との間にできている隙間を指差しながら、緩めに巻いていたマフラーを、信介くんは首が閉まって苦しくない程度に結びなおしていた。「……ありがとう」マフラーを結び直してもらったことがなんだかむず痒くて、それを誤魔化すようにマフラーに触れていると、信介くんは「どないしたん、苦しかった?」と問うた。

「苦しくないよ、暖かい」
「ほな行こ」

「行ってきます」そう律儀に挨拶をする彼の言葉に押されるように、わたしも「行ってきます」と居間にいるだろう信介くんのお母さんに挨拶をした。信介くんのお母さんの、「気ぃつけや」という言葉に送り出されて、わたしたちは信介くんの家を出た。

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「寒いねえ」そう、わたしが言うと、信介くんは「せやな」と言った。わたしと、信介くんが口を開くと白い息が零れる。冬の終わりの気配はすこしも感じられない。木々は相変わらず裸のまま、枝だけを空に向かって伸ばしていて、芽が出る気配は未だ、ない。時折、吹く北風は剥き出しになっている頬には痛いくらいによく刺さる。「今日は部活なかったの?」そうわたしが問えば、信介くんは「今日は休みやわ」と言った。「……休みってあるの?」バレー部はいつも部活あると思ってた、とわたしが言うと信介くんは「休みくらいあるわ」と呆れたような顔をして言っていた。「休みも大事だもんね」信介くんは無言で頷いた。「本当に寒いね」春は未だこないかな、とわたしが信介くんから貸りた手袋をつけた両手をすり合わせていると、信介くんは「寒がりすぎやろ」と呆れたような顔をしていた。手袋が無い時よりはずっと暖かいけれど、それでも寒いものは寒いのである。

「もう少し暖かくなってもいいのにって思うよ」
「暑なったら暑なったで『早よ冬来い』て言うやろ」
「その通り」
「我儘やなあ」
「わたしはちょっと我儘だからね」
「ちょっと?」
「そこ突っ込まないでよ」

信介くんの家からそう、近くも遠くもないところにある神社は、有名な神社というわけではない。地元の人だけが時折訪れるような、古くからある神社である。わたしが願掛けをしに行く時に出かける先は、決まってその神社だった。畑の中に民家がまばらに立っているような、市街に比べれば随分と田舎に見えるこの景色を見ながら、畑と畑の間を走る車通りの少ない道路にある、神社への経路を示す古びた看板の矢印に従って、わたしと信介くんは並んで歩いていた。わたしよりあたまひとつ、ふたつ高いところにある信介くんの顔が、わたしを見下ろすように見ながら口を開いた。

「今回は何なん」

そう、信介くんはわたしに問うた。

「……試験、これからあるから」

そう言えば、信介くんはどこか納得したような顔をしてわたしの顔を見ていた。「緊張してんの」そう、彼はわたしに問うた。「うん、してるよ」そう返せば、信介くんはあまり、わたしの言った言葉の意味がよくわかっていないような顔をしていた。「いくら勉強して、もうこれ以上わたしにできることはないと思っていても、やり足りないような気がするんだよね」そう信介くんに言えば、信介くんは「やれることもう全部やってんねやろ」と言った。「あとやってないことといえばお祈りくらい」そう言えば、信介くんはどこか納得したような顔をしていた。「わたしは見栄っ張りでよくばりだからさ」そう信介くんに言えば、信介くんは「知っとる」と即答した。

「今までの一番を当日に出したいって思っちゃうんだよ」

だから、一番良くできますようにってお願いして、できることは全部やったことになると思う、と彼に言えば、信介くんは、わたしの言うことがやはり、よくわからないと言いたげな顔をして見ていた。「……」彼が、それを言葉にして言うことは、なかった。彼に言われなくとも、わたしには彼の言いたいことがとてもよく分かっていた。今までできていることしか、できないのだと言うことを彼はとてもよく、知っている。そして、その彼の考えを、わたしは心の底では正しいと思っている。練習で出来ていないことが本番で出来るわけがないということを、わたしは腹の底ではそう思っているのに、それでいながら今まで以上の成果を出したいと望んでしまう。信介くんはわたしのその愚かな考えを否定することはあれど、肯定したことは一度もなかった。信介くんの言うことは、決して間違っていない。わたしが考えていることが高望みであることは自分でも自覚しているのである。そんなわたしが、一縷の望みをかけて、こうして居るかどうかも分からない神様とやらに祈ることを、信介くんは言葉にだして否定することはなかった。わたしの我儘に付き合ってくれてはいるけれど、この行為が彼にとっては余り意味をなさない行為であると考えているのかもしれないと、わたしは思う。一つ目の鳥居をくぐり、石畳の階段を上る。体力のないわたしが、階段の中ごろで肩で息をしているというのに、信介くんは少しも息を乱していなかった。「信介くん、体力あるね」そう、当たり前のようなことを言えば、信介くんは「バレーしてるしなぁ」と言った。階段を上り切って、二つ目の鳥居を潜り抜ければ、拝殿はすぐそこであった。古びた木造の拝殿を目の前にして、「……行ってくる」そう、わたしが信介くんに言うと、信介くんはわたしを黙って見送った。わたしが財布から五円玉を出して賽銭箱の中に放り込み、見たことのない神様とやらに祈っている間、信介くんはいつも後ろの方で、神さまに祈るわたしと、古びた拝殿をぼうっと眺めているのである。試験の結果が今までの中で一番いい結果でありますように、と祈りに来たはずだったのに、わたしが神さまに願ったのは結局、試験当日に平常心で取り組めますように、というわたしにとっては随分控えめな願いごとになってしまった。

「もうええんか」
「もうええよ」
「下手くそな関西弁使うなや」

信介くんが心底嫌そうな顔をしてそう言うのが可笑しくて思わず笑ってしまった。「普段通りに出来ますようにってお願いしてきたよ」そう信介くんにいうと、信介くんは目を少し丸くしてわたしの顔を見ていた。「控えめやな」そう彼は言った。今までで一番いい結果がでますように、なんてことを願おうと思っていたけれど、結局願ったことは自分の実力が発揮できますように、というわたしにとっては随分堅実な願い事になってしまったと思う。「最初はそのつもりだったけど、ちょっと図々しいかもって思って」そう言えば、信介くんは不思議そうな顔をしてわたしの顔を見ていた。よくばりなわたしが、あまり欲のない祈りを込めるのがそんなに珍しいものなのかと、そう問えば「せやな、」と彼は少し考え込むようなそぶりを見せた後に、「らしくないやん」と言った。「そうかも」たしかに、それは彼の言う通りだとわたしも思う。拝殿で五円玉を投げて、手を合わせている間に、後ろでわたしのことを待っている信介くんのすがたを思い出したりしなければ、こうはなっていなかったのかもしれないと、自分のことながら他人事のようにそう思った。
2020-05-02