小説

夢をかなえてあげない#1

「ねえ!泉、泉ってば!」
「ちょ、っと……は、なまえ……?アンタもうやめなよねえ!」

 今日は久しぶりの休みの日だった。大学の授業は試験が終わった後にはすでに無くなり、高校を卒業してから本格的に数が増えていった所属事務所の仕事も無い日だった。事務所の仕事や、高校在学中から組んでいるユニットのライブのスケジュールに追い立てられるようにして毎日を過ごしていれば、いつのまにか服の袖の長さは半分になっていた。思い返せば、つい昨日までは長袖にコートを着ていたはずなのに、今となってはその服の枚数も減って随分と軽装になった。スケジュールに追い立てられていれば、同じ二十四時間を過ごしているというのにこうも、季節が過ぎることを早く感じてしまうのだろうかと、年寄りのようなことを考えてしまった。肌にまとわりつく汗に嫌な顔をする日も多くなってきたころ、朝から蝉がやたらと喧しい声で鳴きだすようになってしまった。カレンダーも、年度が切り替わったときに気持ちを入れ替えようと買い換えたはずなのに、もう四枚は破ったことになる。気温も、何もかもが煩わしいと思ったころに夏季休暇が訪れたことはラッキーだった。最低限のトレーニングをやっているだけで、あとは自宅から出る必要も無い。とはいえ、自身を置く環境がそれを赦すかどうかはまた別なのであるが、今日はそれが許された日であった。

「せっかく夏なのに、泉は相変わらず篭ってばっかり」
「このクソ暑い中外に出たがるアンタが奇特なだけでしょ」
 
 馬乗りになって己の顔を見下ろすのは、己がとてもよく知るひとであった。彼女はこうして、空気も読まずに己の上にのしかかってきては、「ねえ!泉起きてよ」と、己と同じ年の癖に子どものように騒ぎ立ててくるのはあまりにも迷惑すぎる。それも、狙ったように一日休暇の日に限って彼女は現れ、こうして己の休暇を邪魔してくるのだ。過ぎた日付に罰印をつけ続けているカレンダーを見れば、もう八月の半分近くが罰印で埋まっている。
 
「泉」
「何」
「お久しぶり」
「……そうだねぇ。アンタが最後に来てからちょうど一年、か」
「うん。今年も会えて嬉しい」

 なまえはそう言って笑った。「俺もだよ」なんて、そんなことを言わずに「俺はアンタの顔、もう二度と見ることは無いと思っていた」と厭味ったらしく言ってみればなまえは頬をわざとらしく膨らませて(子どもか!)、「ハァ?嬉しいって言いなよ!泉のくせに生意気」と喚いてきた。ここまではもう予想をしていたので思い切り耳をふさいで聞かないふりをした。「はいはい、ごめんね。なまえちゃんに会えてうれしいよ」と彼女の言ったことに従って言ったところで、彼女はまた「棒読みすぎる!やり直し」と言って難癖をつけてもう一度言わせることなど想像に易い。実際にそう言ってみたけどどうだ。

「真面目に言ってよ!」

ほら、言わんこっちゃない。

:

 己の部屋でなまえがやることと言えば、数えられるほどのことしかない。一つは己の部屋の詮索。そうしてもう一つは、壁に貼られている写真の確認。なまえは己の腹から降りて、己が寝転がっていたベッドと反対側の壁に貼ってある写真の群れのほうへと近づいた。時系列順に貼ったわけではないが、自然と左側から右側に行くにつれて、年次が新しい写真になっている。一番古いのは、己が物心ついたころ、なまえと己とが一緒に写っている写真であったし、何もそれだけではない。なまえがスタジオに見学に来た時にゆうくんと三人で撮った時の写真だってまだ、貼られている。
  
「これ、まだ貼ってたんだ」
「俺の部屋なんだから好きに貼っていいでしょ」
「……何、わたしのこと好きなの」
「なに、好きって言ったらどうするのさ」
「ねえ泉これ誰?」

 せっかく彼女のフリに答えたところで、コイツはこういう人間だった。「人の話を聞きなよ」と言ったところでもう、人の話を少しも聞きやしないのだから言うだけ無駄だった。己の部屋に飾ってある写真のずっと右側、今年の春ごろからたくさん増えた写真を、なまえの指先が追っていった先にその写真はあった。彼女が指を刺したのは、転校生だった。五月ごろに現れた、プロデュース科の女子生徒。ゆうくんに近づく悪い虫。その彼女の存在を、なまえは知らなかった。己が壁に去年の写真を這ったのは、つい最近のことだったからだ。なまえが去年見た己の部屋の壁は、数年前で止まっている壁であったのだから、彼女は少しも知りようがない。
 
「その子ね、なまえが知らない時に転校してきたプロデューサー。転校生」

あいつほんとうに生意気なの。そう言うとなまえはくすくすと笑って、「でも泉が写真飾るんだから、内心認めてるんでしょ」と知ったように聞く口に、己の口元がピクピクと動くのを感じた。別に、彼女を少しも認めていないわけではない。出来ない癖に、できないなりに努力してくるいい子だとは思う。それでも、まだまだ及第点にはほど遠い。

「泉は素直じゃないもんね。どうせ学校では『うざ~い』って言いながらほっとけなくて面倒見ているんでしょ」
「……ほんと、ウザい」

 写真、かなり増えたね。そう言ってなまえは指先で写真に触れた。彼女が最後に写真を見た時は、己と彼女とが一緒に映っていることのほうが多かったのに、今となっては夢ノ咲に入学してからのライブの時、ユニットのとき、それからモデルに復帰したとき、それから──もう、新しい写真の中に、彼女の姿はすっかりなくなっている。その写真の群れの姿をみて、なまえがほんの少しだけ寂しそうな顔をしていたように見えるのは、きっと気のせいだろう。

「去年はこんなに写真無かったのに」
「俺が二年の時の写真、貼ってなかったしね」
「……わたしが最後に見たのは、泉が一年生の時の写真だったはずなのに。もう、わたしの知らない泉みたい」
「……知らない俺って、何さ」
「わたしが知らない泉のことだよ……ねえ、何も知らないわたしに泉の話聞かせてよ」
「……いいけどさあ。会うたびにそればっかりだけど、飽きない?」
「わたし、泉の話聞くのが大好きだから」

 だから飽きることなんてないよ、そう言ってなまえは子どものように笑った。気まぐれな性格であることはよく知っていたけれども、あまりの切り替わりの速さに少しだけゲンナリした。己が何も言わずに黙っていると、彼女はしびれを切らしたように「教えてよ」と追い打ちをかけるように言って来たが、起きたばかりな上に、寝汗で気持ち悪いまま彼女と話をするが嫌だったから「待ちなよ」と言ったが、わがまま女王様の彼女にそれは通用しない。次第にごねにごねて機嫌を悪くしてまた拗ね続けになるのが目に見えている。

「話すから、着替えさせてよ」
「着替えたらいいじゃん」
「……」
 
 早く話をしろと言ったり着替えればと言ったり、どうもこの気の変わりようには昔から振り回されてばかりであり、この気まぐれに振り落とされないようにしがみつこうとしている己にも嫌気がさすのであるが、なぜだかこのわがまま女王様の気まぐれに振り回され続けること自体は嫌いではなかった。彼女の目の前で着替えようと服に手を掛けたところで、彼女は己の前から消えようともしないで己の方をただ、じっと見ていた。男女とか、そんなことを彼女に説いたところでもうどうしようもないということを、彼女との長い付き合いの上から知っているが、便宜上彼女に言うことは言っておくことにした。

「着替えるんだけど」
「見てるから着替えたらいいじゃん」
「……あのさあ、」

 この女は昔からそういうやつだった。もう、言ったところでどうしようも無いということはずっと知っていたはずだった。そういう問答すら無意味であるのにも関わらず、己と彼女はそれを夏に会うたびに繰り返してしまう。決まり文句のような問答ノルマを無事達成し(全く嬉しくないノルマである)、もう己は彼女に何かを言う気力も無くなってそのまま服を脱いだ。「ねえ、泉」己の背中に向けて、なまえが話かける声が聞こえた。

「何さ」
「泉ってさ」
「何?」
「……背中、こんなに広かったんだね」
「俺だって、年を取るんだから少しは成長くらいするでしょ。アンタだって、」

 自然と、己の唇が重くなった。言おうとした言葉が喉まで出かかったのにも関わらず、己はその言葉を飲み込んで口を噤んだ。彼女はそれに対して己にその続きをせかすことをしなかった。己が唇をつぐんでしまったあと、彼女もそれに倣うようにして黙った。ごうごうと室内を冷やす冷房の音と、外で喧しく鳴く蝉の声が遠くで聞こえていた。
2020-03-22