小説

群青#3

 「いいぜ」慶くんは、わたしの懇願に軽い調子で言った。「いいの?」そう、聞き返すと、慶くんは首肯した。

なまえ、お前今日いつ帰るんだ」
「終電に帰れればいいから……だいたい、十八時過ぎくらいかな」
「結構早いな」
「新幹線乗り換えがあるから」
なまえはまだあそこに住んでるのか?」

わたしは今自分が住んでいる、町の地名を答えた。太刀川くんは少し考え込むような顔をした後で、「なんかなまえが昔にそういう感じの地名を言ってた気がするな」と少し懐かしいものを思い出すような顔をしていた。

「終電がそれくらいってことは結構ここから遠いんだな」
「三時間半くらいかな。鈍行列車に乗ってる時間と、乗り換えの待ち合わせが長いんだよ」
「乗り換え?」
「うん。ここから新幹線の最寄駅までと、新幹線に乗った後にのる鈍行列車の乗り換えだよ」

電車の本数が少ないから、電車の待ち合わせに四十分くらいかかるんだよ、と慶くんに言ったが、慶くんはあまりよくわかっていないようであった。もしかしたら、彼の中ではわたしの住んでいた場所がこの町からどれくらい遠くにあるかもよくわかっていないのかもしれない。「……県をだいたい、三つ跨ぐか跨がないかくらいのところにあるよ」そう説明してみても、慶くんは大真面目な顔をして、「よくわからん」と言うだけであった。わたしが上手く砕いて説明するために説明の内容を考えていると、慶くんはそれを手で制して、「いや、いい。俺そういうの、よくわかんねえから」と開き直っていた。

「得意不得意ってあるだろ」
「……地理とか?」
「まあ、俺にとっては不得意だな」

慶くんは歯切れ悪くそう言って、「で、だ。これからどうする?」と慶くんはわたしに問うた。「わたしと慶くん、今日本来は何する予定だったの?」この場で待ち合わせをしていると言うことは本来、何かやることがあったのではないかと思い、慶くんに問うた。慶くんは「そうだなあ」と頭を掻きながら口を開くのであるが、その続きの言葉は出てこなかった。

「まあなんだ、俺もお前も、なかなかいい加減だったからな。何をするってハッキリ決めてなかったんだよ」
「待ち合わせの日だけ決めて?」
「おう」
「そう……」

慶くんは「俺もお前もいい加減だったのが運の尽きだな」と軽い調子で言った。「うん……」わたしが、自分の手帳に書かれた事柄を思い出しながらそう返すと、「しおらしくなったな、お前」と慶くんは言ったのちに、「まあ、何も分からなくなったらしおらしくもなるか」と続けて言った。

「お前、大学行ったら彼氏の二人や三人くらい作ってやるからなってデカイ口叩いてたのにな」
「わたし、そんなこと言ってたの」
「いや、嘘」
「信じるところだった……」
「ははは」

慶くんはわざとらしく笑った。「そうだな、昔お前と出かけたところにもう一回行くか」そう、慶くんは言った。

「俺がお前のことを全部話してもいいが、行ったことがあるところにもう一回行ったら何か思い出せるかもしれないだろ」
「慶くんに聞いたらさっきみたいに騙されるかもしれないしね……」
「いうなあ、お前」

「もし行くならあそこにするか」慶くんは、店の名前をわたしに言った。しかしながら、わたしにはその店の名前はよく分からなかった。慶くんに聞けば、それは駅前の商店街の中にある喫茶店なのだという。

なまえがそこ、好きだったんだよ」
「……行きたい」
「行こうぜ。もうこの時間なら空いてるだろ」
「じゃあ、道案内はお願いします」
「任せろ」

駅のベンチから立ち上がり、わたしと慶くんは、駅の外へと出た。足早に過ぎ去っていく人たちが、バス停やタクシー乗り場、それから近隣の建物へと消えてゆくのを後目に、わたしたちは歩き出した。駅前の横断歩道を渡った向こう側には、商店街のアーケードの入り口の姿があった。看板に年季が入って見えるあたり、随分昔からある商店街なのかもしれない。慶くんのうしろをわたしは着いていくのであるが、慶くんは思ったより歩くのが早かった。慶くんの長い足が一歩を進める間に、わたしは一歩と半分を歩かなければ、慶くんの足に追いつくことが出来ないので、自然と小走りになってしまう。慶くんはマイペースに喋っているのであるが、わたしは慶くんの歩幅についていくのに必死で、話している余裕があまり無かった。少し先を歩いていた慶くんが足を止め、わたしの方を振り返って初めて、慶くんは彼の歩幅とわたしの歩幅の違いを知ったのか、慶くんはわたしの手を引いて「悪いな」と言って歩幅を落とした。「足が長いからな、俺」そう言うのがちょっと嫌味だったので、「短足ですみませんね」と言うと慶くんはわざとらしく笑って見せた。

「ちょっとむかつく」
「以前のお前だったら俺ぶん殴られてたかもな」
「当たり前ですよ。温厚なわたしでよかったね」
「ホントだ」

慶くんに手を引かれるがままに、わたしは商店街を歩く。軒を並べている店舗は未だ開店準備中の店の姿もちらほらあるが、殆どの店はすでに営業を始めていた。このあたりの名産品がずらりずらりと並んでいる店や、古着を並べている店、それから、スーパーに薬局と、店の種類は様々でつい、わたしはそちらに目を奪われてしまう。そのたびに慶くんが、わたしの手を引きながら「なまえちゃん、いきますよ~」と冗談めかしていうのでちょっと恥ずかしかった。

「ごめん、つい」
「いきなり止まると転ぶからな」
「ごめん」

慶くんが案内してくれた場所は、年季の入った喫茶店だった。まだ朝方で開店したばかりのせいか、客の姿はわたしと慶くん以外にはなかった。喫茶店の主人は、わたしと慶くんの姿を見て、目礼をして、席に通してくれた。入り口から近い窓際の席に座り、わたしと慶くんはメニューを広げた。慶くんは「なんか食っていいか?」とわたしに言うので、「どうぞ」と返すと、慶くんは「ここのフレンチトーストが結構ウマいんだよ」と言った。慶くんの見ているモーニングメニューを一緒に見る。甘いバターの色をしたフレンチトーストの写真がずらりと並んでいた。フルーツが載ったスイーツのような見た目のものから、ベーコンが載っているものまで種類は様々で、どれもこれもおいしそうに見える。

「どうしよう、わたしも食べようかな」
「おう」
「どれもおいしそうで迷う」

わたしがそう言っている間にも、慶くんは、注文するものを決めてしまったようで、「俺は決めたから見ていいぞ」とメニューをわたしの方に向けた。

「決めるの早いね」
「まあ、今回食べれなかった奴は次来た時に食べればいいからな」
「じゃあまたわたしここに来なきゃ」
「食べに三門にまた来たら良いだろ」
「たしかに」

慶くんの言うことも一理あると思いながら、メニューを眺める。どれもこれもおいしそうなものばかりが並んでいて、目移りしてしまう。今の気分はご飯よりはスイーツっぽい感じの気分だなと思い、スイーツ寄りのフレンチトーストを眺めるも、フルーツが沢山乗っているものやチョコレートが載っているものまで様々あって、またその中でもわたしはゆらゆらと揺れてしまう。

「どれもおいしそうだなあ」
「おいしいぞ」
「へえ」
「……なまえが言ってたんだけどな」
「わたし、何食べてたんだろう」
「今のなまえが食いたいものを選べよ」
「それもそうだね」

わたしは迷いに迷った末に、フレンチトーストの中にマシュマロヨーグルトが挟まっているものにコーヒーを注文した。「朝からなかなか甘いの行くな」と言った慶くんはベーコンの乗っているメニューにハンバーグまで付けていたので、朝からよく食べるなあ、と思った。

なまえがここに住んでたのは知ってるだろ?」
「うん」
「お前、大学に入る間際に引っ越してったんだよ。だいたい二年前か?」

慶くんは、出された水に口をつけた後にそう、話し始めた。「なまえは県外の大学に進学するとか言ってたからな」と慶くんは続けて言うのであるが、わたしは、「そうみたいだね」と自分のことなのに、どこか他人事のように思っていた。大学の同級生は、大学に入ってからのわたしの話をしてくれることはあったけれど、大学からの付き合いであるため、それ以前の話を詳しくは知らないと言っていたし、わたしの家族は、今のわたしに対して過去のわたしを無理やり思い出さなくても良いのではないかと考えていたのか、詳しい過去のわたしの話をしなかったので、わたしのことを知っている人から、わたしの話を聞くのはなんだか新鮮だった。

「俺となまえは、そうだな……なまえがこっちにいた時のバイト仲間みたいなもんだ」
「じゃあ、慶くんとわたしは同じ学校ってワケじゃないんだ」
「高校は違ったな」

慶くんは、ポケットからスマートフォンを取り出して、「ちょっと待ってろ」とわたしに言って席を立った。「いってらっしゃい」と彼を送り出すと、慶くんは片手を上げて、電話を掛けながら店の外へと出て行ってしまった。わたしは、店の中から、入り口の外で電話をする慶くんの後姿を見る。少し猫背の慶くんの立ち姿は、どちらかというとだらしないように見えるのであるが、慶くんのちょっとユルいところや大雑把に見える所を考えればなんとなく、彼らしいようにも思えた。慶くんは、数分と経たずに戻ってきた。「悪いな」そう、慶くんは席に座りながらそう言った。

「大丈夫だった?」
「おう」

慶くんが「そういやさっき、何の話してたっけ?」と頬を掻きながら言うのが面白くてつい、笑ってしまった。

「わたしと慶くんがバイト仲間って話だよ」
「そうだった」
「慶くんとわたしはなんのバイトをしてたの」
「市内にデッカイ建物が在るだろ」

慶くんは、唐突にそう言った。慶くんのいう大きな建物というのは、線路の内側にあるあの、背の高い四角い建物の話なのだろうか。「あの、大きい四角い建物?」そう問えば、慶くんは「そう」と答えた。

「俺となまえはそこでバイトしてた。俺は今も続けてるけどな」
「わたしと慶くんが、あの大きい建物で?」
「ああ」
「あその建物って、何なの?」

慶くんに問えば、慶くんは少し考え込むようなそぶりを見せた。「そうだなあ」そう前置きをして、彼は口を開いた。

「簡単に言えば町を守る組織ってヤツだな」
「そんなことをわたしが?」
「おー、なかなかいい腕してたぞ、お前。今のお前にはあまり想像つかないかもしれんが」
「そうなんだ……」

お前もう部外者だから詳しいことは話せないけどよ、と慶くんは続けて言った。わたしは、鞄から手帳を取り出して、二年前の日付の所を慶くんに見せる。"ランク戦"と書かれた文字や、"防衛 鈴鳴方面"と書かれた文字が、カレンダーの上には細かく書かれていた。

「この、予定が書いてるところはその話なの?」
「ああそうだな」

慶くんはわたしの問いに肯定した。

「これ、全部バイトの話だったんだ」
「おう」
「なるほど」

わたしは、あの手帳に書かれていた文字の意味をようやく知ることができた。この日は町の東の方角に居たとか、西の方にいたとか、そう言う話を慶くんはわたしに教えてくれた。何をしていたかまでは、すでに部外者になってしまったわたしに話すことは出来ないと慶くんは言っていたが、大まかなことだけでもわかった事は、わたしにとって、過去のわたしの足取りを知るための大きな一歩には違いなかった。慶くんが話せる範囲でわたしが昔やっていたアルバイト先の話のことをしてくれている途中で、コーヒーとフレンチトーストが運ばれてきた。写真よりもずっとと大きいフレンチトーストの姿に呆気に取られていると、慶くんは「結構デカいよな」と言っていた。わたしと同じ大きさのフレンチトーストにハンバーグまで付けている慶くんに、「慶くんこれ全部食べれるの?」と思わず聞いてしまった。慶くんは、「案外行けるもんだぜ」と言っていた。慶くんが言う通り、この店のフレンチトーストはかなりおいしくて大満足なのであるが、量がとにかく多すぎた。わたしが食べ過ぎできつくなってしまったお腹をさすっていると、慶くんは笑いながら「なんだ、俺の知ってるなまえも何時もお腹がきついって満足そうな顔してたぞ」と言った。慶くんは涼しい顔をして、皿の上に載っているフレンチトーストとハンバーグをすべて平らげて「いやあ、食った食った」と言っていた。

「慶くんのお腹どうなってんの」
「見たままだろ」
「うん……そうなんだけどね、よく入るなって思ったんだよ」

「そんなもんだろ」という慶くんに、「そうかなあ?」と思わず返してしまったが、彼がそう言うならばたぶん、そうなのだろうと消えた大量のモーニングメニューのことを思い出しながら、わたしは食後のコーヒーに口をつけた。
2020-01-12