小説

有象無象の話

#ちょっとグロテスクな描写を含みます(ミンチ)
#夢主は死にます

「きみ、夏油くんだ」

 校舎の廊下にもエアコンをつけろよ、と言ったのは悟が先だったか、それともそう思ったのが自分だったのかさえもうわからないが、この校舎で夏を迎えるたびに、この暑さを何とかして欲しいと思う。窓の向こう、外から聞こえてくるセミの鳴き声が、熱さを余計に増幅させているようにさえ、思う。昼休み、トイレから自分らの教室へと戻っている最中のことだった。知らない女の声に呼び止められて振り返る。夏にも関わらず、長袖の制服を着ている女子生徒がそこには立っていた。「暑いねえ」と女は言った。夏なのに長袖を着ているんだからそれは暑いに決まっているだろう、と言いたくなるのを我慢して、「そうですね」と返した。女は大袈裟に手で仰ぎながら、「もう嫌になっちゃう」と肩をすくめて言った。女の眼球が、己の目を捉えた。深い、色をした眼だった。女は一方的に己のことを知っているのか、己の名前を呼んでそう、気さくに話し掛けてきたのであるが、生憎、己は目の前の、やたらと長いまつげに縁どられた眼球に心当たりは無かった。

「どちら様ですか」
「いきなり話しかけてごめんね。わたしは、君の知らない人だよ」
「はあ」
「学年だけで言うなら君の先輩になるんだけどね、全然強くないから知らないと思うよ」

女はそう言った。交流のあった上級生の姿を少しずつ思い返してみるが、目の前の女がいたかどうかまでは思い出せなかった。悟がよく構いたがっている先輩の顔であればすぐに思い出せるのであるが、この女の顔の造形に関する記憶は、いつまでたっても思い出せなかった。ただでさえ生徒の数の少ないこの学校で、まったく知らない顔の人間がいることはあまり考えられないのにも関わらず、である。

「わたしねえ、あなたと被ったこと無いから、わたしのこと知らないと思うよ」そう、女は笑っていた。そうして、女は彼女自身の名前を己に名乗ったのであるが、やはり、その名前にも覚えは無かった。

「いきなり、どうしたんです」
「急に話しかけてごめんなさい。つい見かけたから話しかけてみたくなって」

女は続けて言った。

「わたし、この後にこれからはじめて一人で任務に行くんだけどね、幸先よさそうだなあって」
「はあ」
「ジンクスってあるでしょ。新しい下着で行ったら無事任務成功する、みたいな」
「聞いたこと無いですよ、そんな話」

そう、女に言えば女はカラカラと笑った。「だって、今わたしが作ったんだもの!君が知るはずないよ」あまりに楽しそうに笑うので、こちらもつい、つられて笑ってしまいそうになった。

「君みたいな強い人に行く前に会えたんだから、なんかいいことありそうだなってそう思っただけだよ」
「そうですか」

女は気分が高揚しているのか、それとも緊張しているのか、女の口はとてもよく動いていた。早口で話す女の話を適当に聞いて、相槌を打つ。女は「そうだ」と思い出したように言って、己に向って手を差し出した。

「記念に握手してもらえませんか?」
「かまいませんよ」

女が差し出してきた手を握った。己の手よりもずっと小さい手をしていた。女の手は、夏場であるにも関わらず、ほんのすこし冷たい手をしていた。女は、己の手を放して「ありがとう、夏油くんにも良いことがありますように」と、そう言って去っていった。「気を付けてください」そう、去り際の女の後姿に向って言えば、女は振り返ったのちに目を細めて笑った。




 その日は、真昼の太陽に焼かれたコンクリートからのぼる熱がじわじわと自身の肉を焼いているような感覚さえ覚えるほどに暑い日だった。場所にたどり着くまでに、額には汗の玉がぽつぽつと浮かび、ハンカチを出すことを面倒くさがって袖口で拭ったが、それは際限なく溢れてくるので拭うこと自体を諦めてしまった。
 任務から戻らない女子生徒がいると言われて次に派遣されたのは、己だった。指定された場所は、都心から数十キロほど遠くにある、廃棄された工場が多く集まる地域だった。色濃く残る残穢を辿りながら、数日前に握手をした、年上の女生徒のことを思い出していた。初めての任務だと、緊張と期待とが混ざった表情を浮かべて、己の手を握ったあの女のことである。己の手を握って幸運のジンクスだなんだと好き放題に言っていたその女でなければよいと思った。己と握手した結果不運な目に遭っていた、と言われてしまえばたまらない。跡を辿って数キロほど歩いた頃にたどり着いた背の低い廃ビルに呪霊は居た。本来聞かされていた任務の内容では二級程度という話であったが、それよりも等級はずっと上のように見えた。呪霊を祓ったのちに、行方不明になったらしい女生徒を探す。呪霊のいなくなったあとのこの場所は、血と、腐敗臭の染みついた空気が漂っているだけであった。呪霊を本来祓う予定だった行方不明になったとされる女子生徒はもう、無事ではないどころか、もうとっくに死んでいるのだろう。
 ひび割れたコンクリートの上を歩く。行方不明者の居るだろう場所までの案内は不要だった。あたりに漂う死臭の強くなるほうへ、ただ歩けば良いだけだった。死臭の濃くなるほうへと一歩足を踏み出すたびに、血生臭さと腐敗臭はより強くなり、頭痛がする。思わず鼻を摘まみ、胃袋からこみ上げてくる吐き気を堪えながら歩いた。途中、ひしゃげて外れてしまったドアが通り道を阻んでいたので、思い切り蹴り飛ばした。ドアが大袈裟な音を立てて倒れ、ドアが隔てていた部屋の奥から、より一層強い死臭がただよい、胃からものがせりあがってきそうになったのを無理やり飲み込んで堪えた。
室内に広がる光景は悲惨なものであった。赤黒い血の塊の中から細切れのピンク色をした肉片の大小かけらがひとつ、ふたつ、時折、脂肪だろう白い肉のかけらが集まった"モノ"の中から、赤黒い血で変色した骨だろうものの姿が肉片の間から顔をのぞかせている。そのまわりを、蠅が飛んでいるのはなんとも異様な光景であった。思わず、生唾を飲み込んだ。胃袋がむかむかするのを堪えながら、それを直視した。果たしてこれがもともと人間だったものなのか、それとも何か他の動物の死骸なのかも、肉片を見ただけでは分からなかった。何等かの動物の肉を乱暴に潰して肉片にしてしまったもののようにさえ、見えた。手指のかたちのひとつやふたつくらい残っていれば良いものの、手指どころか、手指の爪いちまいのかたちすらろくに残っていなかった。肉片の塊から少し離れたところに、半分潰れた眼球がひとつ、転がっていた。焦点の定まらない、暗い色をした目玉が、ひび割れた天井の方を向いて、血の色をたたえているのがなんとも不気味だった。ただ、それがたしかに元は人間の形をしており、かつ、戻らない学生だということが推察できるのは、赤黒い血の塊の中に、肉片にくっついたべっとりと血に濡れた髪の毛があったのであるが、それが男のものにしては随分と長い毛髪で、かつ、つい先日見たばかりの色合いをしていたこと、それから、赤黒い血だまりの中に、彼女が着ていただろう制服の布の切れ端が血を吸ったまま、残っていたためだった。行方不明になった生徒というのが女であることを先に伝えられていなければ、この血肉の塊と言った方が正しいものが、女であったことさえ判断に困るほどであった。おおかた、自爆でもして呪霊ごと巻き添いにしようとしたのだろうが、結果を見る限り失敗したのだろう。行方不明になった女生徒は、判断するまでもなく死んでいた。つい数日前まで、己の手を握り、目を見てくだらない冗談のような会話をしたばかりの女は今、己の目の前でただの肉塊にすがたを変えて、物言わぬ得体の知れぬ何かになり果てていた。カラカラと笑って、冗談を言っていたおんなの唇の形はもう分からなくなっていた。「……」つい先日聞いたばかりの女の名前を呼ぼうとしたが、思い出すことが出来ない。脳みそにこびりついているのはジンクスにまつわる話と、ぼんやりとした女の輪郭だったのであるが、今となってはその女の姿すらも、人のかたちではなく、目の前に広がる肉の塊に姿を変えつつある。遠くで蝉の鳴く声だけがやけに大きく聞こえた。




 ああ、やだなあ。見ちゃったよォ……人の話し声が聞こえる。乗ろうとした電車が、今己が居た駅のホームから飛び込んだ人を轢いてしまった。車両が人を食う生々しい音が響いたときに一瞬だけ、シンと空気が静まり返ったように思ったが、その後、遠慮がちに話す人の声が聞こえ、また普段の喧騒へと戻って行ってしまった。人を食った車両の底から、血だらけの人間の腕から先が見えたがそれもほんの一瞬の出来事で、それらはすぐにブルーシートで覆われて目の見えないところへと隠されてしまった。駅のホームに吹き込んできた北風に、思わず肩をすくめてしまう。口で呼吸をしてみれば、白い息が漏れた。電車の運転再開時刻を知らせるアナウンスの声が、人の声で騒がしい駅によく響いているのを聞きながら、電光掲示板に映った時刻と自分の時計とを眺めて、ため息をついた。自分の携帯電話を構え、我先にと車両の方へと出る人たちの流れに逆らうように、駅の構内へと戻った。北風の吹き込む寒いホームで一時間も待つのはごめんだった。今日、待ち合わせをする予定の相手に、電車が暫く動かない旨を連絡し、先に昼を食べてしまおうと駅の構内を歩いた。休日の昼前の時間はどこも込み合っていて、店の外から店内を見ても、どこも人ばかりでごった返していた。漸く見つけた、空き席のある店は、乗ろうと思っていた電車のくるホームからかなり歩いた場所にある洋食屋であった。相当、長い期間営業している店なのか、駅構内に並ぶ小綺麗な店に比べれば随分と質素なようにも、古びている店舗のようにも見えた。気温が低いことを考えても、今いる場所からもっと遠いところまで時間つぶしのために入る店を探す気にはなれず、店頭の食品サンプルをジッと眺めた。上質な卵を使ったオムライス、それから、この店自慢のパン、それからエビフライが並んでいた。どれもこれも、昼食前の腹には魅力的に見える。古びた店であるにも関わらず、値段は駅構内にある他の店と同じくらいで、それなりに足元を見た強気の価格設定だと思った。未だ、学生の身分である己の財布にとっては、それなりの打撃を与える金額である。乗ろうとしていた電車が止まり、遅刻が確定した時点でもう、不運極まりないのであるが、ここで食べた食事までハズレだったら嫌だなと思うと、勝手にため息が漏れた。己の視線の先にはハンバーグの模型が置かれていた。この店で一番人気のある商品なのか、"オススメ"と"人気ナンバーワン"の二つの宣伝文句まで貼られている。「夏油くんにもいいことがありますように」そう、知らぬ女の声と、喧しい蝉の鳴き声が聞こえたような気がした。思い出したくもない、今の季節からほど遠い夏のことだった。とてもじゃないが、今はその目玉商品とやらを食べるような気分にはなれなかった。
2020-01-25