小説

 彼女が俺に「約束をしたでしょう」と言ったのは、そのちょうど翌年であった。彼女との約束のことは、よく覚えている。去年の春の夕方、久しぶりに出かけた砂浜のある海で、俺は彼女とまた出かけることを約束していた。俺は彼女の身体を抱えていたし、彼女は俺のくびに腕を回していたので、その日指切りげんまんをしたわけではない、ほんの口約束をしただけであったのであるが、あの日の約束のことは、しかと覚えていた。その日が彼女と久しぶりに出かけることができたから余計に色濃い記憶として残っていたのかも知れぬが、あの日の約束は俺にとって絶対に忘れてはならないものだと思っていたし、その約束を果たすことを俺が強く望んでいたからなのかも知れない。「ああ」俺の腰のうえあたりにある彼女のまるい双眸を見て、俺はそう答えた。「いつがいいんだ」彼女にそう問えば、彼女は「准の暇なときならいつでもいいよ」と言った。「わたしは一人で歩いていけないから、准が暇なときじゃないといけないよ」となまえは自嘲的な笑みを浮かべてそう、言った。俺は、なまえの浮かべるその表情があまり得意ではなかった。こうなってしまったのは、なまえのせいでは無いし、彼女がそういう目にあった日に、なまえの傍に居れれば今のような状態になっていなかったのかもしれないなどという、自意識過剰なことをつい、考えてしまうので嫌だった。無意識のうちにそれが表情に出ていたのか、なまえは俺の顔を見て「ごめん」と言った。かといって、彼女に謝ってほしいわけではなかったので、俺はなまえに「いや、俺こそごめん」と言った。誰が悪いわけでもないのに俺となまえは互いに謝罪の言葉を吐いて、黙ってしまった。なまえと俺との間に、居心地の悪い沈黙が流れる。俺は早くにこの悪い空気をどうにかしたくて、なまえに予定を問うた。「なら、今日はどうだ?」自分で言っておきながら急すぎるな、と思った。なまえは「これから?」と小首を傾げてそう、言った。「……急すぎたな」なまえの都合も考えないでいきなりすぎる、と言えばなまえは「いいよ」と言った。「早く出かけたいと思ってたから」そう、なまえは俺の目を真っ直ぐに見て言った。車椅子に乗るようになって、自分一人で身動きを取るのが難しくなってから、なまえはあまり外に出たいと言わなくなってしまった。俺が連れ出したりでもしない限りは、一人部屋で時間を潰しているなまえが珍しくそのようなことを言ったので、つい聞き返してしまう。

「出かけたいところでもあったのか?」
「……場所はどこでも良いんだけどね。ほら、准が誕生日プレゼントをくれたから」

彼女の言う誕生日プレゼントというものには覚えがあった。なまえが十九になる年の誕生日プレゼントに、新しい靴が欲しいと言ったので、それをプレゼントした記憶がある。とはいえ、なまえにプレゼントを渡したのは彼女が十九になる年の夏ごろ、俺の誕生日を通り越してすぐだった。なまえは相変わらず、俺に誕生日を教えてはくれなかった。なまえは律儀な性格をしているので、その年に誕生日プレゼントを貰っても、自分の誕生日が通り過ぎてからで無ければ箱を開けることは無かった。ということはまた、俺はなまえの誕生日がいつかを知らぬままなまえの誕生日が通り過ぎたことを、俺はなまえの誕生日の後に知ったことになる。「……いつだったんだ」そう、なまえに問うたが、なまえは黙って首を横に振るだけであった。「おしえてあげない」なまえは照れくさそうに笑いながら、そう言った。減るものでもないし、教えてくれてもいいじゃないかと言ってもなまえは相変わらず教えてくれなかったし、俺が彼女の母親に聞くことが禁じ手であることの約束を破ってまでは知りたくなかったので、俺は相変わらずなまえの誕生日を知らぬままである。

「准が誕生日にくれた靴ね、ちょっとかわいすぎない?」

そう、なまえは俺に言った。なまえにあげた靴は、ちょうど、今の季節のようなパステルカラーのパンプスだったように思う。「流行り、過ぎてないか?」特に女性のファッションの流行りは早くに通り過ぎるだろう、そう言えばなまえは黙って首を横に振った。「准がくれたことがわたしにとって大事なんだよ」そう、なまえは言った。

「そうか?」
「うん」

なまえはそう言って、照れくさそうに笑っていた。

「あまり買わない色だったから、ちょっとびっくりした」
「そうか?」

なまえの家の靴箱までマジマジと見たことは無いので、なまえが普段どんな色合いのものを買っていたかまでは分からない。

「でも、准があの色をわたしに似合うと思って買ってくれたなら、わたしはあれが似合うのかもしれないってちょっと己惚れた」
「己惚れてくれ」
「そう言われると思って靴に合わせて服も買っちゃった」
「……そうか」

なまえはそう、恥ずかしそうな顔をして言った。俺には女の人のファッションにたいそう疎いので、なまえの言う服がどのようなものかはあまり想像がつかなかった。なまえは「ちょっと着替えてくるから一時間半後にまたね」と言ってなまえが自分の家に戻ろうとするので、俺はなまえの車椅子を押して向かいの家に行くことになった。「准は準備とかいいの」そう、なまえは言ったのであるが、今から準備をすると言って部屋に戻るのも、やけに気合が入ってるようで照れくさかったので、「俺はいいよ」と答えた。なまえは「そう。じゃあちょっと待たせるけどごめんね」と言っていた。


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なまえは彼女のいうきっかり一時間半後に、部屋から出てきた。パステルカラーのパンプスに合わせた、柔らかい色合いのワンピースを着たなまえが、「お待たせ」と言った。確かに、俺の知るなまえはあまりそう言う色合いの服を着ているところを見たことが無かったなと今更ながら思った。「……何か言うこと無いの」なまえは俺の顔を見て、そう言った。「……似合ってるよ」この時に、可愛いと言えばいいのか、それとも綺麗だと言えばいいのか、彼女を褒める適切な言葉が浮かんでこなかった俺は無理やりひりだした言葉をなまえに向って言った。なまえはその、俺が言葉に悩んだことに対してツンとした顔をして、「なにその溜め」と言っていた。「違う、似合わないとか、そういう意味じゃないんだ」と必死になって言えば、なまえはくすくすと笑った。「分かってるよ」だって准、嘘つけないもんねと言ってなまえが更に笑うので、俺はなまえに向って曖昧に笑って誤魔化した。なまえの着替えの手伝いをしていた彼女の母親に挨拶をして、車椅子に乗るなまえに手を貸した。「一人で乗れるよ」なまえはそう言うのであるが、俺はこういうときくらい頼ってくれても良いじゃないかと思ったので、それをそのままなまえに言った。なまえは「……わかった」と渋々と言った顔をして俺に言った。なまえが靴箱から見覚えのあるパンプスを取り出そうとしたので、彼女の代わりにそれを取った。成程、たしかに彼女の家の靴箱の入っていたなまえのモノだろう靴の中で、その色のパンプスは色が明るすぎたので、彼女のいうあまり履かない色ということに納得した。

「これでいいのか?」
「うん」
「悪い、触るぞ」
「はい」

なまえの足元に跪いて、なまえの右足の足首に触れた。華奢な足首に触れて、見覚えのあるパンプスに足先を通す。指先を痛めないように、ゆっくり靴を履かせて踵まで収めると、なまえは「もっと一気にやっていいよ」と言った。

「痛めたら嫌だろう」
「そんなことで痛むほどヤワな足じゃないよ……」

確かに足は動かないけどさ、となまえは少し照れくさそうな顔をして言った。同じように、出来るだけ丁寧に、足を痛めないように左足にも靴を履かせる。

「靴、抜けたりしないか?」
「大丈夫だよ」

俺の問いに、なまえはそう答えた。「それじゃあ行ってきます」そう、リビングに居るだろう彼女の母親に向けて俺となまえは挨拶をして、家を出た。


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「今日はね、川の方に行こうよ」
「海じゃなくていいのか」
「川の方、今だと桜とか咲いているから」
「わかった」

俺はなまえの車椅子を押しながら彼女に話し掛けた。

「暖かくなったな」
「うん」

時折吹く強い風が、なまえの髪の毛を揺らす。「春一番ってヤツだ」なまえはそう言って笑った。「そうだな」車椅子を押して、川べりを俺となまえは歩いていた。川に沿って植えられたソメイヨシノが、誇らしげに白や桃の花を付けている。さみしい枝のみを空に向かって伸ばしていた冬は終わり、今はもう、春がやってきている。心地の良い風が吹くたびに、なまえは伸びた髪の毛を抑えていた。「髪の毛、せっかく綺麗にしたのにダメだ」そう、なまえは言っていたけれど何処か楽しげに聞こえたのはきっと、気のせいではないはずである。「准」なまえが、俺の名前を呼んだ。「どうした」なまえにそう、返事をすると、なまえは「見て」と言って指をさす方を見た。川に沿ってできた桜並木が、ずっと遠くまで続いている。俺と、なまえの居る場所からは、川の果ては見えない。永遠に続く桜の道と、川が続いているのである。なまえはそれを見て、楽しそうに笑って俺にそれを見るように言うのである。「花がすごい、咲いてる」なまえは、興奮気味に、俺の方を振り返ってそう言った。「ああ、そうだな」再び前を向いたなまえの唇から、声が漏れた。「綺麗」俺は、なまえの言葉に同意して、なまえの視線の先を追った。「もう少し、行こう」そう、俺の唇から自然と零れた。なまえが、俺の名前を呼んだ。「准」なまえは俺の方を向いて、俺の顔をジッと見ていた。「准が連れて行ってくれるなら、何処までも行くよ」そう、なまえは言った。俺は「ああ、一緒に行こう」と彼女に言ってまた、車椅子を押した。
2020-04-06