小説

天露

 彼の声音から今の彼の顔を見るのはよしたほうがいいと理解しているのにも関わらず、わたしは彼の顔を見て、後悔した。わたしが思った通りに、彼は至極真面目な顔をしている。鋭い双眸には剣呑な光を湛えながら、わたしの顔をただ見ていた。「……」彼の言葉に、どのような答えを返すのが正しいのかをわたしは自分の心に問うが、わたし自身のことだというのに、わたしが今彼に向って返せる最善の回答が何かをわからないでいた。否、わからないのではなく、わからないふりをしている、というのが正しいのかもしれない。わたしは、彼の問いかけに対して肯定的な言葉を返すことこそ正解であると信じてやまないのであるが、それをできずにいる。それは、その解答が正解だと想定しながらも彼の求める回答でないことを知っているからだろうか。はたまた、その言葉を口に出したときにわたしの胸元、ちょうど今現在やかましく鳴り続けている心臓のあたりがすっと冷え込むように、体のすべてが凍り付いてしまうと錯覚するほどに冷たくなってしまうことを知っているからだろうか。彼の言葉を鼻で笑い飛ばせればよいのだが、今のわたしにそれをすることはできなかった。彼の声が、目が、わたしに対して投げかけられた言葉のすべてが冗談ではないということを認識できてしまうくらいには、わたしは彼の近くに居すぎてしまった。だから、ちょうどいま、彼の顔を見るのはやめた方が良かったのだ。顔を見なければ、まだわたしが彼がどのような気持ちでわたしに問うているのかを知らずに済んだからだ。わたしが、彼の顔を見、声を聴いてしまった時点でもう、負けは決まっていた。

*

 雨音が聞こえる。ぼつ、ぼつとトタン屋根に雨粒が跳ねる音と、コンクリートに雨粒がたたきつけられる音とが響いている。いつ壊れてもおかしくないほど古い建物であるこの部屋の中からは、外の雨音も、サッシの隙間を通る風の音も、さまざまな音の洪水がわたしの鼓膜を揺らしていた。古い窓枠の遠くに見える景色は滲んでいる。雨粒が窓にぶつかっては、筋を作って流れてゆくのをただ、わたしは見ていた。
 冬の雨の夜のことをわたしはあまり好きではないと思う。ただ、気温が余計寒くなっていやだからという単純な理由であるが、もともと雨の日はあまり好きではなかった。ひとつのベッドの中で体温を分け合うように、わたしと赤井さんは毛布の中にくるまっていた。赤井さんに背を向ける形で窓の外を見ているわたしから、彼の姿は見えない。わたしから見える彼の姿というものは、腰から腹にかけて回された、よく鍛え上げられた腕だけである。お世辞にも広いとは言えないワンルームにおいてある、赤井さん一人で寝るには十分というくらいの大きさのベッドに二人寝転ぶのには無理があるのだろう。二人で寝るには狭すぎるベッドの中、わたしは身をよじることもできぬまま、ただ窓の外を見ることしかできなかった。ぼつ、ぼつと雨粒が跳ねて、古びたガラス窓に跳ねた水滴はまた、筋を作って流れていった。もう、すっかり葉のなくなった木の枝の色だけが窓に滲んで見えるのをぼんやり眺めながら、わたしは穏やかな呼吸の音と冷たい雨粒の音を聞きながら、窓の外の景色のことを少しだけ考えた。滲んだ窓からは暗い雲の色が見えたときに自分の気分も下がってしまう。自然とため息がこぼれた時に、わたしの背がもぞもぞと動き出した。

「雨か」
「はい。起こしてしまいましたか」
「いや」
「……そうですか。おはようございます」
「ああ、おはよう。君も今日は休日だろう」

 窓のほうを向いていたわたしの体を、器用にひっくり返して赤井さんは頬に口づけを落とした。海外ドラマでありがちな、幸せそうな親子が贈りあう親愛のキスのようなあたたかさが心地よい。「……すみません」「気にするな、君も知っていることだろう」彼を起こしてしまったことを謝罪すると、彼は目を細めて穏やかに笑った。「せっかくの休暇だ、もう少しゆっくりしようか」赤井さんは二度寝するつもりもないのにそう言って、赤井さんはわたしの腰を引き寄せ、毛布を手繰り寄せた。赤井さんの肢体が、わたしの肌に触れるたびに彼とわたしは違う生き物なのだと思う。それなりに鍛えているつもりとはいえわたしの肉体と彼の肉体とは矢張り、違う。彼の首のほうへと腕を伸ばせば、彼は自ら腕の中に入ってくる。赤井さんの首に抱き着くようにして、わたしは彼にしがみついた。

*

 わたしは、赤井秀一という男の心の一番を占める人間になりたいのだと、そう願ってやまなかった時期があったのであるが、それも遠い過去の話である。彼と寝具を共にした回数がそう多いわけでもないが、その少ない回数の中で、わたしは彼の中の一番になることは永遠にないのだと、そう悟ってしまってからその願いは誰にも聞こえぬところへと片づけてしまった。暖かい毛布にくるまって体温を分け合う中で、赤井さんが眠っていた。わたしより遅く寝て、わたしよりも早く起きるあの赤井さんが、である。珍しいこともあるものだと、わたしは呼吸さえも忘れてしまうほど、彼の寝顔をずっと見ていた。彼はほんの少しだけウウと唸るような寝言を言ったのちに、名を呼んだ。「どうしたの」そう、彼に問おうと口を開きかけた時に、彼はもういちど、名を呼んだのだ。その瞬間、わたしは頭の天辺からつま先まで急に冷えてしまった。聞き違いだと思えればよかったのであるが、彼の口から零れた音は、わたしの呼吸音と、彼の呼吸音しか聞こえない静かな寝室にはよく響いた。彼の口から出てきた名は、わたしの知らぬ女の名前であった。
 赤井さんにその女の名前を問うたことが過去に一度だけある。彼はほんの一瞬だけ目を開いたのであるが、それもすぐに消えてしまった。わたしが瞬きをしていたら、きっと気づかなかっただろうほんの少しの時間である。赤井さんは、火をつけたばかりのタバコの煙を大きく肺に吸い込んだ後に、わたしの顔を一瞥するだけで何も言わなかった。表情は普段見せるなんともいえぬ表情をしていた。赤井さんの口からは、あの名を呼んだ女のことについて、特別な人とも、知人とも、ご姉妹とも言うことはなかった。ただ、明確にわたしにその問いを投げることをするなと、態度で示すだけであった。彼の明確なわたしへの拒絶は、これが初めてのことであった。「特別な人?」「……さあ」赤井さんの態度の意味することを知りながらもわたしは踏み込んで問うたが、赤井さんは、煙をただ空に向かって吐くだけで、もう何も言わなかった。
 わたしは、赤井さんのことが好きだった。一番好きだったのは、彼がわたしに向って、わたしの望むだろうタイミングで愛の言葉を器用に囁いて見せるところが好きだった。愛情を与えてもらえるのだと実感出来るところが良かったのだと、そう思っていたはずであった。言葉自体がうれしかったのはいつまでで、その言葉が出てくるタイミングを愛するようになってしまったのがいつ頃からなのか、さかのぼるのもばかばかしくなったころに考えることを辞めてしまった。気づいてみれば、彼がわたしの名前を呼んで、唇に愛の言葉を乗せ、わたしの唇を食むときの瞬間が好きなのは相変わらずであるが、当初とはずいぶんと変わってしまったように思う。
 彼は嘘をつくことが下手だった。わたしに愛の言葉を囁きながらも、その言葉に彼の心が伴わないことを隠し切れないところが、何よりも好きだった。彼のことを愛しているというのは、彼のことを愛しているのか、彼のつく下手な嘘を愛しているのか、嘘をつくのが下手な赤井さんのことを好いているのか──わたしは、自分自身悪趣味であるということはとうに知っているつもりであるが、どの角度から見ても完全なように見える物にある小さなキズが好きだった。どのような人間──それが、わたしのたどり着けないような、住む場所が違うと思ってしまうような人──であっても、その小さなキズがあることで同じ地に足をつけている人間だと思うことができるからだ。どこからどう見ても完璧で、キズの一つもない人がこの世に居るのであれば、もしかしたらそれは人の姿をした別の生き物なのではないかと思う。自分の手の届かないところにある物事が、ただ怖いだけなのかもしれない。自分自身が優秀であるわけでもないのにも関わらず、優秀な人たちに一歩でも追いつきたいと思うせわしない心から来ているのかと問われればそれも誤りではないとわたしは思う。
 わたしは、赤井秀一という男のことを愛していた。正しくは、今も愛しているはずに違いない、である。わたしの目から見た彼はいつでも完璧な人間であった。仕事がよくできる人であり、わたしのような下働きには永遠にたどり着けなさそうなところを、彼はいつも歩いている。仕事ができて、社会的地位もあり、さらにルックスまで整っている。そして、彼は人相がよい方ではないが、冗談を言うこともあるし人付き合いも上手にできる人であった。どこからどう見ても文句無しの人間に違いない。そんな人間の付く下手すぎる嘘のことを、わたしが愛さないわけがあるだろうか。なにより、彼のつく嘘というものは、わたしだけではなく、彼自身の心にも付いていることを思えば、なおさらのことである。

「俺がお前に離れるなと言えば、お前はその通りにするのか」

 赤井さんという嘘をつくのが下手な男は、時にこういうずるい言葉を平気で吐くのである。先ほどまで喧しく降っていたはずの雨も、少しずつ上がってきたのか、今となっては雨音さえ聞こえぬほどだ。古びたガラス窓を揺らす風の音も、今はしんと静まり返っている。わたしと赤井さんの呼吸音か、はたまたわたしの鼓動の音か、それらの音だけが支配する空間で、わたしは赤井さんから目を逸らせずにいた。彼はわたしの目を見て、そう問うたのだ。彼は、わたしが彼から離れられないことを知っていながら問うているのであればなおさら質が悪いと思うが、今の彼の表情からはそれらを読み取ることができなかった。わたしと彼の間に流れる沈黙が、やけに長い。わたしが黙っているのだから仕方のないことか。赤井さんはわたしに答えをせかすでもなく、わたしがずっと黙り込んでいるのに痺れを切らせるでもなく、わたしの唇が動くのを待っていた。紡ぐ言葉は決まっているのだ。ただ、わたしの唇から、声が出てこないだけのことである。何度か、唇を開いたり、閉じたりを繰り返したころ、赤井さんがわたしの、少しだけひらいた唇に太い指で触れた。閉じようとする唇をやさしく開けるようにして動く彼の指先がなんとももどかしい。わたしに問うておきながら、わたしの口から答えが出てこないようにと、唇を指先であそんでいるのか、それともその行為が彼なりのわたしへの回答の催促なのだろうか。そのようなこと、考えるまでもなくわかることであるが──わたしの唇を自由にしている彼の手をつかめば、彼は指でわたしの唇に触れるのをやめた。「どうなんだ」わたしの顔をただ真剣な顔をして見ているのは相変わらずである。

「あなたがわたしを愛してくれるのであれば」
2020-04-04