小説

神さまをつくった夕べ

 彼女が指をさしたのは、己が小脇に抱えていたガラスの鉢である。このガラスでできた鉢ならば、水を張って、ある程度の藻を入れておけばそこで観賞用の魚くらいならば飼うことができるだろう。ガラスでできた金魚鉢の淵の部分はほんのり薄紅色が溶かされていて、シンプルながらおしゃれな一品だと思う。しかしながら、そのおしゃれな金魚鉢は、無機質かつシンプルという言葉にぴったりと当てはまるデザインで統一されているカルデアの景色の中では、良くも悪くも浮いてしまっている。ここが、氷で覆われた山の上にあるせいで、季節という感覚が薄れつつあるということと、この鉢からはどうしてもこの場所とは真逆の季節というイメージがあるせいか、どうにも違和感があった。

「かわいい金魚鉢ですね」
「ああ。マスターに貰ったんだ」

 その淵の赤色が金魚の尾ひれみたいでおしゃれですね、となまえは己が少しばかり乱暴に抱えていた金魚鉢の淵の赤を見つめている。彼女に金魚鉢を押し付けるようにして渡すと、彼女はおずおずとそれを受け取った。
 
「成程、マスターが」
「おうおう。だから悪趣味ななまえちゃんのところにやってきたんだけど」
「ありがとうございます。それで、何の用ですか?」
「別に褒めてないだろ。あんたのその悪趣味な魚を分けてくれよ」
「はい、かまいませんよ。この冊子から好きな形状と色を選んでいてください。決まったらそれを教えてもらえれば、三十分程度でお渡しできますよ」

 彼女から小冊子と一緒にペンを渡された。つまり、適当に選んだものにチェックをつけて持ってこいという意味で、随分とぞんざいな扱いをされたものである。渡された小冊子は、さながら商品カタログであった。右から左まで、ずらりと魚の形をした人形のようなモデル図が並んでいる。三ツ尾があれば、四ツ尾もあるし、桜の花のような形状の尾ひれをした魚のすがたもあったが、どれもこれも皆、大本の形は金魚の形であった。色、さらには魚のほんの少しの個体差の調整。つまり、まるでパーツの一つ一つを選択してくみ上げる人形のように、好きな魚を作り上げることができるらしい。カスタムロボならぬ、カスタム金魚だ。

「なあ、他の形はないのかい」
「ありませんよ。わたしの趣味ではありませんので」
「そうかい」
「不満ですか?」
「いや」

 適当な魚の形状にチェックをつけて、色だけは何となく好みの色合いを選んだ。明るすぎる色でもなければ、地味すぎる色でもない。金魚と言われて想像に易い赤い金魚であった。なまえはそれを見てすぐに、棚からケースをいくつか取り出して「少々お待ちくださいね」とひどく機械的な物言いをして己に空いた椅子に座るようにすすめた。白いケースの中から白い金魚を模した塊を取り、板の上に置いゆく。さながら調理される前の魚のようでもあったが、どちらかというと今から食べられるというよりは生ごみケースのほうに捨てられてしまう方の魚の姿のように思う。粘土でやたら精巧に作られているだけの、色をなくした金魚の死骸だ。

「なあ、それは本当に動くのか?」
「ええ。これに回路を埋め込めば動きますよ」

 ただ、気を付けてくださいね、と彼女はマニュアルを読み上げるように淡々と述べた。「あなたの指定した魚の性格だと、ちょっと同じ水槽に入れてる子を食べてしまうかもしれないので、できれば水槽を分けた方が長生きしますよ」彼女の手と双眸は魚の死骸に向いているというのに声だけはこちらのほうへと掛けられている。特に何か特別な術式をくみ上げているようには見えなかった。どちらかというと、機械工作に近い。彼女の指先が、白い塊に触れるのを、ただ見ていた。
 彼女はひどく大人しい女だと思う。彼女の周りにいる人間が喧しすぎるせいかもしれないが、少なくとも彼女は、想像に易い研究者像をしていて、彼女が専門としていることには海底に沈みこんでゆくように夢中になりすぎる節があるのは噂で聞いたことはあったが、浮世どころか人間からもほど遠いような振る舞いさえしているように見える。
 なまえに促されるようにして、金魚鉢の中に砂利と、藻と、水とを配置した。ここまで来れば、魚がいないだけの水槽の完成である。
 
「耐久も、挙動も普通の魚とそう変わりませんから、魚を育てるように扱ってくれたら問題有りませんよ」

 魚の死骸がひとつ、またひとつと水槽の中に放り込まれてゆく。白い死骸だった魚のうろこが、少しずつ色を発現しはじめてゆくさまは、さながら蝶の羽化であった。魚たちはほんの少しずつひれを動かし始め、不自然な泳ぎ方をしていたのにも関わらず、次第に上手に水槽の中を自由に泳いで回り始めた。文字通りの水を得た魚である。なまえちゃんは魚が動いていることだけを確認して「お待たせしました」と己に述べて魚が泳いでいる金魚鉢を己の目の前へと置いた。指先でガラスの表面をつつけば、淵に寄っていた魚たちは一目散に散っていった。

「なあ、此奴らは本当にニセモノなんだろ?」
「あなたがニセモノだと思うのであれば、それはニセモノだと思いますが、どうです?」
「質問を質問で返すなよ。そうさな、……」

 本物かニセモノかなど、横で見ていた己には答えなどわかっている問いであり、それが何の意味も成さないものであることは分かっていた。たしかに、この白い死骸でできた塊たちは今となっては魚そのものであるが、それらは総て生まれた時から魚ではなく、部品の寄せ集めと言っても間違いではないだろう。彼女からしてみれば、この金魚鉢の中を悠々と泳ぐ魚の群れは、彼女の作品であり、子であり、たしかに魚と呼ばれているものではあるが、それは魚の腹から生まれた卵から孵ったそれとは出生が異なるだけの魚である。卵から生まれたか、手のひらから生まれたか、横から見ていた己にとってはひどく大きな差異に感じられるが魚そのものしか見ぬ人にとって、出生を知らぬ限りそれは本物の魚なのだろう。

:

 あの日貰った魚の群れは、彼女が忠告した通りになってしまった。結局、水槽を分けるでもなく、同じ金魚鉢の中に放り込んでしまえば、気性の荒い魚が一匹でもいればその一匹だけを残していなくなってしまうことは誰の目にも明らかである。己の好きな形、その時の好みで選んだ色をした魚たちはこの小さな己の作った世界の中で群れていたが、一匹を残してすべて白い魚の躯へと戻ってしまった。それは食われてしまったもの、病気にかかってしまったもの、餌にありつけなかったもの、理由は様々であるが、自分の好みで作った世界が自壊してゆくさまを見るのはあまり善いものではない。生き残った最後の一匹さえも、遂に腹を水面に曝して動かなくなったときに、こうなってしまったことを悲しむより先に出てきたのはこの死骸をビニール袋に入れて生ごみのゴミ箱へと入れなければならぬという、ごみをただゴミ箱に捨てるという生活の中に根付いている普遍的な所作でであった。ビニール袋の口をしっかりしめたことを確認して、生ごみ用の青いプラスチックのゴミ箱にそのまま放り込んだ。なぜだか、ただゴミを捨てるだけのことを早くにしなければならぬと思ってしまった。あの魚の黒い眼が、己を責め立てるような色をしていたからだろうか。ただの骸、ましてやあの女の作った回路を埋め込まれただけの元は木偶であった人形に対して、ひどい情緒を抱いたものである。プラスチックでできた青色の大きなバケツの蓋の向こう側には、己がつい最近までつくった好みの世界から切り離された金魚だったものが眠っている。たしかに、彼らは魚の腹から生みだされた卵から育ったわけではない。あの悪趣味な女によって身体に埋め込まれた回路のせいで魚の振る舞いを与えられた、ただの躯に過ぎない。金魚鉢の中に入れていた藻も、砂利も、水も、総てのものをゴミに捨てようとしたときに、金魚鉢の淵に小さな砂利の粒が跳ねた。空気の中に溶けてしまいそうなほどに小さいにもかかわらず、甲高い音が響いた。所謂、仮初の世界の死にゆく音である。

「いらっしゃい」

 空っぽの金魚鉢の中身に関して、彼女は何も触れなかった。ただ、己がこの部屋に無言で入ってきたことに関して咎めるでもなく、相変わらず机の上の死骸に夢中であった。マスターに便宜上の名として教えていたあの文字列を、彼女の唇がなぞった。
 
「次の魚でも入れにきたの?」
「いや」
「そう」

 空っぽの水槽に魚を入れるでもないと知ったあとの彼女は、己がこの部屋から出て行こうとしないことに関して、「何か?」と言った。それでも手は相変わらず彼女の目の前の白い死骸の造形を整えることに一生懸命で、己のことなど、部屋に猫がやってきたくらいにしか思っていないようでさえあった。悪趣味ななまえちゃんと、そう彼女をいつもの蔑称で呼べば、彼女は「悪趣味って失礼だなあ、本当に」とひどく鬱陶しいものを見るような目で己のほうを見ていた。彼女の眼球に、良く知る無頼漢の顔面が映っている。彼女の双眸の奥にある濃色の瞳が、己の双眸を捉えていた。
 
「なあ、お前は一体だれなんだ」
「……新宿のアサシンさんがそのふたつの目で見たわたしは誰に見える?」
「質問を質問で返すなよ」
「ああ、ごめんなさい。茶化すつもりはないんだ」

悪趣味な女!と罵れば、なまえちゃんはカラカラと笑った。「いやあ、質問を質問で返すような悪いところまで似せて作った記憶は無かったんだけどなあ」と彼女は冗談めかして笑った。先日見たあの浮世離れした彼女の独特な雰囲気は雲消霧散しているが、彼女から漂うどことない違和感と言うものは少しだって拭い去れていなかった。まるで、目の前の彼女から漂うのは良く人間に近づけられた何かと言うのがただしく、人のなりをしているように見えるが、それを人と言い切るにはずっと勇気が必要であった。

「あの粘土は処分したんだ。今のわたしがあの金魚とか、腹を痛めて生まれた子かの違いを探すほど芸のないことは無いだろう?対象そのものに成ることができるあなたならば、余計にそう思うと思ったけど、どうかなあ?」

 "悪趣味ななまえちゃん"は己の目の前で指を閉じたり、開いたりを繰り返して見せた。たしかに、関節の動きはなめらかで人の動きとそう大差ない。彼女を模倣するように、己の右手を握りしめて、開いてを繰り返した。目の前の彼女の動きとは何の大差もない。それなのに、今目の前に居る彼女は"なまえ"という名を得た"なまえ"を模倣するように埋め込まれて作られた粘土細工なのか、母親の腹を痛めて生まれた子かどうかも定かではない──「だいたい、どちらも変わらないじゃないか。ここに"なまえ"が存在するということだけが確かだろうに」そう、目の前で笑う女は一体だれなのか。
 あの、金魚鉢のなかを悠々と泳いでいた金魚のことをふと、思い出した。生き物と、よくできた粘土細工の曖昧な境界の部分を上手に泳ぐ、あの赤い金魚のことだ。あの金魚だって、生まれ方さえ知らなければ本物かニセモノかの区別をつけることなど、己にはきっとできなかっただろう。ただ泳いでいる魚が、魚か粘土かなんて、口にでも入れない限り知る必要も無い。何が本物で、何がニセモノかのラベルを張ろうとすることなど、己が本物だと思ったものが正しく本物であるかどうかがわかる以外の何物でもないし、貼られたラベルが"ただしく"正しいとも限らない。逆に、己がニセモノだといったところで、己以外の多数が本物だと言ってしまえばそれは、彼らの中で定められた本物が独り歩きしてニセモノだという事実ごと食われてしまうだろう。目の前の女が、ひどく不気味な顔をして笑っている。彼女は、己がこうしていることを今、一番楽しんでいるに違いない。あれを悪趣味と言わずなんといえばよいのだろう。「ね?」と、念を押すように己の双眸を見つめる彼女の、濃色の瞳が己の双眸を捉えている。ふと、自分の作った仮初の世界で悠々と暮らしていたニセモノの魚たちの姿と、目の前に居るなまえという女のすがたが重なった。あの金魚たちが骸になりゆくまぎわ、己のほうを見ていたあの濁った黒い眼のことを思い出したとき、霊核が軋む音がした。
2020-04-04