小説

群青#2

「わたし、昔のことを何も知らないんです」そう、わたしが恐る恐る口に出すと、彼は目を丸くしてわたしの顔をジッと見たあとに、彼自身の顔を指さして口を開いた。

「もしかして俺のこと、覚えてない?」

ひげ面の男はわたしにそう問うた。彼のような強烈な印象の人と過去に会っていたのであれば、忘れようもないはずなのに、生憎、わたしの記憶の中に彼の姿はどこにもなかった。彼には申し訳ないと思ったが、わたしは首肯した。彼は軽い調子で「マジか」と言って駅の天井の遠くを仰いだと思えば、今度は深刻そうな面持ちで「マジかー……」と言って、頭を抱えてうずくまり、彼は少しも動かなくなってしまった。人の往来からは外れたところにあるベンチの近くにいるとはいえ、駅の構内には人の姿が多くあるし、図体の大きな彼の大袈裟なリアクションは周りのひとの目をとてもよく引くせいか、道行く人々が彼の姿をちらりと見た後に、彼のそばにいるわたしの顔を見て何も見ていないような顔をしてそのまま去っていくのが恥ずかしかった。「あのう、すみません」と声を掛けると、彼はくせ毛の頭を思い切り掻いたのちに、立ち上がってわたしに向き直った。

「まあ、なんだ。自己紹介からするか、お前はなまえ。俺は太刀川慶。よろしく」

タチカワくんはケロリとした様子でわたしに自己紹介をした。先ほどから大袈裟にへこんで見せたり、かと思いきや何事もなかったかのように振る舞って見せるのだから忙しい人だと思う。

「あまり驚かないんですね」
「十分驚いたぞ」
「えっ、そうだったんですか」

自分の記憶が無くなっていることをわたし以上に悲しむ両親や、学友らを見ていたせいもあって、タチカワくんみたいにあっさりと状況を受け入れる人がいることに拍子抜けしてしまったのもまた、事実だった。タチカワくんは、「まあ、覚えてないことをとやかく言っても仕方ないだろ」とわたしに言った。彼の言うことは、最もである。

「わたしはなまえです。よろしくお願いします」
「おう、よく知ってる」
「タチカワくんは、どういう字を書くんです?」

そう、彼に名前の書き方を問えば、タチカワくんはスマートフォンを取り出して、『太刀川慶』と入力してわたしに見せた。よろこぶ、という文字はなんだか縁起のよい文字だと思ったので、そのままを彼に伝えると、太刀川くんは「ありがとな、親に言っとく」と言ってスマートフォンをお尻のポケットの中に押し込んで片づけてしまった。「太刀川くん」わたしは、教えられたばかりの彼の苗字を呼んだ。

「おう」
「太刀川くんはわたしのことを知ってるのですか?」
「……昔のお前のことなら、少なくとも今のお前よりは知ってるだろうな」

太刀川くんは渋い顔をしてわたしの質問に答えた。「……おまえ、本当に何も覚えてないんだな」そう、太刀川くんはわたしに向ってそう、言った。わたしは、「はい」と返すと、太刀川くんは眉間に皺を寄せた。

「なあ、その畏まったやつ、やめてくれよ」

わたしはすみません、と言おうとしたけれど言われたばかりの指摘をもう一度受けるのも嫌だったので、「ごめん」と言い換えた。太刀川くんはそれでもどこか不満そうな顔をしていたが、わたしにはこれ以上のフランクさをどう出して良いのかわからなかったので困ってしまった。太刀川くんは、わたしの座っているベンチの隣にどっかりと腰を下ろして口を開いた。

「今のなまえに言うのも違うのはわかってるんだけどよ……俺はお前に『太刀川くん』と言われた事も畏まった物言いをされたことが無いからむず痒いっていうか」
「……以前のわたしは、太刀川くんのことを何と呼んでいたの?」

わたしは、太刀川くんに問うた。

「……慶。なまえは俺のことを、『慶』って呼んでた」
「慶、」
「おう」

太刀川くんにとってのわたしはよく知ったわたしなのだろうが、わたしにとっての太刀川くんはほぼ初対面のような、初対面ではない人を呼び捨てにすることに抵抗があった。「でも、いきなり呼び捨てにするのはやりにくいよ」そう、彼に言えば、太刀川くんは「俺は気にしねえよ」と面倒臭そうに言った。

「なあ、俺もなまえのことを苗字で呼んだほうが良いか?」
「いや、そのままでいい……」
「じゃ、そのままな」
「わたしは、」
「言いやすいヤツでいいぞ」
「ありがとう。じゃあ、慶くんにする」

太刀川くん、もとい慶くんにそう言えば、慶くんは目を丸くしてわたしの顔をまじまじと見た後に、大袈裟にため息をついた。

「おまえさあ……」
「なんか、言いやすくて」
なまえおまえ、本当に何も覚えてないんだよな?」
「うん」

そう、慶くんに言うと、慶くんは「昔のお前もそう言ってたんだよ」と言った。

「なあ、なまえ。お前、何があったんだよ」

慶くんはそう、わたしに問うた。わたしが事情をどこから説明するべきかを考えている時に、慶くんはわたしに「言いたくなかったら言わなくて良いぞ」と気を使って言ってくれた。別に、言いたくない訳ではなかったし、慶くんがわたしのことを知っているというのであれば、なおさら彼には話さなければならないことだった。「ううん。慶くんには聞いてもらわないといけないから、聞いてくれると嬉しい」そう、彼に言うと、慶くんは黙ってわたしの顔を見ていた。

「去年、車に轢かれた時に記憶が無くなってしまって」
「事故に遭ったのか」
「うん」

わたしは、大学への通学路を自転車で走っている時に、信号無視の乗用車に自転車ごと轢かれてしまったことを慶くんに話した。目が覚めたら病院で、わたしの周りにいたひとたちが皆泣いていたけれど、わたしは彼らが誰かも、自分が誰かも分からなかったのだと言えば、慶くんは「災難だったな」と言った。

「怪我はもういいのか?」
「もう、治ったよ」
「おめでとう」
「ありがとう」

慶くんは思い出したように、「ああ」と言った。

「だから、去年から連絡取れなくなったのか」
「スマートフォンも全部、ダメになっちゃった」
「嫌われたかと思ったぞ」
「あはは、ごめんね」
「事故ったんならどうしようもないだろ」

慶くんは後ろのポケットからスマートフォンを取り出して、器用に操作をしてわたしに画面を見せた。慶くんが見せてきたチャットアプリのトーク画面には、『なまえ』と書かれている。最後にメッセージのやり取りをしたのが、去年のちょうど、わたしが事故に遭って入院することになったその日の朝のことだった。

「見てもいい?」
「おー」

慶くんのスマートフォンを借りて、チャットログをさかのぼった。わたしと慶くんは、本当にくだらないやり取りを頻繁に繰り返しているようで、たしかに、慶くんはわたしと知り合いに違いないようであった。チャットログには、共通の知り合いらしい人の名前がちらほら流れていたし、学生らしく互いの単位の心配をしているログもいくつか残っていた。以前のわたしは相当不真面目だったのか、慶くんから『単位落としても知らねえぞ』と言われているログがあり慶くんもあまり人のことが言えない人なのか、わたしは『慶くんに一番言われたくない落単王』と返信していた。落単関連のログを見ていることに気づいた慶くんは「ははは」とわざとらしく笑っている。

「まあなんだ、そう言うこともあるだろ」
「単位を落とすのが?」
「おう」
「わたしも人のこと言えてなさそう」
「今のなまえは毎日学校に行ってるのか?」
「うん。でも、事故で入院してる間に試験終わってて自動的に留年になっちゃった」
「ご愁傷様。しかし、なんでまた今日来れたんだ?」
「……手帳に書いてたから」
「手帳?」
「うん」

わたしは、鞄の中から手帳を引っ張り出すと、慶くんはわたしの手帳を見て「うわあ」と声を上げた。薄汚れた赤い表紙の手帳、書いている文字もきれいではないし、紙だって所々でこぼこしていることに慶くんは引いたのか、彼の大袈裟なリアクションに、わたしは、薄汚れた手帳を慶くんに見せるのが恥ずかしくなったので、「汚くてごめん」と弁解しようとしたが、それはさせてもらえなかった。

「まだこれ使ってたのかよ」
「……知ってるの?」
「一緒に買いに行ったんだよ」
「へえ」
「隣駅にデカい文具屋があるんだよ。なまえは赤と青どっち買うかで一時間悩んでた」
「……うんざりしなかった?」
「した。赤も青も変わんねえよ、って言ったら『慶くんはそれでいいかもしれないけどわたしはよくない』って言ってた」
「うわあ」
「自分に引いてるのかよ、面白いなお前」

慶くんが声を上げた理由はどうやら、わたしの汚い手帳を見て引いていたからという訳ではなかったようであった。昔のわたしとの手帳選びに付き合わされたらしい慶くんは、手帳にまつわる話を一つ一つ思い出すようにして話してくれた。その時の待ち合わせ場所もこの弓手町駅だったこと、待ち合わせの時間も同じで、ただ違うのはその日が良く晴れた夏の日でとても暑かったということ。そして、今日みたく数分遅刻した慶くんに対して少し腹を立てていたことなどをわたしに話してくれたのであるが、わたしは彼の遅刻よりも、手帳一つに一時間もかけて人をつき合わせていたことに、自分のことながらかなり引いてしまった。慶くんは、「今もそれ使ってるなら悩んだ甲斐あったんだろうな」と前向きに言ってくれてはいたが、たぶんわたしが同じことをされていたら帰っていただろうなと思うので、慶くんには申し訳ないことをしたと思う。手帳を捲った慶くんは、今日の日付の場所を開いてわたしに見せた。

「これか?」
「うん」

手帳の今日の日付の場所に書かれた『弓手町駅 十時』と書かれた文字をみた慶くんは、「たしかに、これじゃあわかんねえなあ」と言って笑っていた。

「わたし、結構いい加減だったんだね」
「結構大雑把だったな」
「今日この時間に待ち合わせをしていたのは慶くんなの?」
「ああ。二年前のなまえとこの約束をしたのは間違いなく俺だな」
「二年前のわたしのことを、慶くんは知ってるんだよね」
「知ってる」
「お願いします、昔のわたしのことを教えてください」
2019-12-28