小説

花冠

「やあ、姉さん。元気そうでなにより」
「マクギリス……」

 マクギリスが血どころか家の繋がりもなくなってしまったわたしのことを、未だに「姉さん」と呼ぶ理由が何なのかがさっぱりわからない。朝日の色をそのまま抜き取ったような綺麗な金色の髪の毛は、わたしと彼との間には血の濃さを示しているようであった。彼の持つ、貴族の令嬢をも振り返らせるような甘い目元も、誰もが羨望するような美しい金髪も、どれもわたしには持ち合わせていないものだった。わたしと彼との接点というのは、同じ屋敷に生活をしていた時期があるということだけだった。貴族の身分を捨てて、住んでいたファリドの家から離れた場所、郊外に一人で住むには広すぎない程度のこじんまりとしたアパートを借りて、わたしはのびのびと生活をしていた。その静寂が終わりを迎えるのは突然のことで、それはわたしが家のことをすっかり脳みその向こう側へと追いやった時に足音を立てずにやってきたのだった。

 滅多に来ない客人の来訪を知らせるチャイムが鳴ったのは、正午のお日様が西側に傾き始めた頃だった。わたしは通信販売で先日購入したばかりの洋服が届いたのだろうと思い込んで意気揚々とドアを開けてしまった。それが、運の尽きとなるなど、ドアを開けるまでのわたしは思っていなかったのだ。少しだけ考えてみれば、まさか海を隔てた向こう側の国から発送された品物が、一日二日で届くわけがないことくらい分かりそうなものだというのは、開けた先に立っていた客人の姿を見たときに気づいたのだからもう遅い。ドアの向こう側に居たのはわたしが楽しみに待っていた郵便屋さんではなく、顔すら記憶の向こう側に追いやってしまった血の繋がらない弟だった男の姿だった。別れたときにはすでに、わたしよりもずっと大きかったその体格が、ギャラルホルンの軍服に身を包んだことによってさらに大柄に見えるのだから、錯覚とは不思議なものだと関心してしまったほどだった。開けてしまったドアを閉めてしまおうと、引いたドアを押したところで、彼の力には叶わなかった。彼もまた、わたしと反対の方向に、ドアを押したのだから、ドアの位置は、うっかりわたしが開いてしまった場所からそう変わっていない。それどころか、マクギリスが押してくる力の方がずっと強いのだから、ドアはむしろ開く一方だった。

「ひどいなあ、姉さん」

わたしの部屋へと無理やり身体をねじ込んだ弟だった男は、胡散臭い笑みを浮かべてそう、言い放ったのだ。

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「姉さんが家からいなくなってからもう何年だろうな……ああ、私が成人するかしないかの時だから、もう何年だろう……」
「わたしが18の時よ。あなたもね。それから逆算したら分かるはずだけれど」
「ああ」

 マクギリスはわたしのことを姉と呼ぶが、わたしと彼の年齢差は数ヶ月に等しい。ただ、先にファリドの家にいたのがわたしだったというだけで、誕生日自体はもしかしたら、彼の方が早いのかもしれない。まだ同じ屋敷に住んでいたときに、「もしかしたら、マクギリスの方が兄である可能性だってあるはずだけれど」と彼に問うたことがあるが、マクギリスは楽しそうに笑うだけだった。

「そうかもしれない。けれどなまえ姉さんは私が兄であろうと、"兄さん"とは呼んでくれないだろう」

 彼は貴族のご令嬢を相手にするときのように柔らかく笑っていたのは、記憶に気持ちが悪いほどにこびりついている。彼がそう述べたときに感じた背中を駆け上ってくる悪寒は、家を出て暫く経っても忘れることができなかったほどだったのに、なぜ彼のその言動に対して恐怖を覚えてしまったのかは今でさえわからない。ファリドの家を飛び出して、記憶にない母親の名乗っていたファミリーネームを名乗るわたしのことを、彼が一体どんな魂胆で私のことを「姉さん」と呼ぶのかも、わたしにはわからない。マクギリスはわたしを姉と呼び、わたしの機嫌を上手に取ることも出来る器用な人間であったが、わたしはまだマクギリスが弟だった頃でも、彼の心が何に対して作用しているのかなどはさっぱり理解できなかったように思う。

「入れてくれるとは思わなかった」
「無理やり入ってきたの間違いでは?」
「姉さんに通報される可能性だってあるだろう?」
「へえ、通報される覚悟が有ったと」
「いや、姉さんはそんなことをしないという事くらい分かっているさ。『姉さんが恋しくて仕方がなかった』と言う可愛い弟のことを、弟に甘い姉上は断れないはずだ」

そうだろう――そう、わたしが何も言えなくなってしまっているのを満足げに深い青色の瞳を細めて笑った。マクギリスは、わたしの狭い部屋を興味深そうに見回す。「狭いな」そう、失礼極まりないことを言うのだから無性に腹が立った。

「嫌なら広いお屋敷にお帰りになられては?」
「客人をそう追い出すものではないよ」

マクギリスはどこ吹く風という顔をしていた。お情け程度のもてなしとして注がれた、対して美味しくないだろうインスタントのコーヒーを飲んでも彼は味に対する文句は何も言わなかった。ただ、彼はわたしに対して、最近何をしているだとか、そういう話を振ってきたがそれをはぐらかし続けていれば、彼は諦めたのか今度は勝手に自分の話をし始めていた。見ての通り、ギャラルホルンの中でも、年齢の割にそれなりに偉い職位について仕事をしているのだと言う。イズナリオ――血縁上の父親も、軍属であったけれど、軍などこれっぽちも興味のなかったわたしには父親がどれほど偉い人間かなど、知るはずもない。

なまえ姉さん」
「わたしはもうあなたの姉でもなんでもありません、マクギリス」
「血はつながっていなくとも、貴女は私の姉だ」
「あなたとの共通点などファリドの名を冠したことがあるというだけでしょう。そのファリドの名もわたしはとうに捨てています」

 わたしは聞き分けの無い子どものように可愛げのない駄々を捏ねる弟だったひとに対して、ピシャリと言い切った。わたしはもうすでに、ファリドの家の子どもではない。母親が今どうなっているのかも、父親がどうなっているのかも、わたしは知らない。ファリドの苗字を捨てたわたしにはそれを知りたくとも、知る権利など一切無いのだから。ただ知っているのは、マクギリスの母親が父の妾だったという話だけで、それも直接本人から聞いたわけではない。マクギリスの母親――つまり、わたしの父の妾に当たる女性――の存在が他の人間の唇からこぼれたために知り得ただけだ。

 わたしと血のつながっていただろう実母の存在は、物心着いた時には既に母親といわれる女の存在がそばにはいなかったのだから、本当にファリドの娘なのかと問われても、それを上手に証明する術をわたしは持たない。白い卵から生まれたひよこを見たときにひよこに親を問うても小首をかしげて可愛く鳴くだけであるように、わたし自身も母親の存在を問われてしまえば可愛らしくそこで笑うことしかできないのだ。わたしにも、マクギリスにも言えることは、わたしたち二人にとっての母親像というものはひどく曖昧で、不確かで、概念として脳みその中に蜃気楼のようにぼうっと存在しているだけであるということだけだろう。

「姉さん」
「だからわたしはマクギリスの」
「姉さん。貴女が何を言おうが、貴女は私の唯一無二の姉だ。生まれたばかりの雛鳥が、近くに居たものを母親と思い込むように、私にとっての姉という存在がなまえ、貴女だったいうだけの話さ」
「マクギリスはわたしにあなたの姉であることを求めていると?」
「……言ってしまえばそうかもしれないな、母性を求める男だってこの世にはいるだろう?姉を求める人間がいてもおかしくはないと思うが」
「そこにわたしの意思は?」
「そうだな。できれば何も言わずにそのまま笑っているといい。姉であること肯定する必要はない。私がただ、あなたを姉だと言いたいだけの話なのだから。それとも私のことを弟として扱うのは嫌だと?」

なまえ姉さん」そう、優雅にマグカップに口を付ける男の姿と、わたしを姉だと慕う弟だった男の姿はどう考えてもうまく重ならない。マクギリスはわたしのことを姉という形に縛り付けようとするけれど、わたしはマクギリスのような、内々に蠢くどす黒い感情を飼った人間の姿をした何かを、自分の弟として見ることなどできることは到底できないと思ったからだ。マクギリスの、青を深く深く沈めたような色をした瞳が、わたしには到底につかない彼のその冷たい色をした目が、わたしの身体を射抜く。わたしを支配するのは、目の前の人間ではない何かに対する焦燥感だけだった。

2020-04-04