小説

遠足

「寒い」
「そうだなァ」

海と砂浜は延々と続いている。春先の、おだやかな波が、白い砂浜に打ち寄せている。寄せては返す波が砂を食う音が響いていた。時折吹く潮風は、もう春先だと言うのに未だ冬の香りをじゅうぶんに残していて、潮風が、沖の方から吹いてくるたびに、首筋が冷えて思わず肩を窄めてしまう。潮風が吹くたびにからだを小さくするわたしを、弓場は初めのうちは面白がって見ていたが、あまりにわたしが寒い寒いと言うので、いよいよ呆れたような顔をして「そこまで寒いか?」と言った。「ここまで寒いとは思わなかったんだよ。今朝から海に行くと知ってたらマフラー持ってきた」とわたしが言うと弓場はハァ、とため息を吐いて「悪かったな」と言った。「……連れてきて欲しいって言ったのはわたしだから、弓場は悪くないじゃん」そう言えば、弓場は「あァ、そうだな」と一言漏らした。そもそも、わたしが弓場にわがままを言ったのがはじまりで、弓場はわたしのわがままをかなえただけで、弓場はすこしも悪くない。
 人の姿ひとつ見えない砂浜の上を、わたしと弓場は歩いている。わたしより前を歩く弓場の後ろ姿をみながら、わたしは彼の背についていくように歩いていた。すこし伸び過ぎた前髪が、潮風に揺れるのが鬱陶しい。わたしと弓場以外、この場には誰もいないと言うのに、潮風のごうごうと鳴く音のせいか、わたしたちの着ているものが風に泳ぐせいか、はたまた煩わしい前髪のせいか、やけに騒がしいように感じてしまう。「寒い」そう言って、手袋も何もしていないはだかのままの両手をすり合わせているが、弓場は平気そうに見えた。「寒くないの?」そう問えば、弓場は「風がすこし冷てェな」と言った。

「たしかに。風、強いし」
「それは仕方ねェ」

海だからな、と弓場は言って、立ち止まった。その間に、わたしは弓場のそばへと寄る。そして、わたしが追いついたら、弓場はまた暫く歩いたのちに足を止めて、わたしが追いつくのを待って、わたしが追いついたのをみてからまた前を向いて歩く。その、繰り返しが寄せては返す波のようだと、海鳴りの声を聴きながらぼんやり考えていた。弓場の一歩は、大きい。わたしが一歩と半分を歩いてようやく、弓場の一歩にやっと追いつくことができる。「オイ」砂の上に、足を踏み出す。履いているブーツのヒールが、砂を踏みしめる音と共に、砂の中に埋もれてしまった。つま先に力を入れると、足先が砂に沈んで、コンクリートの上を歩くのと勝手が違うことに慣れることができずに、バランスを崩してしまった。足元が覚束ないまま歩くわたしを、弓場は待っていた。モタモタ歩いているわたしが弓場の隣に漸く追いついた時に、彼はわたしの腕を取り、手に指を絡めて彼のジャケットのポケットの中にわたしの手ごと、片付けてしまった。わたしは、弓場に握られた手を、つい握り返してしまった。弓場の手はわたしの手よりずっと暖かかった。わたしの手なぞ容易に包んでしまえるほどに大きい、角ばった男の人の手をしている。弓場のことを、この場で改めて意識することになるとは思わなかった。それに気づいて仕舞えばもう手遅れで、わたしの心臓のあたりが勝手に熱を持ち、顔まで熱くなってしまった。さっきまで寒い寒いと手をすり合わせていたのが馬鹿のように思えてくる。

「……なんだ」
「大胆」

わたしは弓場の手に指先で触れながら、はやくなる心臓の鼓動を誤魔化すように、冗談めかしてそう言った。自然に女の子の手を取って、自分のポケットに入れるような器用な芸当をする男の人の振る舞いに慣れていないわたしが初心なだけなのか、弓場が慣れているだけなのかはわからない。弓場はさして気にしていない様子でわたしの顔を見ては「あァ」と言って、ポケットの中に片付けてしまった手を強く握った。「よくやる」そう、彼はわたしに言った。彼にはたしか、下のきょうだいが居るので、よくやるというのはつまり、そういうことを指しているのだろう。「こんなふうに?」「あァ」わたしの手を勝手に取ってしまった行為について、それが彼が、彼の妹にやるようにわたしの手をとっただけなのか、わたしの手を自然にポケットの中に片付けてしまったことに対する取ってつけた言い訳なのかを知る手段を、わたしは持ち合わせてはいなかった。「ふうん」そう、頬が熱くなるのを誤魔化すように、強がって返事をしてみたが、弓場には全く効果は無かった。

「信じちゃいねえな」
「わたしは弓場の妹になったことないから、分かんない」

そう物分かりの悪いふりをして見せたが、弓場は何も言わなかった。「でもなんとなく、きょうだい想いのお兄ちゃんみたいなのはわかるな」そう弓場に言うと、彼は「そうかァ?」と返した。わたしは弓場のきょうだいじゃないから想像で話しているけどね、と付け加えて言えば、弓場は呆れたような顔をして「俺にはお前みてェなデカイ妹なんかいねェよ」と言った。わたしの一歩の大きさに合わせて、弓場の歩幅が半分ほど小さくなった。わたしと、弓場の歩幅が揃い、わたしは弓場に寄り添いながら砂浜を歩いている。打ち寄せる波が、ざあざあと鳴くのを聴きながら、砂に足を沈めていた。

「弓場」
「なんだ」
「誰もいないね」
「あァ」

寒ィ日に海に行こうとする奴なんざそう居ねェよ、弓場はおかしそうに笑っていた。弓場は足を止めて、「もう満足か?」とわたしに問うた。「もう少し」「そうか」弓場はそう言って、また歩き始めた。もう少しこのままで居たいと思ったのは、わたしの本心だった。急に一歩を踏み出したせいで足を砂にとられてしまい、弓場に思い切り体重をかけてしまった。「ごめん」そう、とっさに謝ってしまったが、弓場がわたしの手を少し強めに握ってきたのでつい、わたしは隣の、わたしより頭ひとつ、ふたつ高いところにある弓場の顔を見上げてしまった。わたしが弓場の顔を見上げた時、ちょうど、わたしの方を向いた弓場と目があった。薄いレンズの向こう側の弓場の双眸は、まっすぐにわたしを捉えている。

「……」
「なんだ」
「な、なんでもない……」

弓場は「そうか」と言ってまた前を向いた。

「どこまで行くんだ」
「……あんまり考えてなかった」

砂浜は、延々と続いている。地平の果ての方に、豆粒くらいの大きさの岩影が見えるのであるが、さすがにあそこまで歩きたいとは思わなかった。海岸沿いの最寄駅から、わたしたちは暫く、歩いている。砂浜に打ち寄せる波の音を音楽のかわりにして、冬の匂いの濃い波が、白い砂を食っているのを見ながら、ただひたすらに歩いていた。

:

「弓場、付き合って」
「あァ?」
「わたしを、誰もいないところに連れて行って」

夕方、防衛任務から戻ったばかりの弓場を捕まえて、お疲れさまの挨拶もなしに不躾にそう言ったわたしを、彼は訝しげな目で見ていた。わたしがダメ押しで「お願い」と縋るように言えば、「……急だなァ、オイ」と言って弓場はスマートフォンの画面を確認し始めた。画面を見たのちに、弓場はスマートフォンをポケットの中に片付けてわたしの名前を呼んだ。

「三十分後、駅ン所に来い」
「……わかった」

弓場は、市営路線の最寄駅側の、本部との連絡通路出入り口を待ち合わせ場所に指定して、彼は自分の隊の作戦室の方へと歩いて行ってしまった。「後でね」と背に向かって叫ぶと、彼はこちらを振り返りはしなかったが、右手を気怠そうに上げて、返事の代わりとしていた。わたしも、弓場の後ろ姿ばかりを眺めてここでこのままぼうっとするわけにもいかないので、彼の作戦室のある場所から逆方向にある、自分の作戦室へと戻って、帰り支度をした。「なんか、機嫌いいね」作戦室でおしゃべりをしていた隊員たちは、部屋に戻るなりすぐに荷物をまとめ始めたわたしのすがたを見ておしゃべりをやめて、そう口々に言った。「そうかな」これから出かけるんだよ、なんて余計なことは言わずに、わたしはしらを切った。

「おやおや、デートかな?」
「違います」

食い気味に返事をしたせいで、隊員たちは「ヘェ〜」「そうなんだ」といやらしい笑みを浮かべてわたしの顔を見ていた。

「うるさいなあ」
「楽しんで〜」

作戦室で少しおしゃべりに付き合って、待ち合わせの時間の十分前くらいまで時間を潰し、作戦室に別れを告げて待ち合わせ場所へと向かう。駅側の通用口を通る人がわたししかいないせいか、わたしの履いているブーツの踵の音がよく響いた。通用口の出入り口には、既に長い人影がひとつだけあった。身ひとつの身軽な姿で弓場は、既に待ち合わせ場所に到着してわたしを待っていた。立っている人の姿が弓場だとわかった瞬間に、わたしは走り寄った。「待たせてごめん」弓場は、短い距離しか走っていないのに息が上がってしまったわたしを呆れたような顔をして見ていた。「まだ早ェよ」弓場に言われて時間を確認してみれば、時計の長針は彼に言われた待ち合わせ時刻より十分以上早い時刻をさしていた。「早いのは弓場もじゃん」そう言えば、弓場は「まあ、そうだな」と笑っていた。

「行くか」
「うん」

通用口から、駅の方向へ歩いてゆく弓場のうしろを見ながら、彼の後ろについてわたしは歩いていた。春先だというのに、風はまだ冬の匂いをたっぷりと残していて、ぴゅうと風が吹くたびにわたしの剥き出しになっている頬や、首筋を冷やす。「寒い」そう、肩を窄めて小さくなっていると、わたしよりずっと先を歩いている弓場が、「置いていくぞ」とわたしに向かって言った。そう言いつつも彼は既に足を止めて、わたしが彼に追いつくのを待っていた。

「弓場が早いんだよ」
「足が長ェからな」
「ムカつく」

そう言うと、弓場に鼻で笑われてしまった。弓場は「行くか」と言って駅の改札を通った。わたしも、彼のうしろについて改札を通り抜けた。弓場は、改札のそばで電光掲示板を眺めたのちに、「こっちにするか」と言って、隣市へと向かう電車のやってくるホームへと続く階段の方へと歩き始めた。

「どこにいくの」
「誰もいないところに行きたいんだろう」

行き先を尋ねるわたしに、弓場はそう、楽しそうに笑って言った。「お楽しみって奴だ」「お楽しみ?」「おう」なんか遠足みたいでちょっとワクワクするね、と言えば弓場は「小学生かお前」と言うので、「楽しみなものは楽しみなんだよ」とムキになって返してしまった。弓場はキョトンとした顔をしてわたしを見たのちに一頻り笑って、「そうか、そうか」と言っていた。わたしのことを思い切りバカにするでもなく、わたしの言葉をそのまま受け止めて「それはよかったなァ」と言うのが、わたしには居ない、歳の離れた面倒見のよい兄の感覚というものを感じさせるので、少しむず痒かった。夕方の駅のホームは、学生の下校時間と重なってしまっているせいか、大きめの鞄を下げたこの辺りの高校の制服を着た学生の姿が多く見える。「混んでいるね」そう弓場に話しかけると、弓場は「そうだなァ」と駅のホームで電車を待つ学生らの姿を見ながらそう、言った。

「いつもこんな感じなのかな」
「かもな」

俺は電車に乗らねェから知らねェが、と弓場は続けて言った。「わたしも電車乗らないからわかんない」そう言うと、弓場は「俺もお前もこのあたりに住んでるからな」と言って、未だ電車の来る気配のない線路を眺めていた。

:

 電車の一定の揺れと、音を子守唄のように聴きながら、わたしが目を覚ましたときに車窓から飛び込んできたのは、広い海だった。沈みかけた太陽の、橙や赤の残滓を散らかした水の塊が、地平の彼方まで続いている。おだやかな波が、寄せては返すたびに水面に広がる太陽の残滓が、色や形を変えているのに、思わず目を奪われてしまった。「……きれい」思わず、わたしはそう呟いた。「起きたか」控えめに出された弓場の声が、近いところから聞こえる。すこし重いまぶたを擦って、声のした方に顔を向けると弓場の顔がやたらと近いところにあったのでびっくりしてしまった。「わ!」「寝たり起きて騒いだり、忙しいな」弓場の落とした声量に思わずわたしは周りを見た。この車両に乗っているのはわたしと弓場だけだったのがまだ、救いだった。わたしは自分の知らない間に、どうやら弓場の肩に凭れ掛かって眠ってしまっていたらしい。

「ごめん」
「電車に乗るまではあんなにはしゃいでたのにな」
「……ごめんってば」

「もう着くから寝るなよ」と弓場は言った。「うん」わたしはそう返事をした。<次は──駅、──海水浴場ご利用の方はこちらでお降りください。>車掌さんのアナウンスが、静かな電車の中によく響いた。「海だ」わたしがそう、呟くと弓場は「嫌か?」と問うた。「嫌じゃない」好きだよ、と答えると、弓場は「そうか」と言った。電車が駅に着いて、わたしと弓場は電車を降りた。電車を降りてすぐに、風に乗った磯の香りが鼻腔を擽った。この駅で電車から降りたのはわたしと弓場だけで、反対の、市内の方へと戻る電車を待つホームにも、人はいなかった。聞こえるのは、遠くの海鳴りと、出発して行ってしまった電車の音だけである。

「行くぞ」
「うん」

わたしと弓場は駅員の姿一つ見えない、さみしい改札を通り抜けて外へと出た。海水浴場入口と書かれた、古びた看板の矢印に向かって歩くと、車窓から見えた海のすがたがあった。白い砂浜が延々と広がり、寄せては返すおだやかな波が、白い砂を食っては沖の方へ戻ってゆく。海開きもまだ行われていない海水浴場は、真夏に見る色とりどりのパラソルや、浮き輪や、水着を着た人間の姿が何一つ見当たらない、夏の喧騒をすっかり忘れてしまった浜辺は、どことなく寂しく見えた。海水浴場の入り口を示す看板も、当初は明るい色の文字とイラストの描かれていたのだろうが、年季が入り文字もイラストも掠れてしまっているせいもあって、浜辺のさみしさに一層拍車をかけているようにも見えた。

「……誰もいない」

わたしが、誰もいないところに連れて行って欲しいと、そう言ったのだから、とうぜん誰もいない場所なのだろう。「俺は向こうに居る」そう、弓場は申し出てくれたのであるが、誰もいない場所にひとりでいるのは寂し過ぎるので、「なんでよ」と言ってしまった。それではただ弓場と一緒にいたい人みたいじゃないか、と思ったら途端に恥ずかしくなってしまって、「いまの、ナシ」と弁解しようとしたが、弓場はさして気にしていない様子で「子どもか」と言うだけであった。「ねえあっち、水きてる」そう言ってわたしが波打ち際まで近づこうとすると、弓場は冗談めかして「着替え無ェんだから泳ぐなよ」と言った。「泳げないから泳ぎません!」と返せば、「泳げたら泳ぐのかよ」と弓場はおかしそうに笑っていた。

:

「なんだ、もう満足か」
「うん。暗くなってきたし」
「あァ、そうだな」

太陽が顔を西の果てに隠し、水面に太陽の残滓がまだうすらと残っているが、東の空はもう夕焼けの色も忘れて暗い色をしていた。ちらほらと星が顔を覗かせ始めた頃に吹いた潮風が、わたしのからだを冷やした。弓場はわたしの手を引いて、駅の方へと歩き始めた。

「電車すぐ来たらいいね」
「あァ」

そう言いつつも、わたしも弓場も時刻表を確認しなかった。ただぼうっと歩いて、駅にたどり着いた頃に着く電車に乗れば良いと思ったのか、もう少しこのゆったりとした時間に身を任せていたいと思ったのか、はたまたそれ以外の理由があるのかは、分からないが、それを問わずとも構わないだろう。わたしと弓場は、歩いてきた道のりをまた、歩く。打ち寄せる波の色が、太陽の残滓を散らかした、青々としていたものからくらいいろに変わりつつあるのを眺めていた。「弓場ァ」わたしは、間延びした調子で彼の名前を呼んだ。「なんだァ」わたしに引っ張られるように、弓場も間延びした調子で返事をするのが可笑しかった。「ありがとう。来てよかった」そう言えば、弓場は笑って、「そうか、それはよかったなァ」と言った。

「また連れて行ってって言ったら連れてきてくれる?」

そう問えば、弓場は「時間が合えばな」と言った。「ありがとう」砂浜を、上機嫌で歩こうとしたわたしに、弓場は、わたしの手を少し強めに握って、「あまりはしゃぐとコケるぞ」と言うので、「こけたりしません!」とムキになって言ってしまったのであるが、つい先程砂に足を取られて弓場のほうに転びかけたことを思い出して、なんの説得力もないなと思った。

「帰るまでが外出だろうが」
「遠足みたいに言わないでよ」
「最初に言ったのはお前だろ」
「そうだった」

わたしたちはそう言って笑い合った。遠くに、駅舎の屋根のすがたをみながら、ゆっくりと歩いていた。もう戻ると言ったのはわたしなのに、もう少しこのおだやかな時間が長く続いてくれれば良いのにと思ってしまう。わたしは自分の感情を誤魔化すように、弓場に繋がれた手を少し強く握り返した。

2020-03-15