小説

はじまらない話

 なまえさんという人のことは知っていたが直接話した回数は数数える程度で、彼女と話すようになった切欠は「王子くんは恋の話って好き?」と彼女からぼくに話しかけてきたのが始まりだった。防衛任務が始まるまでの、ほんの五分にも満たない時間の出来事である。「嫌いではないですよ」「じゃあ、わたしの恋の話をちょっと聞いてよ」恋愛沙汰が好きという訳でも、嫌いというわけでもなかったので、ぼくは彼女の希望に首肯した。「わたしね、好きな人がいるの」そこから始まるなまえさんの恋の話は、防衛任務が始まるまでの数分程度の時間で終わるわけもなく、防衛任務が終わった後に十分ほど、その話の続きをしてその日は彼女と別れた。次になまえさんと会ったときも似たような話になった。「この間の話なんだけどさ」なまえさんが恋の話をして、ぼくがその話に相槌を打つという奇妙な関係が始まったのはそれからで、待ち時間のほんの数分しかない時間で盛り上がりすぎた日に、防衛任務のあとに三十分ほど時間を取ってなまえさんと話の続きをした。防衛任務が被った日の待機時間に、ほんの少しの間話していたはずが、防衛任務の後でなまえさんがぼくの作戦室にやってきてその話の続きを一時間程度、なまえさんはぼくに彼女の恋愛沙汰を話して帰っていく、という流れが常になった。恋をしている女の人の顔を見たのは初めてではなかったが、恋の話をする女の人のことが気になってしまったのは、たぶん、なまえさんが初めてだった。相談という名目でふたり、ぼくの作戦室で恋の話をするようになり、なまえさんとぼくは以前に比べたらそれなりに仲良くなったように思うが、あの日なまえさんは何故ぼくに恋の相談をしようとしたのか、相談役としての適役が数多くいる中で、そう仲が良かったわけではないぼくを選んだのにはそれなりに理由があったのではないか、ぼくではない人に恋の話をしているそぶりを見せたことが無いところを見れば、ぼくと話す切欠としてそう言う話をしたのではないか──などといった、なまえさんとぼくとの関係性に関する都合のよい理由が脳裏にポツポツと浮かぶようになり、そのたびにぼくは、いやいやそれは自意識過剰過ぎないか──と考えていたのであるが、なまえさんという人のことを考えれば考えるほどに、ぼくの中でなまえさんという女の人が、自身の心に占める割合というものは少しずつ大きくなり、気づいてみれば好きな人がいる女の人のことを好きになってしまった哀れな男が一人生まれてしまったのである。

 ぼくの隊の解散は、結構早い方だと思う。解散時間が夕方ごろであれば、作戦室でボードゲームをして時間を潰すこともあるのだが、基本的に、夕方の防衛任務が終わった後であれば、夜が遅いせいもあって用事がある人を除けば皆すぐに帰ってしまう。今日も例に漏れず、夕方の防衛任務を終えた後、時計が八時半を知らせる前に、皆早々に帰り支度をして、帰っていってしまった。ぼくひとりだけが残った作戦室は静かだった。物音ひとつしないこの部屋で、ぼくはジッとなまえさんがやってくるのを待っていた。なまえさんと約束をして待ち合わせをしているわけではないが、なまえさんはぼくの隊が夕方の防衛任務があった日は絶対に、一度はぼくの作戦室に顔を出しにやってくる。少し落ち着かなくなったので暇つぶしがてらに始めた作戦室の掃除を終えたころに、作戦室のドアがひかえめに叩かれた。ぼくの知る中でこのようなドアの叩き方をする人は、待ち人ひとりしか思い当たらない。

なまえさんこんにちは」
「もう、夜だけどね」

ドアの前に立っていたのはぼくの待ち人であった。彼女はよく纏っているトリオン体で出来た隊服姿ではなく、あまり本部で見ることのない私服姿だった。「どうぞ」ぼくがそう言ってソファに案内すると、なまえさんは「お邪魔します」と言って、先ほどぼくが座っていたソファに腰を下ろした。「今日は何もなかったんですか?」「うん」なまえさんは簡潔に答えた。「王子くんにどうしても言いたいことがあって」なまえさんは続けてそう、言った。ただぼくと話すためだけにここまでわざわざやって来たのだと思うと、胸のあたりがじわじわと熱を持った。「そうなんですか」そう、つとめて冷静に言えば、なまえさんは可笑しそうに笑っていた。「いきなり来てダメだったかな」「いえ、かまいませんよ」なまえさんは「ならよかった」といってぼくに向ってほほ笑んだ。

「お茶くらいしかないですが」
「勝手に来ただけだから気を使わなくていいのに」

冷蔵庫から五百ミリのペットボトルを一本取り出して、なまえさんの前に置いて、ぼくもなまえさんの座るソファの隣に腰を下ろした。なまえさんはぼくに礼を言ってペットボトルの蓋を開けて口をつける。なまえさんのふるえる喉の動きに思わず生唾を飲み込んだ。

「飲み切れなかったら持って帰っていい?」
「勿論」

なまえさんは「ありがとう」と言ってペットボトルをテーブルの上に置いた。蓋の閉じられていないペットボトルの飲み口のあたりを見ていると、なまえさんがぼくの名前を呼んだ。「もしかして、喉乾いてる?」なまえさんは机に置いたペットボトルを、ぼくに向けてそう問うた。「……いえ」そう返すと、なまえさんは「そう」と目を細めてわらって、ペットボトルに蓋をしてテーブルの上に置きなおした。

「あまり、やらない方が良いですよ」
「何が?」
「そういうやつです」

なまえさんにそう言うと、なまえさんはキョトンとした顔をしてぼくのほうを見た。目を何度か瞬かせたのちに、漸く思い当たったのか「ああ」と納得したような顔をしてアハハと可笑しそうな声を出して笑った。「間接キスのことね」ぼくとしてはそんなに笑うほど面白いことを言ったつもりではなかったので、目の前で笑い続けるなまえさんをただみていることしか出来なかった。なまえさんはぼくが、なまえさんに対して腹の底で何を思っているかを欠片も知らないから、そうやってのんきに笑っていられるのだろう。なまえさんはひとしきり笑ったあとに、ぼくに向っていたずら子のような笑みを浮かべて問うた。

「そういうの、気にする人?」
「はい」
「ごめん、気を付けるよ」

なまえさんは少しも反省したそぶりを見せずにそう言って、ぼくの顔を少し意地の悪い笑みを浮かべて眺めているので、ぼくは話を逸らすように、なまえさんに問うた。「今日はどうしたんです」なまえさんは今まで浮かべていた意地の悪い笑みをスッと片づけて、「ああ……」と本題のことを思い出すような顔をしたあとに、あっけらかんとした調子でぼくの問いに答えた。

「別れた」
「この間言ってた好きな人と?」
「そう」

なまえさんは大した事などないような顔をして、そう言った。ぼくはなまえさんが、なまえさんの言う好きな人と交際するまでの一連の話を知っている。なまえさんの、聞きたくもない恋の話──主に、意中の男に対するどうしてその人のことを好きだと思っているか、なまえさんが恋に落ちたきっかけ、それからなかなか意中の男が自分に振り向いてくれないのだという話である──に相槌を打ち、心にも思って居ないなまえさんの恋が良い方に向かうような、ぼくの目から見たアドバイスのようなものをしてみるなど、自分の恋心が腐って腹の底が煮えくり返りそうになる感情のすべてを抑え込みながら、少しも願っていない恋の成就を願っているふりをしてなまえさんの恋を応援するようなそぶりまで見せたというのに、なまえさんとなまえさんの意中の相手との交際は一か月もたたずに終わりを迎えてしまった。交際の始まりを告白してきたときはあんなにうれしそうな顔をしていたのに、今目の前で話しているなまえさんの表情があまりにも日ごろ見る彼女の顔とそう変わりなかったので、あまりにもあっけないなと思ったのが本音だった。なまえさんには申し訳ないとは思うが、ぼくはなまえさんとなまえさんの意中の相手との関係の成就を少しも願っていなかったし、二人の関係性が早々に終わってしまえばよいと思っていたので、ぼくとしては願ったり叶ったりであった。

「振られたんですか」
「振った」
「あんなに好きだったのに?」

そう問えば、なまえさんは「王子くんはちょっとイジワルだね」と言ってくすくすと笑った。なまえさんは人の気を少しも知らないで、ぼくに向って意中の男の話を、ぼくが腹の底でなまえさんとなまえさんの意中の相手に対してどのような感情を燃やしていたのかを欠片も知らないまま、いけしゃあしゃあと話していたのだから、それくらいの意地の悪さくらい許してほしいものである。「あんなに好きって言ってたから、なまえさんが振ったのが意外だったんです」そう言えば、なまえさんはすこしばかり考え込むようなそぶりを見せた。彼女の中でぼくに説明するのに一番都合の良い言葉を選ぶのを決めかねている時に見せる表情が、ぼくは嫌いじゃなかった。

「詰まらなくなっちゃったの」

なまえさんはテーブルの上に置いたペットボトルの、ラベルの剥し口の点線のある当たりで遊び始めた。次第に、ペリペリと小気味よい音を立ててラベルの点線が二つほど破られる音がしたが、中途半端になったのが気持ち悪かったのか、なまえさんは勢いよくそれを剥して机の上に剥し切ったラベルをぐしゃぐしゃに丸めて置いた。ぼくが近くのごみ箱にそれを投げるとなまえさんは「ごめん」と言ったけれど、もしぼくに謝るのであれば、テーブルの上にごみを放ってしまった程度のそんなくだらないことなどではなく、なまえさんに好意を抱いているぼくに、ぼくではない別の好きな人の話をしていたことを謝って欲しかった。なまえさんは続けて、口を開いた。

「わたしのことを好きって言われた途端に冷めちゃった」

なんでだろうね、となまえさんはぼくに向かってそう問うた。好きな人に心のうちを伝えてその好意を受け入れてもらえた時はあんなにうれしそうにしていたのに、欲しがっていた相手の心というものを手に入れた瞬間に冷めてしまったと言われてしまった、なまえさんに振り回されたと言っても過言ではない、顔も知らないなまえさんの意中の相手(もうこれも、過去形であるが……)のことを哀れに思った。なまえさんは「なんでこんな風になっちゃったんだろう」と呟いた。なまえさんにとって恋愛というものは、その駆け引きの間が楽しいのであって、相手の人そのものが欲しいというものではないのだろう。自分が好きになった相手を、好きにさせるまでの間が楽しいだけで人自体を愛しているという訳ではないのだから、なまえさんが好きになった相手がなまえさんの方を向いてしまった時点でもう、なまえさんの興味は削がれてしまうのも仕方のないことなのかもしれない。好きな人が振り返るまでの束の間の遊びというものが、彼女にとって楽しいことであって、そこから先のことに彼女は全くと言っていいほど興味が無い。言葉にしてしまえばただ、それだけのことなのであるが、なまえさんにその答えを素直に教えてやるのは嫌だったので、「なんでだろうね」と答えた。ぼくのその口ぶりがもったいぶったように聞こえたのか、なまえさんは少しむっとしたような顔をして、「なんだか今日の王子くんはイジワルね」と、先ほど言った言葉をもう一度ぼくに向って言うので、「そうだね、今日のぼくはちょっと意地悪なんだ」ぼくは彼女の言葉を否定しなかった。
2020-02-24