小説

気まずい話

 本部の、訓練室のあるフロアから一階上に上がった所にある、自動販売機そばの狭い休憩スペースをわたしは結構気に入っていた。この場所に訪れる人が、喫煙所に出かけたついでにやってくる人しかいないので、静かであること、それから、この休憩スペースの一番近くにある自動販売機に、わたしの気に入っている甘い紅茶の缶が置かれているからだった。防衛任務を終え、休憩スペースのベンチに座ってスマートフォンを眺めている頃に、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。喫煙所に行くひとだろうな、と思っていたけれど、わたしの勘は外れてしまった。

「こんにちは」
「あれ、嵐山だ」

やってきた顔が、喫煙所に向かう人でないどころか、喫煙所に立ち寄ることが無い嵐山だったので、結構驚いてしまった。見慣れた赤い隊服姿ではなく、シャツにジャケットの、少しラフな私服姿だった。手ぶらでやってきた嵐山は今日は防衛任務が無かった筈だから、もしかしたら広報の仕事でもあったのかもしれない。隊を率いたり広報の仕事をしてみたり、彼はよく忙殺されないなと思う。「こんにちは」そう、嵐山に挨拶を返すと嵐山はわたしの座っているベンチの隣に腰を下ろした。わたしがひとりと、わたしよりガタイのいい嵐山がこの狭いベンチに座ると、一気に窮屈になってしまう。わたしの肩に、嵐山の二の腕が触れた。嵐山はわたしの肩が触れていることをあまり気にしていないのか、「防衛だったんですか?」と普段の通りにわたしに話しかけてきたので、わたしばかりが勝手に意識しているようで少し恥ずかしくなってしまった。「うん。もう終わったけど」彼の質問にそう答えると、嵐山は「お疲れ様です」とわたしに言った。

「嵐山がここに居るの、珍しいね」

この休憩スペースにくる人は喫煙者ばかりなので、嵐山がいるのは珍しい。だから、そう嵐山に言ったのであるが、嵐山からは「そうですか?」という返事が返ってきてしまった。もしかしたら、わたしが知らないだけで嵐山もこの休憩スペースによく来ていたのかもしれない。

「嵐山もよく居るの?あんまり会わなかったから」

そう言えば、嵐山から「いや、俺はあまりここには来ないですよ」と最初に彼自身で言った言葉と違うことを言い始めてしまった。まるで、自分がさっきまで何を言ったのかわかっていないような、わたしの話をあまりよく聞いていないような嵐山に、「……何かあった?」そう問うてみたが、嵐山は何も言わなかった。「……」嵐山はわたしの話を聞いているのか聞いていないのかも分からないが、彼はただ、無言のままわたしの隣に居た。

「……」
「……」

揃って無言になってしまった結果、なんだか気まずい沈黙がこの休憩スペースに流れてしまった。この、気まずい無言の空気を何とかしようと、嵐山に話しかける言葉を探してみるが、思い当たるものが彼自身の話になってしまう。「いつも忙しそうだね、今日は広報?」そんな話を振ったところでどう考えても自分よりも暇そうにしてる女に言われるのは嫌だろうな、と思うし、嵐山のことだから「俺は大丈夫ですよ」と言うのが目に見えている。そう思えば、嵐山にかける言葉が本当に何も浮かばなくなってしまった。続く沈黙に勝手に気まずくなったわたしは、傍の自動販売機で飲み物でも買おうと思いベンチから立ち上がると、彼も同じように立ち上がってわたしの後ろをついてきた。わたしの背中にくっついている嵐山のすがたが、少し前に動画で見たカルガモの親子の、子ガモのすがたと重なった。「どうしたの」そう、友達にしろ先輩後輩の関係にしろ、わたしの半歩後ろという、物理的距離が近すぎる場所に立っている嵐山にそう、問うたのであるが、「ああ」「いや、」嵐山はそう、言いづらそうに口を動かしているだけで良い返事は得られなかった。わたしは、前を自動販売機、後ろを嵐山に挟まれたまま、自動販売機を眺めた。下段にある、あたたかい飲み物コーナーにある好んで飲んでいる紅茶のボタンに"売り切れ"の文字が光っているのを残念に思いながら、渋々その隣にあったコーヒーのボタンを押し、カードリーダーにスマートフォンをかざした。わたしと、大人しくなってしまったの嵐山の二人しかいないこの休憩室では、電子決済の音すらもやけに明るい音のように聞こえた。飲み物を買って後ろを振り返ると、目と鼻の先に嵐山の顔があったので、「なんか近すぎない?」自動販売機と嵐山に挟まれた状態のままで、わたしが嵐山にそう言ってしまった。彼は言われて初めて、はたと気付いたような顔をして「すみません!」とわたしに謝ってきたのであるが、嵐山は固まってそこから動かなかったので、自動販売機とわたしと嵐山の物理的距離は全く変わらなかった。「何か飲む?」わたしに謝罪の言葉を吐いたきり固まってしまった嵐山にそう、声をかけた。

「いや、悪いですよ」
「この間買ってもらったし遠慮しないでよ」
「しかし……」
「このままだとわたし、後輩に集った先輩になっちゃうから」
「……ありがとうございます」

ポケットから財布を出そうとする嵐山を制して何往復かのやりとりを繰り返して漸く折れた嵐山が、自動販売機のコーヒーのボタンを押したのをみて、スマートフォンを自動販売機のカードリーダーにかざした。最近はやりの電子決済は、スマートフォンだけあれば財布がいらないので便利で良い。この場に流れるには明るすぎる決済音がもう一度、この休憩スペースに響いたのちに、がこん、と飲み物が落ちる音を聞いた。自動販売機から出てきたばかりの缶コーヒーを拾い上げて、嵐山に手渡した。

「いただきます」
「どうぞ」

わたしは、飲み物を買う前まで座っていたベンチに腰を下ろした。わたしの隣に、嵐山も同じように座り、わたしたちは仲良く缶のプルタブを上げた。缶の開くなかなか景気の良い音を聞いて飲み物に口をつける。今日はいつも飲んでる甘い紅茶の気分だったのになあ、と思ったけれど飲んでみれば、コーヒーもなかなか悪くないな、と思った。缶に口をつけているときに、隣からぴりりとした視線を感じるような気がしたので缶に口をつけたまま、目線だけをそちらに向ける。すると、嵐山がわたしの顔をジッと見ていたので、なんだかすこしだけ気まずくなってしまい、缶から口を離してしまった。嵐山は缶を開けてから口をつけるでもなく、持て余した手指で缶と遊んで、わたしの顔を見ているだけだったので、「飲まないの?」と聞いてみたけれど、彼は「……ああ」と曖昧な返事をするだけであった。普段ならばもう少しハキハキとした答えが返ってくるのであるが、なんだか今日の嵐山はどこか曖昧で、ぼんやりとしているように見える。

「疲れてる?」
「……そうかもしれません」
「ちょっとぼんやりしてるね」
「すみません」
「いいよ」

「今日はもう何もないんでしょ?」と問えば、嵐山から「今日はもう何もありません」と返ってきた。何もないなら疲れていたりぼんやりしていても大丈夫そうだな、と思ったので「ならよかった」と嵐山に言うと、嵐山は「すみません」ともう一度わたしに謝罪の言葉を吐いた。わたしは嵐山に謝ってほしいわけでもないし、嵐山だって疲れていたりすることはあるんだろうし、疲れている嵐山が悪いことなんてひとつもないのになあ、と考えていた。「早く休めるなら休んだほうがいいよ」今の嵐山にかける言葉がそれくらいしか思いつかなかったのでそう言うと、嵐山はわたしに「俺、邪魔になっていますか?」と問うた。嵐山からの視線といい、すこし近い距離感といい多少の気まずさはあるのだが、捨てられた犬猫のような顔をした嵐山からそんなことを言われてしまえば、わたしの素直な感情をそのまま今の嵐山に言うのは憚られたので、「ううん」と返してしまった。嵐山は「よかった」と口元を緩めたあとにほっとしたような顔をしてわらっていた。気持ち嬉しそうにも見える嵐山の笑い方が、なんだかあどけない男の子の顔をしていたのですこしドキッとしてしまった。

「何かあったの?」

わたしにできることってあまり多くないと思ってはいたが、「力になれることって無いかな?」と嵐山に言ってしまった。嵐山がキョトンとした顔をしてわたしの顔を見ていたので、余計なお節介をしてしまったかもしれないと思ってつい、「ごめん」と謝ってしまった。「ありがとうございます」嵐山が目を細めて笑っていたので、なんだかほっとしてしまった(わたしにとって馴染みのある嵐山の笑い方は、こういう幼子に笑いかけるような、すこし大人びた笑い方をする方である)。嵐山は「そうですね」と言い、ひと呼吸おいて、「何かあったというわけではないんですが」とわたしに向けて話す言葉をひとつひとつ丁寧に選ぶように、ゆっくりと口を開いた。

「なんとなく、落ち着くので」
「ここが?」
「はい。すこし、気が抜けたのかもしれません」

嵐山はそう言って、漸く缶に口をつけた。嵐山の喉が、流し込まれたコーヒーのせいで動くのに目が自然と吸い寄せられて、わたしは嵐山のことをついジッと見てしまった。視線だけをわたしに寄越した嵐山と、目が合ってしまって初めて、わたしが嵐山のことをジッと見続けていることにはたと気づいて、「ごめん」と謝罪の言葉を口に出すと、嵐山は缶から口を離し、目を細めて笑っていた。

「ははは、構いませんよ」

見すぎてごめん、そう言えば、嵐山は一層笑うばかりであった。「飲みにくかったでしょう」そう言えば、嵐山は「気にしませんよ」と言った。嵐山は、続けて口を開いた。

「ここにきて良かったです」
「そう?」
「はい」

嵐山は「ありがとうございます」と言った。「わたしは、何もしていないよ」ただ、後輩にコーヒー缶をひとつ買ってあげることくらいしかしていない。殆ど何もしていないと言っても過言ではないのだが、嵐山は「俺にとっては、"何か"を貰ったので」と言った。「そうかなあ」わたしがそう、言うと、嵐山は「そうですよ」
と返してきた。

「じゃあ、そういうことにしようかな」
「そういうことにしておいてください」

嵐山はそう言って、また笑った。気の良い友達と一緒にいるときにたびたび見かける、年相応の男の子の笑い方をしていた。缶コーヒーの中身を飲み切った嵐山が立ち上がり、空き缶を自動販売機のそばに置かれているゴミ箱の中に捨てた。「ごちそうさまでした」そう、嵐山はわたしに向って言った。「いえいえ」そう返すと、嵐山は「今度は俺が買いますね」と言うので、「そんなことしたらまた買わないといけないじゃん」と返すと、嵐山は可笑しそうに笑っていた。

「また来ても良いですか」

嵐山はそう、わたしに問うた。わたしには断る理由が無かったので「いいよ」と返した。嵐山は、口元を緩めて嬉しそうに笑っていた。その顔がなんだか甘えている子どものように見えて少し可愛らしく見えて、なんだか悪くないなあと思ってしまった。嵐山は「ありがとうございます、それでは」と一言残して、休憩スペースから出て行ってしまった。嵐山を見送ったのちに、わたしは、未だ残っているコーヒー缶の中身を一気に流し込んだ。
2020-03-08