小説

白紙

みょうじ、返すものがある」
「返すもの?」
「ああ」
「わたし、レイジさんに何も貸してないよ」

夕食を終えて空になった食器を台所に片づけている時に、今日の食事当番のレイジさんがわたしにそう、話しかけてきた。レイジさんに何かを貸した心当たりは無かった。なにせ、わたしは三門市につい数日前に戻ってきたばかりで、その間にレイジさんにモノを貸していないからだ。レイジさんは「まあいい、後で渡す」と言ってまた後片付けに戻ってしまった。そのまま聞いても、邪魔になるだけだからとわたしは台所を後にして、悠一たちがテレビを観ている談話室でレイジさんを待つことにした。

なまえさんどうしたの」
「レイジさんから返すものがあるからって言われたんだよ。これがランク戦?」
「うん」

談話室のテレビで、悠一がランク戦の映像を観ている最中だったので、わたしは部屋から去ろうとしたのであるが、悠一は「いいよ、ここにいても」と言ってわたしにソファに座るように言った。「でもわたし、まだ正式復帰じゃないからまずいんじゃないの」そう、悠一に問うたが、悠一が「本部の人も状況は知ってるし、ボスも良いって言ってるから良いんじゃない」と言っていたので、その言葉に甘えてソファに腰掛けた。

「今こういうこともやってるんだ」
「うん」
「へえ、ボーダーはいろいろ変わったんだね」
なまえさん、本部見たらちょっとびっくりするかも」
「楽しみだなあ」

画面の向こう側で、旋空弧月が上手く決まって一人、ベイルアウトした。「点が動くな」「うん、一回引いて建て直さないとちょっと厳しいかも」一人をかばうためにシールドを入れてがら空きになったところを撃たれて飛んだ。仲間が減って周りのサポートが得られなくなった人が集中的に狙われて、また一人が飛んでいった。立て直しは出来ないまま点数が取られて行ってしまい、その隊の人はもう、誰一人ランク戦のフィールドからはいなくなってしまった。「あらら残念」悠一がそう言った時に、当番の仕事を終えたレイジさんが、談話室にやってきた。「今点数が動いたとこだよ」「そうみたいだな」レイジさんは画面で行われているランク戦を観て状況を理解したようであった。レイジさんは、画面を観ていたわたしのほうを向いて「みょうじ」とわたしの名前を呼んだ。

「何これ?」
「預かり物だ」

レイジさんから手渡されたのは、封の切られた白い封筒だった。わたしはその封筒から、一枚の紙を取り出して広げた。表を見ても、裏を見てもその紙には何も書かれていない。悠一は白紙を見て「ああ、アレか」と困ったように笑いながら言った。悠一にはこの紙が何なのかわかっているようであったが、わたしには分からなかった。

「遺書だ」

レイジさんがそう言ってはじめて、わたしはこの白い紙のことを思いだした。「あっ」そう、思わず声を出してしまったのを、レイジさんは半ば呆れたような顔をしていたし、悠一は「これ、残した方もすっかり忘れてるなんてね」と笑っていた。




 近界に行く前には、遺書を書く。無事に帰ってこれればよいが、遠征に行った先で万が一のことが無いとも限らない。だから、死んで開くことが出来なくなった人間の口の代わりに、生者に意思を伝えるのが、その書き置きであった。わたしが遺書を書いたのは十五の頃のことである。
 机の上に広げられた白い紙とどれだけにらめっこをしても、その紙の上に字が増えることは無かった。わたしが書かなければ、この紙の上の文字は増えることなどないのだから当然のことなのであるが、この増えない文字にわたしはとても苦労をしていた。遠征に行く前日までに出すようにと、一週間以上前には言われていたのにも関わらず、遠征が二日前の今日になっても、遺書は白紙のままだった。書きたくなくて書けないという訳ではない。書く気はあるのに、この紙の上に書くべき文字が、わたしの頭にちっとも浮かんでこなかったのである。休憩を挟んで書こうと、飲み物を飲んだあとにもう一度机に向かってみたけれど、相変わらず用紙は白紙のままだった。気分転換のつもりで飲んだ飲み物も、ペンも何もかもを放り投げて、わたしは基地の屋上に出ることにした。閉じた部屋の中にいても何も思いつかないのだから、外に出て見れば多少は書けることがあるのではないかと思ったからだった。
 屋上は静かだった。太陽はとっくに西の向こうに沈み、暗くなった空には銀色の砂が散らばっている。青白い月あかりがほんの少しばかりさみしげな光を放って、あたりを照らしていた。未だ、電気の付いている民家が多いせいか、月のうすあかりがかすんでしまうくらいには、三門市の夜は明るい。この街並みは、変わらない。わたしたちが近界民と戦っていることなど、もしかしたらこの街に住む人たちはきっと、知らない。わたしが二日後にはこの市内から近界の別の国へと行くことも、もしかしたら、帰ってこれなくなってしまうかもしれないと言うことも、誰も彼もきっと、知らないのだろう。脳裏にある進まない白紙のことを考えると、わたしの心臓のあたりはぎゅうと憂鬱な気分に押しつぶされてしまう。息を大きく吸って、吐き出す。湿った夜風で、押しつぶされそうな肺を少しばかり膨らませてみても、やはり、わたしの気分は晴れなかった。正解も何もないモノを考えることは、あまり得意ではなかった。何が正しいかも、間違っているかもないもの、そして、わたしにしか出しようのない物事に対する答えを、わたし以外の人は当然持ち合わせてはいない。遺書に何を書いたら良いのかを、この基地に居る年上の人たちに聞いてみたけれど、わたしの望む答えは誰も持っていなかった。誰も彼も皆、わたしに「伝えたいことを書いて残したらいいんだよ」と言ってくれるのであるが、その伝えたいことというのが、わたしには少しも思い浮かばなかった。ある人は、この街にいる家族のために書置きを残すのだと言っていたし、桐絵は家族と、林藤さんに書くのだと言って書いているのを見かけた。誰も彼も皆、誰かのために筆を執って、文字を書いているのであるが、わたしには誰に宛てて書けば良いかも、何を書けばよいかもわからなかった。
 わたしには家族がいない。いたはずの家族は、わたしに一言も残さずいなくなってしまった。わたしに伝える言葉が何もなかったと言えばいいのか、伝えることを考える間もなくいなくなってしまったのか、わたしの家族の場合はどちらかと言えば後者で、わたしに何かを残す暇すらなかったのだろうとは思う。わたしの場合と、彼らの場合との状況が違うことは百も千も承知なのであるが、彼らの遺言が無かったからと言って困ったことは、わたしの身の周りではあまりなかったように思う(大人たちの場合は分からないが……)。だからこそ、その書置きを残すこと自体にあまり、前向きになれないだけなのかもしれない。遺書を書けないことに関する言い訳だけは山のように出てくるのに、肝心の遺書は一文字も書けないのだから困ったものである。

ドアが開く音を聞いて、わたしは屋上の入り口の方を見遣る。やってきたのはレイジさんだった。「みょうじ」レイジさんはわたしの苗字を呼んで、わたしの居る場所の隣にやってきた。

「どうした」

レイジさんは、マグカップを一つ、わたしに寄越した。「ありがとうございます」礼を言って受け取ったマグカップには暖かいココアが入っていた。カップから立ち上る湯気を見て、わたしはゆっくりとカップに口をつける。唇に触れたカップが熱かったので、わたしはカップから口を離した。作りたてのココアはまだ熱く、もし飲むのであればもう少し置いてから飲んだ方がよさそうだった。

「わたし、何を書いたらいいか分からないんです」
「遺書か」
「はい」

死後のために自分の意思を生きている人たちに伝えるための最後の手紙。わたしは、何を、誰に宛てて書けば良いのか分からなかった。わたしにはもう、家族は居ない。正しくは行方不明なのだから、死んでいるかどうかまでははっきりとしないが、死んだも同然だった。だから、わたしが手紙を送りたい人はもう、どこにも居ない。死んだ人間の口の代わりになるそれを、もういるかも分からない人に宛てて書くのもおかしな話だろう。

「手紙を送りたい相手も居ないですし」
「……ここの人宛てでも良いんじゃないのか?」

この基地に宛てる言葉を考える。悠一、桐絵、それから……基地に居る隊員たちの顔を一人ずつ思い返す。わたしがもし、死んでしまった後に彼らに伝えたい言葉を考えてみる。もし、わたしが死んだ後に何かを頼むのであれば。もし、死んだあとに何かやってほしいことがあるのであれば──しかしながら、わたしは、彼らに対して残したい言葉は何一つ出てこなかった。

「……何も出てこないです」

レイジさんは何も言わなかった。わたしの言葉を肯定も否定もしなかった。

「わたしの銀行口座とかは城戸さんに任せたままだから、それは言わなくてもよさそうだし、それに」

遺書、他人に残す言葉。残すくらい言いたいことがあるならば、生きているうちに言っておけばいいのだという気持ちは、わたしの身内がもうすでに物言わぬ遺体のない墓石になってしまったからなのかは分からない。もし今言えない事ならば、そのまま墓までその言葉は持って行ってしまった方がいいのかもしれない。相手が返事を返すことが出来ない状況で何かを言うことを、卑怯だとも思う。考えてみれば考えるほどに、遺書を書かないための言い訳ばかりが右から左まで並んでしまっている。わたしはそれらのすべてをレイジさんに言った。レイジさんは、普段通りの硬い面持ちのまま、わたしの話を聞いていた。

「……死んだ後に言うことを残すくらいだったら、生きてるうちに言っておけばいいんです」

いきなりわたしにそのようなことを言われたレイジさんが、あのポーカーフェイスの下で何を考えているのかはわからない。わたしがただそうであることを、そうであるように受け止めただけなのか、わたしに説教するための言葉を考えているのかも、わたしには想像が出来なかった。彼の表情は、とにかく読みにくい。悠一や桐絵のようにコロコロと表情が変わるのであれば、わたしの考えていることに呆れかえっているのか、怒ってるのか、それとも何かを伝えようとして一生懸命言葉を考えているかを知ることが出来るのに、レイジさんの場合はそれが通用しない。

「だから、わたしが死んでまでみんなに伝えたいことは、どこにもありません」
「……なら、それをそのまま書いたらいいんじゃないか」
「伝えることは無いって?」
「ああ。何もないよりは良いだろう」

レイジさんの言葉に、わたしは心臓のあたりをギュッと締め付けていたものが無くなっていくような気がした。何もないならばそれを書くということは、わたしには無い考え方だった。「それでいいんでしょうか」そう、レイジさんに問えば、レイジさんは「書くことが無いことがお前の意思なら、それでいいだろう」と言った。ほんの少し冷えたマグカップに、口をつける。暖かいココアの味が口の中に広がった。

「……もし、わたしの遺書が開かれることがあるなら、レイジさんがあけてください」

わたしは、そうレイジさんに言った。わたしの遺書がもし、開かれることが在るのであれば、わたしの心境を聞いてくれたレイジさんが明けてくれるのが一番良いとわたしはそう、思ったのだ。

「レイジさんならなんとなく、わかってくれると思うからです」




 結局あの後、わたしは白紙の遺書をそのまま封筒の中に入れた。もし、あの遺書を開けるのがレイジさんであるならば、この白紙の遺書の意味をそのまま分かってくれるだろうと思ったからだった。彼の言う通りに、伝えることはもう何もないのだということを書けば良いのかもしれぬが、それは、わたしが彼らに伝えることはもう何も無いのだと言うことを知らないのであれば、書く必要があったが、レイジさんが開けるのであればそれすら不要だとわたしは思ったのだ。十五歳の日、遠征に行く二日前のわたしは、何も書いていない遺書を白い封筒の中に入れて、封を閉じた。まさか、この遺書の封が切られることにになり、封筒を開けたレイジさんがどんな顔をしていたのか、あの遺書を見た当時のボーダー隊員たちがどんな顔をするかなんて、あの日のわたしは少しも想像していなかったのである。
2020-01-18