小説

夢をかなえてあげない#4

 成仏しきれなかった霊魂は、この世に未練を残してしまっているからだということを、夏時期に観る心霊特集で見たことがある。もし、なまえが己の歌っているところを見てしまえば、もう二度と夏時期に己の前に現れることは無いのだろう。寝ている人の腹の上に乗って、無邪気に「泉、遊ぼう」ということもなければ、「歌を聞かせてよ」とせがむこともなくなってしまう。天国という世界が本当に存在するかは知らないけれど、彼女は己をこんなに思い悩ませているのだから、のうのうと天国で笑って生活されてはたまったものではない。だから己のことを恨んでも良いから、恨み続けてでも己のことを脳みそに染み付いて二度と離れないように、己以外のことを考えられないようになってしまえばいいと思った。でも、もし地獄と言う概念が本当に死後の世界に存在するのであれば、己は地獄の番人に「一年に一度で良いから、またなまえに会わせてください」と願いたいと思うのは女々しいだろうか。

「泉、ねえ、どこに行くの」
「黙ってついてきなよ」
「いずみ」

 なまえの唇から、音が消えた。
 お盆の季節になると死者は、黄泉の国から海を渡って戻ってきて、また、海を渡って還るのだと言う。「お盆の季節の海は一緒に連れて行かれてしまうから、入ってはいけないよ」と祖父母が遠い昔に己となまえに対して話をしたのを海を見るたびに思い出す。そして、今年は去年よりも二週間遅い時期──ちょうど今の季節だった。前年、彼女が現れる前に行われたTrickStarと行ったライブを、今年は王さまも参加した完全なるKnights、そしてTrickStarで行う事が出来るのはとても恵まれた機会であった。しかしながら、内心は複雑であった。この時がいつかきてしまうということは心のどこかではわかっていたくせに、どうして今なのだと思ってしまうのは、己がたぶんまだ幼いからなのだろう。
 突然入ってきたこの仕事に対して、仕事をもらっている身分上文句など言えるわけもない。彼女に知られないように家を出て、ひっそりと練習をして帰ってくることを数日続けて、ついにこの日が着てしまった。夏の日差しは肉体を容赦なく刺して、セミの鳴き声は喧しく、夏の嫌いなところばかりが己を刺激してくるのがひどく不愉快であった。夏時期は外出を避ける己が「出かけるから来なよ」と彼女を連れて出かけようとしたことに、彼女は意外なものを見るような目をしていたのは最初のうちだけで、あとは楽しそうに笑っていただけだった。

「どこ行くの」
「内緒」

 その会話を何度したのか、数えるのも嫌になるというのに彼女はそれでも延々と続けるのだから強情だと思う。それに折れないようにずっと内緒だと返し続けたころに目的地に着いた。駅からも見える海は、陽光にきらめいて水面が波打っている。海水浴シーズンのせいか、やたらと多い人の声にかき消された波の音はここまでは届かないが、それでもなまえは人の姿を見ては目をきらきらとさせて楽しそうに見ていた。

「泉先輩、遅かったですね」
「ごめんね」

 先に到着していたKnightsの面々が、己の顔を見てはそう口々に言った。「ねえ、泉──」そう、己の名前を呼んだなまえの声が止まった。そうだ、彼女の目の前には、彼女が一度も会話したことのないかさくんが居るのだ。この暑い中、涼しそうな顔をしたかさくんは、己に何かを言おうとしたくせに、衣装ケースを車から降ろそうとした転校生の姿が目に入ったのか、そちらのほうに向かって「お姉さま、お手伝いします」と言ってすぐに走り去ってしまった。なまえは、かさくんの走っていった先を見て、その先に転校生の姿を捉えて息をのんだ。
 
「いずみ」
「……これで最後だからね。なまえの我が儘を聞くの」

 なまえが口を開いたような気がした。「ありがとう」の言葉は震えていて、音を紡ぐだけで精一杯だったようにさえ思う。「これで最後」だと言った己の言葉だってきっと、震えていたと思う。

 なまえは頭が悪いから俺が何を考えているかなんて、これっぽちも分かってくれないだろう。もし、彼女が今日あの海を渡って還ってしまうのであれば、この海辺のステージというものは最高の場所なのだろうと思った時、自然と自嘲的な笑みが浮かんだ。今日の彼女のかえりみちは特別だ。普段ならば、うっすらとした青白い月明かりが水面を薄明るくするだけであるというのに、今日はステージのライトと、花火が彼女のかえりみちをより明るく照らすのだ。己だって、彼女がかえりゆくさまを見送ることができるし、彼女は今まで聞いたことのない己らの歌って踊る姿を贐とされるのだ。だから、彼女は一生己に対して感謝していて欲しいと思うし、感謝すべきだと思ってやまない。なまえだってきっと、己に年に一度だけでも会うことができることを楽しみにしていたろう。そうでなければ、歌を聴きたいと言いつつも、己がダメだと言えば少し駄々をこねるだけで、他のわがままに比べれば随分と大人しく引き下がっていたのだから。

「また、わたしに大事なことを内緒にしてたんだ」
「……俺は、絶対に謝らないからね」
「絶対に、ゆるさない」

 なまえは震えた声で、それだけを言った。きっと、彼女は己が一番見たくも無いと思った顔をしているのだろうと思ったが、今ならその顔を見てやれると思った。みっともなく俯いて、目を涙でいっぱいにしていることなどすぐにわかった。今ならば、あの日は許されなかった彼女の涙をぬぐうことを赦されるだろうと思って近くに寄ったが、それは成し遂げられなかった。成程、それが最後の最後まで隠し事をした己への罰だというのであれば、甘んじて受け入れよう。
 きっと彼女だって、彼女が見たいと願った己の舞台を見てしまえば、二度とこちら側に来ることなど無いことくらい分かっていたのだろう。彼女のことを好きとか、愛しているとか、付き合っているとか付き合っていないだとか、もう己と彼女の関係性に名をつける必要性を忘れ去ってしまうほどに、なまえとは一緒に大人になっていくものだと思っていた。
 あれだけ己に置いていかれたくないと、自分の知らない手の届かないところに行ってしまうことを嘆いたなまえが、まさか己を置いて先に逝ってしまった時は悲しいという気持ちより腹立たしいという気持ちの方が強かった。棺に横たわる彼女を見た時も、彼女が入っているのだと言われた墓標を示されたとしても、なまえという人間が己の隣からいなくなったと認識することはできずに居た。ただ、時間が経てばたつほど、当然ながらなまえの姿を見ることもなければ、彼女の家のインターホンを押そうとする指先が自然と止まること、それから、己の部屋に貼っていた写真たちの群れに、彼女の写ったものがなくなってしまったこと──それらから、徐々に彼女が己の日常から消えていってしまったことを認識するようになってきたときだった。夏の盆の時期に、まさか、また言葉を交わせることになるとは思わなかった。良く知った顔をした彼女が現れて、何時ものように「泉」と己を呼んで、気まぐれにわがままを言う。ただ、純粋に再会できたことが嬉しかった。また、彼女が帰ってきたのだと、そう思って嬉しくてたまらなかったのだ。しかしながら、喜んだのは最初だけで、彼女が現世に残る後悔や叶えそこねた夢がなくなってしまえば二回目の別離をしなければならないということを毎年彼女が向こう側に還った後に思った。毎年、彼女が言うわがままのどれか一つに絶対に嫌だと言わないと気が済まなかったのだ。今回だって、また音楽を聞かせろとごねる彼女を軽くあしらってしまえば良いと、そう思っていたのも事実だった。

「俺だって、年を取るんだから少しは成長くらいするでしょ。アンタだって、──」

 彼女の時は、すでにあの日から止まっている。生命の終わりという点で、そのまま止まったまま、時間だけがただ過ぎている。彼女の年表は、あの死んだ日にすべて終止符が打たれ、彼女にはこれ以上先の出来事はもう、存在しないし、当然過去にさかのぼることもできない。死んだことを自覚しながら、正しい場所に行くこともできず、この世に縛り付けられたまま、夏の間にだけ許された小さな再会のために、縛られている。
 残念ながら、己は未だ生きている。心臓を動かして、二本の足で地面に立っているのだ。そして、己が望まずとも時の流れにのまれるようにして、無理やり前に向かって駆動させられるのだ。だから、このまま止まっていてはならないことを、自身熟知しているはずであった。己は勝手に進むというのに、己は彼女をあの日に縛り付けたまま、解放すらしてやれていないのだ。自意識過剰すぎることなのだろうが、彼女が望んだことを叶えられるのはきっと、己以外いないのだろう。つまり、彼女がこの場所に停滞させられてしまうこの状況に終止符を打つことができるのは、とどのつまり己であるといっても過言ではない。総てが終わってしまった彼女を停滞させてしまうことから解放することなど、早くからできたはずだった。それなのに出来なかったのは、ただ、今までそれに向き合う勇気が無かっただけだ。それも、遅かれ早かれ、解決しなければならないのにも関わらず、モラトリアムを延長し続けて、彼女と会うその一年の間の数日の期間だけを楽しみにしていたのも事実で、これから解放してしまえばどうなるかというのもわかっている。
 一度だけでなく二度も己を置いていくのだから、なまえは一生己には頭が上がらないはずだし、もしまたどこかで会う機会があるのであれば、ボコボコにしてやらなければ気が済まないとも思う。けれどもきっと、またもし会えるのであれば、嬉しさの方が勝ってそんなことができないことくらい、わかっている。この場所に縛り付けてしまったのが己であることを自覚しながら、傲慢にもそう思ってしまうことだけは謝らないといけないのかもしれない。
 今このステージの上での歌の感想を、なまえに問う事はきっと、出来ないだろう。しかしながら、あの日己に吐き捨てるように言った「顔は綺麗だけど歌はほんとうに音痴ギリギリ手前って感じじゃん、向いてないよ」という言葉くらい撤回して行って欲しい。己の歌を聴いて、前向きな評価に変えてもらいたい。いや、別に「ふうん」というそっけない態度でもいいか。でもやっぱり、少しくらい褒めてくれたっていいのではないか。
 こうして、なまえに対してひとつを望めばきっと、また一つと際限無く望んでしまうから、己もなまえのことを言えないくらいには我が儘なのだろう。なまえはきっと、花火の光もない海ではまた、道に迷ってしまうから。だから、もう二度と彼女が迷いませんようにと、己が彼女の道しるべでいられるうちに。

 最後の花火が打ち上がり、ステージでの演目が全て終わったとき、己の見える範囲になまえの姿はもうすでになくなっていた。太陽がとっくに落ちてしまったあとの海は、真っ黒な水の塊となって、月明かりに照らされた部分だけが波の形を見せている。人の履けてしまった後の海辺はひどく静かで、さざ波の声さえ聞こえてくるほどであった。暗い海から運ばれてくる潮の匂いはほんの少しだけしょっぱくて、なぜだか目の前がぼやけて見えた。花火という光の道が消えてしまったあと、もう彼女の声は聞こえない。もう、夏の日に毎年見ることのできた彼女の年よりもずっと幼い笑顔だって、「泉」とまとわりついてくるやたら溌剌とした声も何も残ってはいない。まるで、己が今まで見ていたなまえが幻か何かだったかのように消えてしまった──否、彼女はあるべき場所に戻ってしまったのだろう。
 
「泉さん」──珍しく己との接触を避けるゆうくんが、己の顔を目を丸くして見ていた。その声に気づいたくまくんと、王さまが「セナ、お前なんで泣いてるんだ?」「セッちゃん感動しちゃったんだ~」と笑う。まさか、死んだはずの幼馴染が化けて出てきて、またさようならをしたのだという話など彼らにできるはずもないから、「今年もゆうくんと一緒に歌えるなんて思わなかったから嬉しかったんだよねぇ~」といつもの調子の軽口で誤魔化しておいた。ゆうくんは己に向かって「気持ち悪い」と言っていたけれど、今はそんなことを気にしている余裕もない。己の目の腫れを気にした転校生が、温められた濡れタオルを持ってきていたのを今日は素直に受け取った。

「──ねえ、今日の俺は今までの中で一番上手く歌えてた?」
「そうですね、一番瀬名先輩らしい歌だったと思います」

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 「本日のゲストは人気爆発中の精鋭ユニット、Knightsの皆さんです!」の言葉の後に拍手で出迎えられて、己らを紹介してくれる音楽番組に姿を見せることができるようになったあたり、世間にもそれなりに浸透してきているのだと思う。こういう、人気アイドルを紹介してくれるような歌番組に出演依頼が来るようになったのも、そこそこ人気が出てきたおかげなのだろう。アイドルという道が正しかったのか、この狭き門を通るべきかで悩んだあの日の自分をふと、思い出すことがある。
 毎年、夏の二週目、お盆近くの時期になると、部屋の壁の右側に新しい写真を張らなければならないような気がする。あの日以来、彼女の姿はもう二度と見ていない。己の部屋に遊びに来る人間だって、もういないのに、いまだに写真を一枚ずつ増やしていく癖はどうしてもやめられそうになかった。あの日、なまえとお別れをした日の写真に写る己の顔は、今まで壁に張った写真の中で一番ひどいものであったし、その記録はこれからも破られることも無いだろう。

「いやー、最近暑いですね。夏といえば、どこかに遊びに行ったり、恋をしたりと思い出を沢山作れる季節でもありますが、皆さんには特別な思い出はありますか?」

そう言われた時にメンバーの皆は決まって、あの夏の話を始める。あの夏、Knightsの全員が揃ったライブの日の話だ。あの日以降、ライブの後に泣いたことは一度も無いし、これからも無いだろう。今までどんなライブでも泣かなかった己が、ボロボロになるまで泣いてしまった日のことを面白がって話し出すのだ。己も、その話だけは今のいままでの自分であれば避け続けるだろうが、あの夏の話だけは特別だった。彼女のことは一言も教えられないけれど、あの日の話をすることで、ほんの少しでも彼女のことを己の中により深く刻み込むことができるのだから。

「そうですね、僕の夏の思い出の話なんですけれど。高校卒業した翌年の八月に行ったライブで大泣きしてしまって。それを今もからかわれるんですけど──」
2020-03-22