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「眠れないのか」
「わ、起きた?」
「起きた」
わたしが暫く空を眺めて、遠い所に消えてしまった眠気を恋しく思っているときに、突然声をかけられたので驚いてしまった。持っていたスマートフォンを落としかけたのを見た匡貴が「驚かせたな」と言った。わたしは「ちょっとびっくりした」と彼に言えば、匡貴はおはよう、とわたしに朝の挨拶をした。「おはよう」朝の挨拶をするには空はまだ暗いし、夜明けだってまだ来ていないから「まだちょっと早いね」と返せば匡貴は「起きた時間が朝だろう」と未だ眠気の残る声でそう言った。「そういうもの?」そう問えば、匡貴は「そういうものじゃないのか」とぼんやりした様子で言っていた。若しかしたらまだ、匡貴は半分くらい眠っているのかもしれない。寝起きの匡貴を見る機会があまりないので、匡貴が普段から寝起きは何時もよりぼんやりしているのかも、少し抜けているような様子なのかは分からないけれど、なんだか何時もの匡貴より一拍調子がズレているように思えてなんだか調子が狂う。窓越しに壁のように立っている匡貴は、目がまだ眠りの方に引っ張られているのか、眉間に皺を寄せて未だ眠そうな顔をしていた。
「二度寝しないの?」
「しない」
窓を背もたれにするようにして床に座った匡貴の背に向けて話しかけると、匡貴は「眠れねえ」とぼやいた。「なに、寂しい?」そう、調子に乗って茶化すように言えば、匡貴は「かもな」と顔だけをこちらに向けて言った。その表情が真顔だったので、わたしはドキっとしてしまった。
「本当に?寂しいの?」
「冗談だ」
「……匡貴の冗談は心臓に悪いよ」
「そうか?」
「冗談だと分かりにくいところがなお質が悪い」
匡貴はそんなわたしを鼻で笑っていた。本当に冗談だったのだろう。匡貴はたまに冗談のようなことを言うことがあるが、顔は何時もの仏頂面であることが多いからか、本気で言っているのか冗談を言っているのかがわかりにくくて何時も真に受けてしまう。そんなわたしを、匡貴は可笑しそうに笑っているのだ。もう少し分かりやすい冗談を言って欲しいと言ったことはあるけれど、匡貴は不思議そうな顔をするだけであまりよくわかっていないようだった。若しかしたら、本人としては分かりやすい冗談を言っているつもりであるにもかかわらず、わたしがよくわかっていないだけなのかもしれない。「よく言われない?」冗談が分かりにくいって言われるでしょう、と問えば匡貴は「無いな」と即答した。嘘でしょう、と言いたくなったけれど、それ以上言うと彼が少し面倒臭そうな顔をしそうだと思ったので言うのはやめておいた。
「お前は寝ないのか」
「目が覚めちゃって、眠れないから起きたの」
寝ようと思って布団で目を閉じてみたけどダメだったんだよ、と言えば匡貴は「そうか」と言った。「匡貴は何で起きたの」そう問えば、匡貴は「知らねえ」とぼやいた。「起きようと思って起きたわけじゃねえよ」そう、彼に言われたのであるが、それも尤もな話だと思ったら可笑しくなってしまって、つい笑ってしまった。「別に冗談は言っていない」そう、匡貴は大真面目な顔をしてわたしに向かって言うのであるが、それが余計に面白くてわたしは笑いが止まらなくなってしまった。まだ夜遅いというのに、ベランダで大騒ぎすると迷惑になるだろうと思って、一生懸命声を抑えたのであるが、それでも笑い声が漏れてしまう。匡貴はそれをしかめっ面をして見ていた。
「そんなに可笑しいか」
「面白かった」
「俺はたまにお前が分からなくなる時がある」
「そう?」
「ああ。お前の笑いのツボは未だに分からん」
わたしも匡貴のことは知らないことが多いよ、と彼に言えば、匡貴は不思議そうな顔をしてわたしを見た。
「そうか?」
「うん」
だって朝はわたしより早いし、夜はわたしより遅いから寝てるときの匡貴の顔は知らないし、起きたばかりのちょっとぼんやりしてる匡貴の顔もわたしは知らなかった、一緒に寝起きすることも結構な回数あるはずなのに、わたしは何も知らなかったよ、と言えば匡貴は思い切り顔をしかめていた。彼としてはあまり見られたくないものなのかも知れない。匡貴は「知らなくても良いだろう」と誤魔化すように言った。「匡貴って寝てる時ちょっとカワイイよね」そう追い打ちをかけるようにして彼に言えば、匡貴は「自分の寝顔を見たことが無いから分からない」と大真面目な顔をして言った。「今度撮っとこうか」撮れたら写真見せてあげるよ、と冗談めかして匡貴に言えば、「いらねえ」と匡貴は思い切り顔をしかめていた。
「自分の寝顔見て喜ぶ奴がどこにいるんだ」
「匡貴がレアケースかもしれないじゃん」
「残念だったな」
「お前の寝顔でも見るか?」と匡貴はわたしに問うた。たしかに、自分の寝顔は余り見たいものでもないなと思ったので「いらない」と返すと、匡貴は「それは残念だな」と微塵も心のこもっていないことを鼻で笑いながら言っていた。「……あるとか言わないよね」そう、わたしが匡貴に問えば、匡貴は小首をかしげて見せるだけで何も言わなかった。こういう時に可愛い顔をして誤魔化そうとするなと思ったので、匡貴にさらに問い詰めれば「撮ってねえよ」と匡貴は鼻で笑って言った。「今度、匡貴より早く起きたら絶対撮る」そうわたしが言うと、匡貴は呆れたような顔をして「無理だろうな、お前は寝るのも起きるのも俺より遅いだろう」と言った。たしかに言われてみれば、わたしが匡貴の寝顔を撮れる機会なんて、今日くらいなものだろう。そう思えば、なんだか勿体ないことをしたような気がしたので「失敗した」と素直に言ってしまった。「残念だったな」匡貴は鼻で笑ってそう言った。「惜しいことをした」そう素直に言えば、匡貴は「もう二度とその機会は来ないだろうな」と真顔で言っていた。
「でも次があるなら今度はちゃんと撮っておかないと」
「次は来ない」
「来るかもしれない」
「来ても撮るなよ」
「撮っても匡貴にバレないようにしておく」
「俺に隠し事が通用すると思っているのか」
匡貴は鼻で笑って言った。匡貴に隠し事をしようと思ってしたことは無いから分からないな、と思ったけれど朝起きてすぐに匡貴にバレないように、こっそりキスをしたことを思い出して顔が熱くなった。匡貴が部屋の中に居て、外が暗いことをいいことに、わたしは匡貴の方からベランダの方へと顔を向けた。それに目ざとく気づいた匡貴が、「……隠し事でもしているのか?」と問うのであるが、これ以上触れて欲しくなかったので「何もないです!」といつもよりもよく回る口で言い切ってしまった。「バレて困る隠し事はやめておけよ」匡貴を盗み見ると、彼は訝しげな顔をしてわたしの方をジッと見ていた。早口になりすぎたことと、わたしがあまりに必死すぎる振る舞いをしたせいで余計に疑われることになってしまった。結局のところ自分で墓穴を掘ってしまっている。たしかに、匡貴の言うとおり、わたしは彼に対して隠し事をするのができないのかもしれない。
「……えっと」
「怒るかどうかは内容による」
匡貴の方に向き直ったわたしが言い訳をする前に、匡貴に先手を打たれてしまった。匡貴はすっかり眠気が無くなってしまったのか、何時もの仏頂面で、わたしに向けて鋭い視線を向けている。悪いことをしたわけではないのであるが、なんだか居心地が悪くて彼から視線を逸らしてしまった。
「……寝ている匡貴の唇を奪いました」
「そうか」
「それだけ?」
「叱られたかったのか?」
「いいえ!」
初めてでもないし、別に減るものでもないだろ、と匡貴は言っていた。「お前の隠し事はそれだけか?」そう、彼はわたしに問うた。わたしは「……そうです」と素直に彼に向かって言うと、匡貴はキョトンとした顔をして、わたしを見たのちに腹を抱えて笑い出した。表情筋があまり動かない匡貴が破顔して笑うのが珍しく、わたしはマジマジと匡貴の顔を見てしまった。「笑いすぎでしょ……」そう言えば、匡貴は一頻り笑ったのちに「悪い」と言っていたがまだ笑いの波が引かないのか、笑いを堪える努力はしていたようであったが未だに笑っているのは外から見てもすぐに分かった。
「匡貴のことたまに分からなくなる」
「なんの話だ」
「匡貴の笑いのツボってよく分からない」
「その話さっきもしなかったか?」
「した気がする」
わたしはため息を吐いて、ベランダから外を見た。東の果てがうっすらと白みはじめている。やみいろの空も、東の果てから上がりはじめた太陽のせいか、うっすらと空が焼けていた。「匡貴、見て」わたしは、部屋の中にいる匡貴をベランダに呼んだ。匡貴は「なんだ」と言ってわたしにされるがまま、ベランダに出てきた。東のほうを指差すと、匡貴もそちらの方を向く。のぼりはじめた朝日が、匡貴の精悍な横顔を照らしている。「夜明けだ」そう、わたしが言うと、匡貴は「ああ」と相槌を打った。「きれい」わたしの唇から、自然と言葉が溢れた。「……そうだな」匡貴はそう言って、わたしの方を向いた。「……どうしたの」わたしの顔を、匡貴はジッと見たのちに、キスをした。まるで、わたしが彼が眠っている時に隠れてこっそりとしたキスのような、触れるだけのキスである。わたしが何も言えずに黙って匡貴の顔を見ていると、匡貴は「おはよう」と言った。「……うん」おはよう、なんて匡貴のように平然として返すこともできなかったわたしはただ、黙り込むことしか出来なかった。もう起きたと思っていたのに、やっぱりまだ彼は寝ぼけていたんじゃないのか。こういう時にキスするような人じゃないだろう、そんなことを言おうとしたけれど、これはわたしがたださっきしたキスを返してきただけかもしれないと思えば余計に恥ずかしくなってしまった。先ほど引いたばかりだというのに、顔にまた熱が集まって来た。
「えっと、あの、お、はよう」
「動揺しすぎだろ」
匡貴はそう、呆れたような顔をして言った。匡貴の表情は、わたしが普段よく見慣れたものに変わりない。わたしは顔の熱を冷ますために、匡貴とは逆のほうを向いた。西の果ては未だ、やみいろの空が広がり、星が瞬いている。夜の終わりはもう、すぐ目の前まで来ている。
2020-04-11