小説

プラネタリウムの一等星

 彼女のことを知っている。「泉くんだ」学校で会ったときの彼女は、カメラに映るときに浮かべる笑みを作って形のよい唇で己の名を呼んで見せた。「なまえちゃん」この年になって、異性の名前に「ちゃん」を付けて呼ぶ相手なんて、彼女くらいなものだが、今更彼女の名前を呼び捨てにするのも、他人行儀みたく苗字で呼ぶのも、彼女を示す同じ文字列だというのに全くと言っていいほど馴染まなかったので「なまえちゃん」という呼び名がそのままになって居る。「撮影?」そう、なまえちゃんはそう己に問うた。己の全身、ただ制服を大急ぎで着替えたことでほんの少し首元がよれているのを目ざとくみつけてしまったらしい。「いや、今日は衣装合わせ」身長が少し伸びたことで裾が足りなくなった衣装の調整をしていただけのことだ。「遅い時間なのによく頑張るね」衣装の面倒を見る転校生も、己もそう暇でない生活を送っているせいか、なかなか時間が合わずに放課後の随分と遅い時間になってしまったのはたしかに、申し訳ないとは思っている。衣装の調整が終わり、転校生をトリックスターの送迎係に引き渡した後、着替えに戻るときに丁度、なまえちゃんと会ったのだ。「なまえちゃんだって、こんな時間に何してんの」そう、彼女に問えば、なまえちゃんは「うーん、そうだなあ、忘れ物を取りに」とつい今思いついた言い訳でも述べるように言った。

「アンタもウッカリすることあるんだね。疲れてんじゃないの」
「そうかな」
「なかなか忙しいみたいだしねぇ」
「今はね」

「嫌味?」と問えば、なまえちゃんは困ったように笑うだけだった。彼女は芸能界に籍を置いていたが、有名な雑誌にピンナップが載るようなモデルでもなければ、地上波放送されるドラマに出る女優でもない。制作者が手で配り歩いたチラシでしか知ることのないような、小さな映画館でひっそりと上映される自主映画に出ているくらいだ。彼女はその仕事にたいそう満足しているようで、日ごろから「あの監督の作品はね、わたしのことを考えてくれるから好きなの」と言っていた。彼女の所属している事務所と学校側としては、彼女を大きく売り出したいようであったが、なまえちゃんはそれを渋っていた。そんな影に隠れ続け、芸能の仕事とはいえ芸能界の影の中の影の方でひっそりと息をしていた彼女が出ていた自主映画が、大手芸能関係者に見つけられ脚光を浴びることとなった。地下アイドルの「なまえ」が様々な困難を乗り越えてメジャーデビューを果たすまでのありがちなストーリー。ヒロインの努力の積み重ねを描いていった丁寧な話作りと、彼女の演技も相まってか、もう使い古されたようなネタで作られた映画であったのにも関わらず、大衆の前に映画のタイトルがでてからというもの、若者を中心に支持されるようになった。主人公である駆け出しの地下アイドルを演じたのがなまえちゃんだった。これが転機となり、彼女の知名度はみるみるうちに上がったように思う。そして、映画の中の地下アイドルは、本物のアイドルとして、メジャーデビューを果たした。映画の中の出来事が、現実の出来事として大衆の前に現れたのだ。
 なまえちゃんは周りに流されるように淡々と仕事をこなしてゆくだけだった。なまえちゃんの演技力には目を見張るものがあったのは、彼女に渡されたチケットの映画をすべて見た己が言うのだから、間違ってはいないだろう。役柄が何であれ、監督の求める像に自分自身を当てはめてゆくように、なまえちゃんはなまえちゃんという人間を薄く延ばして溶かしてなくしてしまうように、求められるキャラクター像を自分自身の中に取り込んでいった。求められる役柄が病弱なヒロインであれば、少しでも触れたら壊れてしまいそうな女性を演じるし、それがまた狂人であればなまえちゃんが日常生活を行うときに必要になる常識や良識のようなものをすべて捨て去ってしまったような狂人を演じ切る。だから、大衆の求めるアイドルを求められれば、そのように彼女は立ちまわっていた。そうしているうちに、影に隠れている事を求めていたなまえちゃんは消えてしまった。

「事務所にストップかけないといけないくらい仕事が舞い込んでくる泉くんと、一発屋のわたしとは違うでしょ」
「どうだろうねえ。ほんの少しもしないうちに、俺と比べ物にならないくらい売れたんだから、案外長いかもよ」
「うーん、そうかなあ」

そうだよ、と肯定はしなかった。己も、彼女も、芸能界という荒波にのまれているうちにうまく波を渡ることが出来ればよいが、いつの間にかおぼれて海の藻屑になることを善く知っているからだ。海の藻屑になる瞬間のことを、己も彼女も、はたまた芸能界に長く身を置く人間でさえ読みにくいものであるのだから、そこに絶対という事柄は存在しない。だから、無責任に彼女を肯定する言葉を吐くことはできなかった。
「次、いつ学校来るの?」彼女にそう問えば、なまえちゃんは「わかんない」と即答した。彼女のスケジュールが学校から、業界優先になりつつあることは何となくであるがわかっていた。平日に空きがちになる彼女の引き出しの中には配布されたプリントでいっぱいだった。もう引き出しに入りきらないだろう頃にはすべてプリントが無くなっているところを見ると、彼女が回収しているのか、はたまた誰かが彼女の家に持って行っているのかは知らないが、放課後にでも定期的に学校には一応来ているのかもしれない。「忘れ物、取ってきたの?」そう問えば、なまえちゃんは「うーん、あったと言えばあったような、なかったような」とどちらともつかない返答をした。

「意味わかんない」
「わたしも、自分で何言ってるかわかんないや」
「何それ」

なまえちゃんは己の顔を見て破顔した。たったこれだけのやりとりの何が面白かったのかは少しも分からないが、なまえちゃんはおかしそうに笑った後に、「泉くん、お願いがあるんだけど」と言った。「くだらないことなら聞かないよ」と返したところで「泉くんにとってはくだらないかもしれないけど、わたしにとってはくだらなくないよ」と笑うだけである。なまえちゃんはスマートフォンのカメラを起動して、「写真撮らせてよ」と言った。一蹴することは簡単だった。ただ「バカじゃないの、俺はそんなに安くないの」と言えばよいだけの話であるが、なまえちゃんが「お願い」と言ったときに一瞬だけ見えたなまえちゃんの顔が、己の良く知るなまえちゃんの顔であったから断ることをしなかった。「アンタも一緒に写るならいいよ。シャッターは俺が切る」と言えば、なまえちゃんは「それもいいね」と言って己に身を寄せて楽しそうに笑ったものだから、彼女の自然な笑顔が消えてしまう前に自分のスマートフォンのカメラのシャッターを切った。暗い場所で写したせいでぎりぎり表情が写るか映らないか程度のひどい写真を見て、己は自然と渋い顔をしてしまうのであるが、なまえちゃんは「ああ、そう、そうだ。これ、わたしが探していたのはこれだ」と言った。なまえちゃんに写真を送ってあげれば、なまえちゃんはその写真を暫く眺めた後に、「泉くん、ありがとう」と言った。

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 なまえちゃんは学校からすっかり姿を消していた。あの日、なまえちゃんとひどすぎる写真を撮ったきり、なまえちゃんは学校に一度も顔を出すことは無かった。それとなく人に彼女の消息を問えば、彼女は最後に写真を撮った日に退学届を出していたのだという。なんだ、なまえちゃんのいう「次」は「わからない」のではなかったのかと思うと酷く裏切られたような気持ちになった。もう、二度と学校に来ないのだと言わなかったのがなぜかと問うために、彼女に連絡を取ろうとしたが、何故だか彼女にメッセージを送ることは憚られた。彼女と切れてしまったことを知るのが怖かったからかもしれない。彼女が退学したことを噂程度に知った後から、なまえちゃんの名前を芸能の世界で見ることも無くなっていった。映画から飛び出たアイドルは、静かに活動の回数を減らしていって、自然に姿を消していた。最後に更新された彼女の活動記録は二年以上も前の正月に更新された元旦の挨拶であった。彼女の痕跡は、そこからもう途絶えていた。

 彼女が昔懇意にしていた自主映画を上映していた映画館が、老朽化で取り壊されるという小さなニュースが、ネットニュースに取り上げられた。映画館が閉館となるニュースを紹介する記事に、あの世間をにぎわせたあの映画のことが触れられていたが、彼女に関する情報は少しも載っていなかった。己がなまえちゃんから渡されたチケットで見た、なまえちゃんの転機となったあの映画を最初に見てから五年が経っていた。
 映画館に来たのはただの気まぐれだった。映画館が取り壊される前日、最後の上映日となる今日は過去に上映していた映画が上映されると聞いて足を運んだ。映画館に別れを告げるというよりは、彼女自身に別れを告げに来たと言えばよいのだろうか。もし、彼女が今日来るのであればと、一抹の望みをかけてこの場に居た。彼女がスポットライトに照らされる転機となったあの映画が、この映画館で上映される最後の映画となった。すっかり夜も更け始めた時間のせいか、映画館の傍に居る人の数はまばらだった。世間をあんなににぎわせた映画だというのに、見に来ている人間は殆どいなかった。(昔一度見に来たときも、この映画館はガラガラだったので特別客入りが少ない日というわけでもないのであるが。)己と、この映画館に別れを告げにきた人と、それから──空席だらけの映画館、その中の中央列の丁度ど真ん中あたりに席を取った。前に座る人は誰も居らず、己の視界を邪魔する人は誰も居なかった。「この映画、ご存じなんですか」己の隣にどっかりと腰を下ろした男が問うた。「はい。五年以上前に一度観ました」口からは己が思う以上にするすると言葉が滑り落ちた。己の中にあったのはこの映画を見るという目的から、シアターにだけ映るあの日のなまえちゃんを見に来た、という方が正しいという事もわかっていた。シアターのなまえちゃんを見ることで、二年前になまえちゃんに送ろうとして送れていないメッセージの送信ボタンを押す勇気が欲しかった。あの日に見たあの女の顔を、もう二度と見ることが叶わないというのであれば、最後にもう一度だけ見てやろうという気まぐれだった。「実は僕がね、この映画を撮ったんです」そう、男は言った。それに対して「そうだったんですか」と言ったときに映画が始まることを知らせるブザー音が流れた。映画が上映される前の広告はもう、流れない。部屋が暗くなった後、ただ、何も映らない真っ白なシアターがそこに在るだけだ。

「星よ、わたしは星になりたいの。でもきっと、わたしに成れるのはこの星だわ」映画の中のなまえちゃんは、そう言った。なまえちゃんの視線の先に広がるのは、安っぽい星の明滅であった。プラネタリウム、人工的に作られた半球に投影された、光の粒子の群れである。「アイドルになるんだろう、そんなところの星でいいのかい」その問いに対して、なまえちゃんは「ええ。善いのです」と言った。この先のセリフは、とてもよく覚えている。「アイドルのわたしはたぶん、ほんとうのわたしからずっと遠いところにあるわたしだわ。たぶんそれはわたしじゃなくて、わたしという作られた星よ。だから、プラネタリウムの星にしか成れない」なまえちゃんは、その言葉をひときわ丁寧に述べていた。あの日見た時には分からなかったものが、今の己にはよく響いて聞こえた。「プラネタリウムの星も、人に安らぎを与えることが出来るわ。だから、わたしはそれを悪いことだとは少しも思わない」映画の中のなまえちゃんは、己のよく知るなまえちゃんの顔をしていた。五年前に見た時には少しも分からなかったあの頃の彼女のことが、今なら何となくわかるような気がした。何にでもなれるなまえちゃんは、なまえちゃんそのものをきっと、どこかに置いてきてしまったのだろう。プラネタリウムの星、人の望むアイドル、女優、自己を薄く延ばして、周りに溶かしてゆくように、彼女そのものが何だったのかが少しも分からなくなってしまうほどに人の求める役割を演じ続けた彼女はついに、自分自身の星の色を失ってしまったのだ。彼女があの時忘れてしまったのは、彼女自身だったのかもしれない。あの日写真を撮って満足そうに笑ったときの顔のことを思い出そうとしたところで、あの日笑った顔と、スクリーンに映る彼女の顔が同じかどうかなど、もう記憶の深いところに眠ってしまっているのだからわからない。あの日取った写真を後で見ればわかるだろうか、そうほんの少しだけ考えてみたが、あの日取った写真はひどく映りが悪いのだから期待するだけ無駄か。そう思えば、自然に涙があふれてきた。そして、彼女がこの監督の自主映画に出続けていた理由がほんの少しだけ分かったような気がした。彼女もまた、地下アイドルの「なまえ」であったのだ。

 映画のスクリーンが黒く塗りつぶされ、上映が終わった後にほんの少しだけ寂しい余韻が残った。「ありがとうございました。最後にこの映画が見れて良かったです」そう、己は隣の席の男、あの映画監督だという男に述べた。「楽しんでもらえてよかった」と、そう男は述べた。「アイドルになる事に成功したはずなのに、どことなく切ないですね」そう、己が述べたときに、男は「そうだね」と言い、真っ白になったスクリーンのほうを見た。

「あれから映画は撮られていないんですか?」
「ええ。私の作品も、これが最後です。プラネタリウムはもう、終わってしまいましたから」

男はそう言い、己に別れを告げてシアタールームから出て行ってしまった。己は真っ白になったスクリーンをただ、呆然と見ていた。もう、二度と映ることのないなまえちゃんの顔のことを思い出しながら、もう二度と映画を投影されることのないスクリーンを見ていた。ただただ、あの映画に映る彼女のことをコマ送りで巻き戻すようにして一枚一枚、彼女の映っていたスクリーンを想う。スクリーンに映る彼女を思い出しているはずなのに、どうしてか己の脳に浮かぶのは、放課後の校舎で最後に会ったなまえちゃんのことであった。終わってしまったプラネタリウムを巻き戻す事はもう、できない。己はもう、あのメッセージの送信ボタンを押すことはきっとできないのだろう。それでも、もう終わってしまったプラネタリウムの星を、己はまだひとり追い続けている。
2019-12-31