小説

素直#2

あの日から泉くんの姿を見ることはなくなった。

今まであれだけ嫌いだと言ってもしつこいくらい訪ねてきた泉くんの姿がなくなってせいせいしたはずなのに、何故かわたしの心はそわそわとして落ち着かなかった。学校に行かなくなったわたしは、寝て起きて気まぐれにご飯を食べて、またベッドに沈むだけの生活をしている。最初のうちは「いい加減に学校に行きなさい」と母は言っていたけれど、わたしが部屋に籠城し続けてからはもう何も言わなくなってしまった。きっとわたしという子どもには何を言っても無駄なのだろうと諦めたのかもしれない。"あの時と同じように"。

夏の終わりにやかましく鳴いていた蝉たちは次第になりを潜め、夕方ごろから鈴虫たちが姿を表すようになった気がしたけれど、気づいたらそれもなくなってしまった。窓の外では虫たちが季節の移り変わりを謳い、目が覚めた時に感じる空気の冷え込みから、わたしがどれくらいこもり続けているかを知らせてくるけれど、わたしはカーテンを締め切って、自分の部屋から向こう側の世界を拒絶した。あんなに嫌なことばかり思い出すからと見たくなかった制服も、制服をクリーニングに出してまで消したかった泉くんの思い出も、そして泉くんの姿も目に入らないのに、何故かわたしの頭をよぎるのは「もう出て行ってよ、二度と来ないで、泉くんなんて嫌い」とわたしが叫んで泉くんを拒絶したときの彼の顔だった。わたしの外の世界の人たちを魅了してやまない、わたしが欲しいと思ってもきっと手に入れられないだろう宝石のようにきらきらと光る青い瞳をまん丸にしてわたしを見たあとに少しだけ悲しそうに笑って、「そっか」とだけ言って部屋から出ていった、泉くんの姿だった。いつの間にか身長が止まってしまって、誰かの肩の下にすぐ埋まってしまうようなわたしよりもずっと身長が高くなって、わたしの身体を覆い隠してしまいそうなほどにずっと大きな背中をして、部屋の中でずっと一人ぼっちでいるわたしとは全然違う、明るい前の方へと歩いて行くわたしが羨望した泉くんの姿には似てもにつかなかった。嫌気がさすほどわたしに構い続けながらわたしをおいて一人で歩いていく、わたしが一番嫌いな泉くんの姿ではなくて、きっとこの世の誰よりもわたしが一番よく知っている泉くんの後ろ姿だった。

わたしの知らないところに勝手に行ってしまう泉くんなんて嫌いだって、わたしの中に入り込んでくる泉くんのことが大っきらいだなんて言っていた癖に。泉くんがいなくなった途端にわたしの心臓はギュウギュウと縮こまってドクドクと嫌な音を立てるし、落ち着くために深呼吸をしても、ヒュウヒュウと肺から空気が抜けていくようにいつまでも満たされない。まるで両手でしっかり持っていたはずのモノがいつの間にか、指の隙間からこぼれ落ちてなくなってしまったように。わたしは泉くんのことを嫌いだと言いながら本心は全く別のところにあったんじゃないか。認めたくなくても認めざるを得なくて笑えてきた。あんなに嫌いだって言いながら、自分から拒絶しておきながらこうなってからまた戻ってきてくれってそう思うなんて馬鹿の極み以外の何者でもない。そう思ったら自然と涙が出てきて、拭いても拭いても涙は止まることを知らないようにぼろぼろと溢れてきてしまうのだから不思議だ。泣いたって状況が変わらないことなど、もう分かっているのに。お願いです、あの時泉くんに大っ嫌いだと言わないし、泉くんにひどいことばかりいってごめんなさいってきちんと謝るから。だから時間を戻してくださいと、いるかもわからない神様に祈ったり、わたしが泣き叫んだところで意味などないだろうに。

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冬はきらいだった。夏はもっと嫌いだった。
暖房を入れることすら億劫になってしまったわたしのいるわたしの部屋は外気とそう変わらない温度なのかもしれない。布団から顔だけを出して息をそっと吐けば、吐く息が白かった。あの日泉くんを拒絶してから、彼とは一度も会っていない。泉くんと会っていないということは、学校からの連絡も暫くわたしには伝わっていないということだ。学校からの連絡はいつも泉くんが部屋に持ってくるから。もしかしたら母親には泉くんか、泉くんのお母さんから連絡が行っているのかもしれない。「ねえ、泉くん来てたの?」とただ一言、確認したらいいだけなのに「来ていない」と返答されるのが怖いわたしはずっとベッドの中で丸くなって塞ぎ込んでいることしかしていない。


「ちょっとなまえ、俺が面倒見てないからっていつまで引きこも……ってここ寒、暖房くらいつけなよねぇ!風邪引くでしょ!」

部屋のドアがいつの間にか開いていた。わたしの両親は部屋に入るときはドアを三回叩くから、ノックの音が何もしない時に勝手にドアが開くときはだいたい泉くんだった。泉くんは最後にあった時よりも少しだけ髪の毛が伸びていて、今日も学校に行っていたのか最後に見たときは半袖だった制服も今は長袖にベストを着ている。泉くんが外から連れてきただろう外気の匂いが少しだけ懐かしかった。

「人の顔みて泣き出すって何?そんなに俺のことが嫌いなわけ?」なんて言う泉くんの顔にはとても焦っていますと書かれていて、わたしは泉くんに「違う」と否定して、「ごめんなさい」と言いたいのに、口から漏れたのは音になったかも怪しいわたしの声と嗚咽で、更に涙が溢れてくるものだから弁解ができたのかもわからない。涙はわたしの眼球に薄い膜を張って、わたしの視界が涙で飴のようにぐちゃぐちゃに歪んだ。

「うわっ、なんでまた泣くの」
「きらわれたかと思った」
「はぁ?……ホント、なまえって大馬鹿だよねぇ」

泉くんは深い溜息をついた。その時にわたしを映した泉くんの瞳はいつもわたしの世話を焼くときの少しだけ優しい目をしていた。誰かに世話を焼くときだけに見せる、雑誌の上の彼しか知らない人がきっと知らないだろう泉くんの顔だった。あの日、最後に見た少し悲しそうな泉くんの面影はどこにもない。わたしのぷにぷにした手とは似ても似つかない角ばった手のひらでわたしの頭を撫でたあとにそっと抱きしめてくれた。小さい時から一緒にいて、あの時はわたしも泉くんもそう変わらなかったはずなのに、いつからこんなに差が付いたのだろう。わたしの耳が、泉くんのちょうど心臓のあたりに当たるせいか泉くんの心臓の音が聞こえる。そしてわたしはその音に安堵しているのも事実だった。心臓の音だけは、あの頃からきっと変わっておらず、これから先も変わらないだろう。

「泉くんは」
「何」
「ノックしないで部屋に入るし、いじわるばっかりするし、わたしを一人にするからきらい」
「うん」
「居てもいなくてもわたしの頭の中をぐちゃぐちゃにして、勝手にいなくなって、わたしが嫌いって言っても笑ってるからきらい」
「うん、知ってる」

わたしの口から出るのはまた泉くんを傷つけるような言葉ばかりだ。いつも言いたいことは素直に口から出ない。また泉くんが来てくれなくなっちゃうのは嫌だから、だから言ったそばから自分の言葉を否定して。それを繰り返しているうちに何を言いたいのかわからなくなってしまった。ただ「ありがとう」と「ごめんなさい」を言えばいいだけなのに敢えてそこを避けるような物言いしかできない自分は、わたしを一人にする泉くんよりもきらいだ。

「俺にキツイこと言いながら顔に『傷ついたらどうしよう』って書いてあるしさあ。そう思うなら最初からしなきゃいいのに。何を認めたくないのかわからないけどさあ、なまえが一番認めたくない気持ちが、なまえの本心なんでしょ」

「大体何年一緒にいると思ってるわけ?ホント、素直じゃないよねえ、なまえちゃん」と泉くんはわたしの額にデコピンを食らわせてきた。額に大きな音と重い痛みが響いて、わたしは「いたい!何すんの」と声を上げてしまう。わたしの恨みのこもった視線など、意に介さない泉くんは、いつもの意地悪な笑顔を浮かべている。

「デコピンでチャラになるなら安いもんでしょ。俺も少しは傷ついたんだからさあ」
2020-04-04