お前のような子、人間を喰らう以前のお話だと、茨木童子はわたしのことを鼻で笑い飛ばした。わたしは、彼女の言葉にただ、手を握りしめて唇を噛んで俯くことしかできなかった。確かに、彼女のいう事は正しい。わたしが、この鬼たちの中ではずっとずっと子どもで、未熟者である。彼女のように骨刀の大太刀を振るうこともできないどころか、武器さえ持たぬ人間の影に怯えて草場の影に身体を縮めて隠れることでどうにかやりすごしているのだから、彼女がそう言うのも当然のことである。それでも、わたしはあきらめることが出来なかった。目を閉じた時に、ほんの数秒だけ見ることの出来た人間のすがたがわたしの脳みそに焼き付いて離れない。わたしは、あの人間の姿をもう一度、見たいだけだ。あの女の、一瞬の横顔をもう一度みたいなどと、彼女に向かって言うことなど許されぬ。わたしがまだ子どもであるから、彼女はわたしの突拍子もない願いを聞いてくれただけで、本来であればそれも門前払いされたに違いない。「それでも、わたしは」それでも、どうしてもわたしは諦めることが出来なかったのだ。聞き分けの悪い子どもだと、叱られても仕方のないことであることは、幼いながらも理解しているつもりであった。人間の寿命は短い。もう十年、二十年としないうちに、女の抱いていた子は大人になり、女は生を全うし天に召されるか、鬼に食われてしまうかは分からぬが、それでもわたしが大人になる頃には会えなくなるだろうことだけは分かっていた。だから、わたしは無理な願いだと、甘ったれの願いだとわかっていても彼女に京の都へと出るときに連れて行ってくれと、懇願した。「まだ早い」そう、彼女は即答した。もう、茨木童子はわたしに対してこれいじょうかける言葉を持っていなかったに違いない。わたしに下がれと言ったきり、彼女はもう口を開くことは無かった。わたしもこれ以上、彼女に駄々を捏ねるのはやめにして、悔しいが引き下がるしかなかった。これ以上わがままを言えば首魁の大目玉を喰らうことが分かり切っていたからだ。それでも、わたしはあきらめることが出来なかった。あの女、子を抱く女の目が見たかったのだ。ほんの少しでも良い。ただ、もう一度だけ、あの一瞬をもう一度と、わたしは欲した。
大人の言いつけを破って外に出てきたことは、決して一度や二度ではなかったが、首魁の言いつけを破ったことは初めてであった。もし、大人たちに見つかってしまえばわたしは、ひどく叱られてしまうのだろうかと思うと背筋が震えた。あの茨木童子が歯をむき出しにして怒るときの恐ろしい顔でさえ、わたしの心に燻ったこのはやる気持ちを抑えることはできなかった。鬼たちの群れが、人間の住まう都へと散らばっていくのを、彼らの影と影の間に紛れるようにして隠れて見ていた。鬼たちが、人間たちの喉笛に噛みついて喰らう姿が見える。また、人間たちが鬼の首を刎ねる瞬間も同様であった。首魁に叱られることよりも、目の前で繰り広げられる血しぶきが飛び散る瞬間のほうが、ずっと恐ろしかった。人間の声、鬼の声、のどちらとも分からぬ断末魔がわたしの背を震わせるたびに耳をふさぎ目を閉じて、はやる心臓の音に静かになってくれ、わたしを鬼も、人間も見つけてくれるなと思い、誰の目にも止まらぬようにと縮こまりながらやり過ごしている。わたしは、茨城童子にこの場にわたしを連れて行ってくれと自分から直談判したのであるが、このような惨状が広がっているとはほんの少しも思わなかった。茨城童子の「まだ早い」と言ったときの声が反芻する。頭に浮かんでくる言葉は後悔の二文字ばかりであった。今目の前に広がる鬼とも人とも分からぬ者が上げる雄叫びや悲鳴の上がる京の街と、わたしが望んだあの女の姿、女の顔にあった穏やかな雰囲気とは似ても似つかぬものであった。「お前」小さく身体を縮めて隠れていた後ろから知らぬ声が聞こえた。知った鬼たちの声ではない。人間と、鬼とどちらともつかぬ声と、建物を揺らす音、それから地面を揺らす音とは違う声であった。途端に恐ろしくなって恐る恐る振り返ったときに見えたのは人間の男がすぐそこに立っていた。わたしよりもずっと身体の大きな、人間であった。喉の奥から自然と悲鳴ともつかぬ声が漏れた。わたしは、鬼たちのように人間と戦う術は持ってはいない。彼らのように武器を使うこともできなければ、自身の歯、拳、なんでもよいのであるが、肉体を使って相手をねじ伏せることなどやった経験もない。わたしはみっともなくお尻を地面につけたまま、目の前に立つ男との距離を少しずつ開くために後ろへと後ずさった。目の前の人間は、片手に得物を持っているにもかかわらず、その得物をわたしの脳天に向かって振り下ろすことはしなかった。「子どもか」男はいよいよ武器を下におろして、わたしと同じ高さに目線を合わせるように屈んだのであるが、距離は依然詰められることは無かった。砂ぼこりでくすんだ人間の金糸が、風に揺れた。あの金糸はこの場でなければもっときれいな色をしていたのだろうか。自然と、わたしの手が、男のほうへと伸びた。草叢の中に咲いた一輪の花に誘われて手を伸ばすように、うつくしいものに自然と手を引かれるように、わたしの指先は男のほう、具体的に言えば、男のゆれる金糸に向かって伸びた。「……き」綺麗と、わたしの喉からその声が出ることは無かった。わたしの伸ばした手、手首から上が音を立てて落ちた。椿の花が首の根から音を立てて落ちるように、わたしの手首も椿の赤い花と同様であった。痛覚はそのあとから付いてくるのであるが、その悲鳴を上げるための喉さえなくなってしまえば、わたしの喉から声が出ることは今世二度と有りえぬ事となる。わたしの目が、わたしの男の金糸から、無くなった手首の先からその向こう側へと向けられたときに見えたのはうつくしい女の黒髪である。女の目は、わたしの恐れた人間と同じ目をして、わたしをその黒い双眸だけで射殺そうとしていた。女の持つ刃、きっとわたしの手首を、頭を切り落とした刀よりもずっと、女の目は恐ろしい刃物のようであった。「金時」女が、男の名を呼び、屈んだままの男のほうへと向けられた。女が、あの女が。わたしを殺さんとする視線を向けていたあの女の顔が、男のほうへと向けられた瞬間のことである。ああ、この瞬間をわたしは待っていたのだ。あの女の目が、鬼だって目だけで切り殺してしまいそうな女が、目の前の男を見ている。女の黒い眼が閉じられて、再び瞼が開く一瞬のことであった。あれは当然わたしへ向けられた目ではない。女のことをわたしはたぶん知らないのであるが、あの女の目をわたしは良く知っていた。わたしの胸を焦がした、あの女の横顔である。わたしが見たいと願って止まなかったあの目を、わたしは終ぞ見ることが出来たのだ。わたしが見たくてたまらなかったものは目の前にあった。ただ、残念であることは、恋に焦がれて焼けてしまった心臓はもう燃えることを知らず、この心を伝えるための口も持ち得ぬということくらいか。
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