小説

アイスクリーム

 今日の気温は摂氏三十度をゆうに超えるというのに、わたしは自分の部屋でこの暑さに耐えるすべを持ち合わせていなかった。お情け程度に開けた窓からは生ぬるい風が時折吹けど、不快指数を上げてしまうだけで少しだって涼しくなりやしない。あまりの暑さに悲しくなって、窓の近くに風鈴を置いて少しくらい涼しい気持ちになろうとしてみたけれど、音は鳴れど涼しいとはちっとも思えなかった。この猛暑日が続く中、運が悪いことに、わたしの住む六畳間のアパートに設置されていたエアコンがついに寿命を迎えてしまったのだ。リモコンの電源を入れど、うんともすんとも言わなくなってしまった。エアコンを便りにして生きていたわたしの部屋には、扇風機など存在しない。ただ、気温を恨みながら狭い家の中で耐えるしか無かったのだ。

「なあ、なまえ、お前いるんだろ!うわ、あっつ!」

 そんな暑い部屋に、モードレッドは涼を求めて乗り込んで来た。そういえば、わたし昨日モードレッドにエアコンを壊したことを言ってなかったな、と思ったけれど、別にここは彼女の家ではないので特に言う必要もなかったのだと自分を納得させたような、そんな気がする。モードレッドは、家主の断りなくずかずかと部屋に乗り込んでくるし、わたしが壁のカレンダーに書いてる体重を見て「このあいだ食べ過ぎたもんなあ」とデリカシーのないことも言ったりするけれど、部屋の鍵をかけろとか、少しくらい人間らしい生活をしろとか、脂肪燃やすんだろ、ほら外行くぞとか――なんだかんだ言って、わたしの世話を焼いてくれる、良い人だ。エアコンが壊れてしまったのだと、そう彼女に言うと、それこそひどくがっかりした顔をしており、もしかしたら、エアコンが壊れたことに気づいたときのわたしの顔よりも、ずっとがっかりしているようにさえ見えた。部屋の床に転がったままのわたしを放って、モードレッドはわたしの部屋にジャケットを脱ぎ捨てて、うちに来るまでに履いていただろう、黒いサンダルをまた、履き直していた。「ちょっと行ってくる」それだけ、わたしの家に残して、彼女はまた炎天下の中に飛び出していってしまった。ドアが閉まる音と一緒に、風鈴が鳴いた。


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「モードレッド、暑くないの」
「暑いに決まってるだろ」
「そうだよね」
「なあなまえ、コイツの修理いつ来るんだよ」
「このあいだ業者に連絡したら明日には来てくれるって」
「へえ、早いうちに直りそうでよかったな」

 さっき、外に飛び出していったのは、棒のアイスキャンディを買いに近所のコンビニに出かけてきていたらしい。凍った一本をわたしに投げて、まだ液体の形状を保っているシロップがはいった棒アイスのパッケージを、乱暴に冷凍庫に片付けていた。モードレッドがわたしに投げた、プラスチックの包装で覆われた青い棒状のアイスキャンディをまじまじと見た。すっかりと冷凍庫で冷えて固まったそれは、シロップの青にうっすらと冷凍庫の霜をまとわりつかせて、本来のいろよりもずっと、淡い色に見えた。夏に少し恋しくなる海の色と空の色をやさしく混ぜた、ソーダの色と一緒だ、なんてぼんやりと考えた。

「おいおい、なまえそれ、折れないのかよ」
「わたしか弱いからできない、モードレッドがやってよ」
「女の子ぶりやがって」

寝っ転がったままのわたしの横に腰を降ろしたモードレッドは、わたしに向かって手を伸ばした。わたしは少しだけいたずらがしたくなって、モードレッドの手を握った。華奢な指先があったかいと思ったのは、先ほどまでわたしがアイスを握っていたからだろう。「そうじゃねえ」と、予想通りのことをばを彼女が言ったので、少しだけ面白くて笑った。それでも彼女はこんなに暑いのに、繋いだ手を離したりしないで握ったままでいてくれているのが面白くて、繋がれた手をしばらく見ていた。「早く」そう急かすモードレッドの手にアイスを渡すと、繋いでいたモードレッド手が自然と離れた。パキンと軽快な音を立てて、プラスチックの包装が破れる音がほんの少しだけ、切ない。

「いいもん、わたしは強くなくても。モードレッドが守ってくれるから」
「守ってくれるって、お前は何に襲われて俺は何と戦う事になるんだよ」
「うーん。襲われる相手は居なさそうだけど、モードレッドが戦うことになるなら、そうだなあ……わたしのお父さんとか」
「……俺はお前の父親にお前を嫁にもらう挨拶でもするのかよ」

 娘さんを、嫁に、ください。その言葉を反芻しているときにみっともない顔をしていたのか、モードレッドが棒アイスの半分を、わたしの口の中に突っ込んだ。「んッ!おどかさないでよ」びっくりして変な声が出てしまったわたしは、途端に恥ずかしくなった。モードレッドはキョトンとしていたけれど、「悪い悪い」と言ってよくわたしに見せる気の良い笑顔を浮かべていた。アイスをおとなしく食べるモードレッドの細い首筋が、わたしの場所からはよく見える。彼女がアイスを齧ったあとに喉が動くのを見て、柄にもなくドキドキした。

「キス、したい」
「はあ?ついに頭でもやられちまったのかよ」
「…そうかも」
「アイス咥えたままでキスはできないだろ」

 モードレッドは至極真面目な顔をして、そう言った。「口が空になったらしてくれるの」なんて、そんなことを聞いてもいいのか、やめておこうか。一巡考えているうちに、先にアイスを食べきってしまったモードレッドが、すっかり空になった棒アイスのプラスチックの外装をゴミ箱に放り込にわたしの隣から立ち上がった。わたしは、首だけを無理やり動かしてモードレッドの後ろ姿を見ていた。男勝りに見えるけれど、歩き方がきれいだなあ、とか、足首が綺麗でうらやましいとか、そんなくだらないことを呑気に考えていた。気温とアイスの温度差で生まれた結露が、プラスチックの外装をなぞるように滑り落ちて、わたしの唇に触れた。
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