小説

夢をかなえてあげない#3

 唐突に懺悔を始めるのをやめろと、何度も言いたいと思ったことがあった。それでも、その言葉を口に出せずにいたのは、なまえが隣でどんな顔をしているかを知っていたからだ。付き合いが長すぎたせいか、彼女の声色だけで彼女がどんな顔をしているかなど、考えずともわかった。己が一番見たくないと思っている顔をしているに違いない。わがまま女王様が、突然気弱になって居るかもわからない神さまか、それに類する何かに祈るように自分の後悔をつらつらと述べてゆく。別に、隣に居るのが己であるだけで、対象は己でなくてもよかったのかもしれない。彼女の顔を見てしまえば、「そうやって懺悔を己にするのをやめろ」とは言えるはずもない。ただただ、卑怯だと思った。

「わたし、すごく後悔しているの。……あの日意地はらなければ良かったって」

 「またか」とは言えなかった。それでも、「またか」とは思った。彼女の懺悔の回数が片手の指の本数を超えたあたりから、数えることはとっくにやめてしまった。後悔したところで、過去は帰ってこないのだ。あの日、選択肢を選ぶ前の自分に戻ることなど、誰にもできるはずもない。それは、己だって彼女にだって言える話であった。人は先に進まねばならぬ。どんなに時間よ過ぎてくれるなと祈ったところで、時間というものは止まってはくれないのだ。

「泉、スマホ鳴ってるよ」

 己の携帯端末の画面が明るくなって、画面の上にメッセージの一部が表示されている。「至急」と書かれたメッセージを開いた。書かれていた文字列が、何と書いてあるかを認識したとたんに、そのメッセージの文字列を脳みそが理解することを拒んだ。普段ならば二つ返事で良しと返すものを、初めて拒みたいと思ってしまった。己の隣では、すっかり懺悔を辞めてしまったなまえが、己の顔を心配そうに覗き込んでいる。彼女の双眸に映った己の顔は、誰が見てもわかるくらいに動揺していた。

「泉、どうしたの」
「……なんでもない」
「そうやってまた、ぎりぎりまで教えてくれないんだ」
「……いい加減過去の話を蒸し返さないでくれる?」
「だって泉、わたしになんでも隠しちゃうんだもん」

 でも、泉が嫌がるなら言わないよ、そう言って彼女は大人しく引き下がった。強情な彼女の気まぐれを己は感謝した。彼女にはどうしても、知られたくなかったのだ。己が何かしらの決断をしなければならないこと、それから、それに対して悩んでいることに関しては絶対に、なまえにだけはいつも言えなかった。そうして、己はまた、その岐路に立たされている。今までなあなあにして逃げ続けていた選択をまた、しなければならないのだ。その決断だって、早いか遅いかの違いだった。できるだけ、その結果を引き延ばして、モラトリアムの延長をしたかったが、どうやらもう時間が無いらしい。ごめんね。今回もアンタに大きな隠し事をしていて。

:

 なまえと過去に、大きな喧嘩をしたことがある。

 なまえは、己とは違い芸能界とは無縁の生活をしている。学校に行き、家で雑誌を読んだりテレビを見たりするような、そんなごくごく一般的な生活を送る女の子。彼女からしてみれば、たまたま家の近くに住んでいた人間が、たまたま芸能界に片足を突っ込むようになっただけのことだ。ある程度の年頃を迎えた時に男女の幼馴染は疎遠になるものであるようなケースが多いが、己と彼女はそこそこの付き合いを続けていた。それは、殆ど学校に来れない己のプリント類やノートを持ってきたのが彼女であることが多かったせいもあったのだろう。それから、たぶん彼女は己のことを好いていたのだと思う。モデルをやり始めた時だって、「泉ならできるよ」と、俺の何を知ってるかも定かではないくせに、言葉だけは一丁前だった。ただ、その能天気さに救われていたのも、また事実だった。ただ、「泉とはしばらく会えなくなるのかな、それは少し寂しいけど」と言っていた時の顔だけはあまり良いものではなかった。
 
 その日は、一日仕事が入っておらず、珍しく朝から下校時刻まで学校に居た日だった。仕事の都合で学校の登校日数が減り続けていた最終学年にあがる前の、ある冬の日の夕方の話だったと思う。あの日は冬のくせに暖かい日で、毎年雪がちらつく時期であるというのに、マフラーを付けずとも外を歩くことのできるような日だった。己は学校に暫く来ていなかったせいで、二時間補修を受けた後の帰りだった。部活をやっていない生徒は既に帰宅し、部活生がこの寒い日に外に出ていたり、体育館をうろうろしているだろうこの時間は、校舎の中に残っている生徒の数は少ない。殆ど、上履きで埋められた靴箱を通りすぎようとしたときに、見知った後ろ姿が、学校の玄関口に座り込んで真新しいローファーに無理やり両足を突っ込みながら帰り支度をしているのが見えた。「なまえ」そう、彼女の名を呼んで声を掛けようとしたけれど、特に話すことも無かったので声をかけるのを辞めた。開きかけた唇を閉じ、そのまま通り過ぎようとしたときに己の名が呼ばれた。「泉、久しぶりだね」と声をかけてきたのは、紛れもなく、己が話しかけようとした彼女だった。己の姿を見て大急ぎでローファーに踵を突っ込んで彼女は立ち上がった。聞いてもいないのに、「買ったばっかりだからなかなか上手に履けないんだよ」と言い訳をしているのを、右から左へと適当に聞き流した。

「履きなれてるの履けばいいじゃん」
「……革靴ってなんかちょっとカッコよくない?」
「豆できたら痛いでしょ。せめて、足に合うの履きなよ」
「……反省します」
 
 なまえの着慣れた制服のプリーツが、乾燥したつめたい風に揺れた。

なまえ、アンタなんで今日帰り遅いの?部活やってないでしょ」
「ほら、進路調査書の呼び出し」
「ああ、進路調査ね」
「泉はモデル続けるんでしょ。わたし、泉がきらきらしてるところが好きだからこれからどうなるのか楽しみだな」

 進路──己も彼女も、いずれは将来のことを考えなければならなくなる。己は芸能界という道を早くに選択してしまっただけで、彼女はその選択を今取らなければならなくなってしまっただけだ。かといって、一度進路を決めればそれで終わりというわけではない。選んだ先にあるのは、その進み方で正しかったのか、常に自分を疑いながら、ただ走ることしかできないのだ。岐路に立つたびに、自分の進み方を考え直してどうするかを決める。ただ、それだけのことだ。
 今の己は、たしかにその岐路に立っていて、その選択を終えたばかりであった。本当にこのままモデルの路線を取るか、はたまた──事務所の意向ではない。己は今、カメラの前に被写体として立つことに関して悩んでいた。被写体でいられるうちはそれで良いが、そのまま此処から先、ずっと生活ができるかと言われれば、それは否だ。己だって、先輩のモデルが経っていた場所を押しのけて、奪って今の仕事を貰ってはいるようなものだ。それが、永遠に続くとは限らない。己が奪った分、別の新しい誰かが己の領分を侵し続けないということはあり得ない。キッズモデルとしては既に限界を迎え始めていたころ、次に見出した活路は、大人のモデルたちと一緒に立つ世界ではなかった。己が次に出した結果は、それとは別の方向だった。己が最初にモデルとして活動することになった発端を作ったのは、確かに両親かもしれない。それでも、今は自分の意思で続けていたはずだった。服を着ているはずが、服に着られていることを疑い始めたのはいつ頃だっただろうか。本当に、己がやりたいのは、やり続けていきたいものは、本当にこれであるのか──確かに、迷いが一つも無いわけではない。芸能界、若さを消費する世界であるならば、猶更決断は早い方が良い。

 出した結論、それがアイドルという険しい道であり、基礎から叩き直すためにモデルを辞め、アイドル養成校の夢ノ咲に通学することを、己は未だ彼女に打ち明けることが出来ずに居た。別に、自分の進路は彼女に言う必要も無ければ、彼女に否定される筋合いも無い。しかしながら、彼女にどうしてもこの話をしなければならないと、そう思っていた。
 己の知る限り、彼女はモデルとして活動する己のことを家族を除けばきっと一番に応援していただろう。彼女は己が出た雑誌の話や書籍の話をするたびに「へえ、泉すごいね」とそっけないような言動をしているくせに、たいして多いわけでもないお小遣いを貯めて己の写真が乗っている雑誌を総て買っていたし、写真集が出ればそれだって買っていた。献本を渡すと言えば「いらない」と言っていたくせに。
 なまえからノートを借りる約束をしていた日に、彼女の帰りが遅くなまえの部屋で待たせてもらったことが何度かあった。部屋で待っていた時に、部屋の片づけが下手すぎるなまえの部屋の本棚が偶然崩壊してしまったのと帰宅したなまえが部屋に戻るのが同時だったことがあった。なまえが唖然とした顔をして本棚のほうを見れば、本棚の奥に片づけていただろう己が載った雑誌の切り抜きが保管されていたファイルと写真集が雪崩に巻き込まれて表に飛び出してしまったのだ。

「……これ」
「見ないでよ見るな!泉に泉のオタクみたいなところ見られるのは嫌!」
「知ったものはしょうがないでしょ……別に嫌いになったりしないんだからさあ」

 あの時は恥ずかしそうにしてたくせに、ばれてしまえばもうどうにでもなれ精神なのか、なまえは本棚の奥にしまっていた雑誌の切り抜きとか写真集を部屋の本棚の良く見える場所に置くようになった。「もう発売してたんだ」「そうだよ」なんて、そんな些細なやり取りができるようになったのはその頃だ。テレビのように目立つものでもなく、キッズモデルで雑誌に載るといっても、そんなに目立った場所に乗っていた訳でもないのに。有名モデルになるまではまだ遠く、完全に無名とも言えない中途半端な位置にある己を、物理的にも近い場所で、己の活動を応援していた人は確かに、そこに居たのだ。
 
 だからこそ、言いづらかった。
 応援してくれている家族以外の人の表情を、己は近くで見すぎてしまった。

なまえ……俺はね、モデル辞めるよ」
「うそ」

 言うのは、今しか無かった。いずれ、彼女にだって何らかの媒体が手に入れば知られてしまう。先に決断してたのに、何故教えてくれなかったのかと腹を立てて己を見るのは既に、分かり切った事だった。彼女が怒るか、悲しむか──そのどちらか顔を見ざるを得なくなることは、最初からわかっていた。ただ、それが早いか遅いかだけの話だ。だから、そう言ったときに彼女の顔をまっすぐ見ることができなかった。なまえの声はたしかに、震えていた。北風が吹いて、木の葉を揺らした音の中に、消えてしまいそうなほど小さな声だった。

「俺はね、夢ノ咲に行く。アイドルになる」
「嫌だ」

お互いが黙った後に聞こえたのは、強い意志のこもった声だった。彼女は確かに、己に向かって「嫌」だと言ったのだ。それに対して、何よりも先に思ったのは「何故」という感想であった。別に、彼女に己の選択肢を否定されることだって想像ができたはずなのに、なぜだか彼女は己のことを応援してくれるのだろうと、そう思い込んでいたのかもしれない。今回だって、「ふーん、泉、頑張ってね」と、そう言うと思っていた。勝手にそう、思い込んでいたのだ。

「なんで」
「やだ、なんかやだ。泉がアイドルってなんか違う」

 なまえは己を詰った。「アイドルってなんか違う」ってなんだよ。結局のところ、自分の選んだ選択肢が彼女に受け入れられないにしろ、自分で決めてしまった方向に進まなければならないし、もう、事務所にはモデルを辞めること、所属を辞めることを伝え終わり、手続きだって終わった後だ。だから、彼女が嫌と言おうが、もうどうしようもないのだ。それに、彼女がそう言ったからと言って、己の進路を変えるわけもない。
 
「だって泉、顔は綺麗だけど歌はほんとうに音痴ギリギリ手前って感じじゃん、向いてないよ」
「はぁ?それは言い過ぎでしょ。歌下手な自覚はあるけどそこまでひどいとは思わない」

 彼女はいつになく強情だった。なまえは「泉のばか」と言ったっきり、泣きだした。そのまま己の顔を見ずに、涙をぬぐっているのに、それでも零れる涙が止まらないのか、時折嗚咽が聞こえてくる。彼女の目元を拭ってやろうと近づこうとすると、なまえは「泉のばか、もう知らない」と言ってそれすらもさせてもらえなかった。

「だって、泉はなんでもすぐにできるからすぐ人気が出てわたしのところからいなくなっちゃうんだ」
「はぁ?」
「もう泉なんか知らない、泉がどんなに売れっ子になっても歌ひとつ聴いてあげないから!」

 彼女の気まぐれ故か、彼女がそれに関して引きずり続けることも、己と険悪な関係になることも無かった。ただ、高校が変わってしまったから、彼女の家にプリントを取りに行くことも、彼女が家に渡しに来ることは無かった。しかしながら、彼女と己とは交流はあって、お互いの家に遊びに来ることは、回数は大分減ったけれどもまだ継続していた。ただ変わったのは、彼女の本棚の奥からも前のほうからも、己が載っていた雑誌や切り抜き達がすべていなくなってしまったこと。それから、彼女は彼女が言った通り、無理やりチケットを渡しても、己らの歌を聞いてくれることは無かったということ。己はそのたびに、彼女の本棚からぽっかりとなくなった、雑誌の切り抜きたちと写真集のことを想起した。

:

なまえ
「ん、なあに」
「ねえ、俺がなんでなまえの前で歌いたくないって言っているのか知ってる?」

 己がそう彼女に向かって口を開いたとき、なまえが息を呑んで黙ったような気がした。なまえは己の目から、目を逸らして斜め下を向いたっきり、何も言わなかった。なまえも己も、いずれこの話をしなければならなかったし、することになるだろうということはお互いに知っていたのだろうと思う。なまえはポーカーフェイスを作ることができるほど器用な人ではない。だから、隠し事をするのが恐ろしく下手だったはずだ。もし、彼女が己の問いかけに対して本当に自覚がなかったら能天気に「泉みたいに賢くないから知らないよ」と投げやりに答えたはずだろう。彼女が、それをしないということは、とどのつまりそう言う事なのだろう。

なまえの未練を無くしてしまったらまたなまえは俺の前から消えるんでしょ。ねえ、違う?あれだけ俺に置いて行かないでって言いながらさあ、結局俺を先に置いて逝ったのはなまえだったんだよねぇ。もし俺が歌ったらアンタとは二度と会えなくなるんでしょ?それなら俺はアンタが未練を残したままで、一年に一回しか会えなくてもずっと俺に歌を聞かせろってせがんでくれてたほうがずっといい。なまえに二回も置いて行かれるくらいなら」

 そう、己が感情を叩きつけるように言ったことに対して、なまえは暫く何も言わなかった。部屋に置いてある機械仕掛けの時計の秒針が動く小さな音が、やたら大きく聞こえた。秒針が何度時を刻んだのか、数えていると気が遠くなるほどの数字になりそうになったとき、なまえはか細い声で謝罪した。「……ごめんなさい」その声は夏の虫の声の中にも掻き消えてしまいそうなほど小さな声であった。唇を震わせて、ようやく絞り出したような声はきっと、なまえが一生懸命涙をこらえている時の声だったはずだ。一番見たくないと思ったあの日の、涙をぬぐうことすら許してもらえなかったあの日と同じ顔を、きっとしていると思った。みっともないことに、小心者の己はなまえの方を見なかった。否、見ることができなかった。自分で彼女の中に切り込んでおきながら、切りつけた相手の目を、表情を自分の中に刻み付けることに対しては区病であった。己だって知っているのだ、なまえが好き好んでこんな状況になりたかったわけではなかったことくらい。
2020-03-22