小説

三角

(三角関係)

 「泉さんだ」そう、なまえちゃんは血色のよい唇に知る人の名を載せて言った。ほんのり色のついたリップクリームは、自分のオススメした色だというのに、あの子の赤い唇に乗る名前は自分の名前よりも、彼の名のほうが多い。「暑いのに少しも暑そうに見えないね」となまえちゃんは泉さんのほうをちらちらと見ては、泉さんの所作を綺麗だとほめちぎった。泉さんは、なまえちゃんの姿に気付いていないのか、彼女とは真逆のほうを見て悪態をついている。あの顔はうだるような暑さで肌にべたついた汗が気持ち悪い時に良くしていた顔だと、ぼうっと考えるも、ぼくが見ているのは泉さんではなくなまえちゃんの横顔だった。「泉さんってさあ、」なまえちゃんがまた、泉さんの名前を唇にのせたあたりから、なまえちゃんの声はあまり聞こえなかった。なまえちゃんの睫毛が思ったより長かったとか、やっぱりあのリップの色はなまえちゃんに似合っているなあとか、思うことは総て彼女のことであった。なまえちゃんの双眸に映るのはぼくの顔ではなく、常に遠くを歩く泉さんだった。ぼくは、なまえちゃんの目が好きだった。あの遠くの泉さんを追う彼女の目に惚れてしまった時にはもう遅すぎた。あの目に映るのが自分であれば良いと思った事もあったが、今はもうそれもどうでもよくなっていた。「そうかな」なまえちゃんが、泉さんのことをあまりに褒めちぎるものだから、ほんの少しだけ意地悪な相槌を打った。さすがに、なまえちゃんのほうがきれいだよとか、かわいいよとか、そういう歯の浮くような言葉を簡単に吐くことはまだ、自分にはずっと早すぎる。なまえちゃんが「そうだよ。だって泉さんはね」そう言って、ぼくの意地悪なぞ気にしない様な顔をして、ぼくの顔色なんて少しも気づかないままに楽しそうに泉さんのことをずっと話している。なまえちゃんの赤い唇から零れてくる話はいつも、泉さんのことばかりだ。ぼくは泉さんのことが苦手であるが、なまえちゃんの前で泉さんの話をするのをやめてほしいと言う勇気も無かった。ただ、なまえちゃんと話ができるのであればよかった。例えそれが、ぼくの苦手な泉さんのことであろうが、なまえちゃんの赤い唇が楽しそうに開いて、泉さんの姿を見たあとのその目で、ぼくのほうを見て楽しそうに話すのであればそれで善いのだと、無理やり納得している自分の姿は見ないふりをした。別に、話なぞ真面目にすべて聞く必要も無いのだ。なまえちゃんが欲しているのは、自分の話を聞いてくれる人であるならば、それは猶更である。「ね、真くん聞いてる?」「えっ!……い、いきなりだね」」なまえちゃんのは話が、泉さんの話からぼくに向けての話に切り替わったのがいつからだったのか、正直に言うと殆ど話を聞いていなかったのだから分からない。かといって、なまえちゃんの泉さんトークをすべて聞いていたかと言えば否である。「ごめん、ボーッとしてて」と頭を掻いた。なまえちゃんはさして気にしていないような顔をして「そう」とだけ零した。「……ごめん」なんだかいたたまれなくなりなまえちゃんに謝罪の言葉を漏らすも、なまえちゃんはキョトンとした顔をした後に笑った。「いいよ。真くん、嘘つけないもんね。そういうところ、好きだよ」


 「泉さんだ」遠くから聞こえる声の正体が何かを知っている。この学校に女生徒の数は片手で数える程度しかいないのだから、あの不愉快な声の持ち主が誰かなど考える必要も無かった。「……うざい」そう心からの声が漏れた時に、身の回りに誰も居なくて良かった。あの女の話かけている先、家族同然弟のように可愛がっているゆうくんに強い興味はあるのだが、あの女の居る手前ゆうくんに近づくこともできない。あの女の目がうるさい、声がうるさい。何よりも己が可愛がっている弟に向かってべらべらと話かけているのも気に入らない。たいして己のほうを見ている訳でもないくせに、視線ばかりが喧しい。「泉さんってさあ、」あの女がゆうくんにそう話しかけるにつれて、ゆうくんの目が泳いでいるのであるが、あの女はそれに気付いているのか気づいていないのか、己のほうをちらちら見ながらも、目線が少しずつ下がるゆうくんの目を見て笑って居た。ゆうくんに近寄る虫のことは嫌いだと思っているが、何よりもあの女が嫌いなのは、そういうところだ。己のことが好きな人のふりをする、あの女のあの目が何より嫌いだった。「えっ!」ゆうくんが自分に話しかけられている事に気付いて素っ頓狂な声を上げている。ゆうくんの顔を下から覗き込むようにして話しかけるあの女の動作が何よりも憎たらしい。自分の中で一番かわいく映る角度でも心得ているつもりかと罵倒したい気持ちでいっぱいだ。だいたい、己のことを好きだとか、綺麗だとか、ファンだとか、心が欠片もこもっていないあの女の言葉の芯が空っぽであることをゆうくんに説明できれば良いのに。あの女の語る己への愛情だとか、ファン心とか、あの女の言う己への感情という感情に何もこもっていないことを一から十までお兄ちゃんとして説明することが出来れば良いのに。あの女がゆうくんに話しかけながらも、己のほうをちらちらと見たあとに口角を釣り上げた。あの女の、憎たらしいほどに赤の映える唇の歪みにゆうくんはまだ気づかない。


 わたしはずっとあなたのことが好きだと思う。あなたはわたしがずっと、あなたの苦手な先輩のことを好きだと思っているけど、実はそうではないんだ。自分に自信が無いところも、でも土壇場で強みを発揮するところも好きだと思っているんだけど、わたしはあなたのことを多分、泉さんどころかあの転校生さんよりも知らないんだと思う。ただ、あなたは優しいから、わたしが「泉さんだ」って、そう彼の名前を呼んで、遠くに見える泉さんの姿を目で追っているような顔をしていれば、少しずつわたしのほうから目を逸らしてゆくことも知っている。そうして、そう言うときはだいたい、わたしの話をあまり聞いていないのに、わたしのする苦手な先輩の話なんて、ほんの欠片も聞きたくないくせに、わたしがただ話しているからって隣に居てくれる。あなたは、とにかく優し過ぎるのだと思う。そうでもなければ、あなたはわたしからとっくに愛想をつかしてどこかに行ってしまっているだろうし、わたしの唇に似合う色を教えてくれることなんてないだろうに。わたしが今より少しでもかわいくなってしまえば、泉さんの目にもしかしたら留まってしまうかもしれないのに(そんなことは当然有りえないのだけれど!)、それでもわたしに似合うからって、敵に塩を送るような真似さえしてくる。お小遣いの範囲で買える程度の色づきの良いリップを薦められた通りに使ってみたのに、あなたは「やっぱり、なまえちゃんにはその色が一番いいね」って、そう照れたように笑って、わたしに向かってかわいいねって。嬉しかった。とても嬉しかった。あなたの思う一番かわいいわたしのことは、わたしなんかよりもずっと真くんのほうが詳しいのだから、かわいいのは当然だ。「──そう言うところ、好きだよ」って、ほんの少しだけ気持ちを載せて言ったつもりだったけど、たぶん彼には聞こえていないのだと思う。そう、聞こえないように言っているのだから当然だ。彼が、──真くんが好きなわたしというものが、泉さんのことを一途に応援する女であるのならば、わたしはそのように振る舞うだけだ。そうして、真くんがわたしのことを好いてくれるのであれば、それでよかった。わたしが真くんに思いを伝えることが出来なくても、ほんの少しでも彼の目に映ることが出来るのであれば、それで。

2020-03-22