小説

群青#1

 知らない景色を、わたしは車窓から眺めている。わたしが普段生活している場所ではあまり見かけないせいか、似たような灰色のすがたをした高いビルの群れ、明るい色をした予備校の看板、大型ビジョンに映ったショップの広告。その街を構成する景色の一つ一つの姿を、つい、まじまじと見てしまう。車内放送で流れる、大都市の中にある駅の名前に、聞き覚えは無かった。電車から人が一人、また一人と降りてゆく。降りる人の波が去ったと思えば、今度はどっと人が乗ってきた。空き席が多かった座席はこの駅で乗り込んできた人でいっぱいになり、つり革を掴んで立っている人の姿もまばらにあった。初めて見るこの駅は、わたしが普段生活している駅舎だけが畑の真ん中にポツンと存在する田舎の駅とは比べ物にならないくらい、大きい。両親が言うには、わたしは過去にもこうして、今日と同じように電車の窓からこの景色を眺めたことがあるらしい。旅に出る前に、「大きな駅に着いたからって電話してこなくていいから」と言われてしまったときに、理由を聞いたらわたしが興奮気味に都会の駅のことを電話口でまくしたてるように喋ったと言われたのだが、たしかに、今こうしてこの景色を見てしまえば、このことを誰かに話したくてたまらなくなってしまう気持ちも分からなくはないと思った。両親が言うには、前に一度この電車に乗っていたわたしも、今日のわたしと同じように、ひとりで電車の窓際の席に座っていたというのだからたぶん、今日のわたしと同じような気持ちだったのかもしれない。それを確かめるすべを今のわたしは少しも持ち合わせていないのであるが、なんとなく、そうなのだろうと思う。──電車が動き出す。心地の良い揺れを感じながら、わたしは鞄から手帳を取り出した。薄汚れ、表紙と、小口にところどころ赤黒い染みがぽつぽつと見える赤い表紙の手帳である。三年分の予定が書き込める手帳は、鞄の中に入れる荷物の中でも、結構重い部類に入る。買ってから時間が随分と経っているからなのか、それとも、単純に、わたしが大雑把な性分をしているせいなのかも分からぬが、部分的にぐしゃりと皺になっていたり、液体でもこぼして手帳も液体を飲んでしまったのか、部分的にでこぼこしている。でこぼこになって、一枚捲るたびにパリパリと音を立てそうなページを捲りながら、カレンダーの上に書かれた文字を読んだ。二年前の日付の書かれているところまでは予定がみっちり詰まっていたが、直近一年は予定を書いていなかったせいで、今日の日付、二月の終わりの頃までは何も書かれていなかった。二年前の日付の書かれたあたりは、お世辞にもきれいとはいいがたい字で走り書きされている。ところどころ、ボールペンのインクが滲んでいるが、頑張って読もうと思えば、読めた。時間と、地名。それから、シーズン開始、終了の文字があった。これらが意味するものを、わたしは知らない。丸一年白紙が続いたこの手帳の、今日の日付の場所には、唯一『弓手町駅 十時』の文字があった。わたしは、この何を意味するか分からない文字列を見て、こうして電車に乗っている。この弓手町駅というところで、誰かと待ち合わせをしていたのかも、この場所になにがあるのかも、今のわたしは何一つ知らない。ただ、この場所に行けば、もしかしたら分かることが在るかもしれないという希望だけがそこにはあった。




 『次は、弓手町駅、弓手町駅』車窓から見える景色は、背の高いビル群から、背の低い民家の群れに変わっていた。線路の内側に巨大な建物が一つある以外、この町に背が高すぎる建物は無いようであった。背の低い民家の群れの中でも、家の二倍以上ありそうな高さがある巨大な施設のような建物は、かなり浮いている。スマートフォンに、『三門市 施設』と打ち込んで真っ先に出たのが、あの巨大な建物であった。"界境防衛組織「ボーダー」"口の中で、声に出さずに呟いてみるが、どうにも舌に馴染まない。電車の車内アナウンスが、次駅の最寄にある主要施設の名前を述べている。そして、軽快なキャッチフレーズと共に言われるお土産の名前も、たぶん、この町の中では有名なものなのだろうが、わたしには何一つ分かるものが無かった。
 電車の速度が遅くなったあたりで、手帳を鞄の中に片づけた。弓手町駅──眺めていた手帳に刻まれた文字列を、名前を頭の中で反芻する。この駅の名前も、わたしはよく知らなかったし、車窓から見える景色だって、わたしの知るものは何一つない。
 弓手町駅──三門市の中を通る市営弓手町線の中の駅の一つである──のホームで、わたしは途方に暮れていた。ホームに吹き込んでくる北風が冷たく、わたしの首筋を撫でるたびに背がふるえた。持ってきたマフラーに顔を埋めながら、あたりを見回す。駅のホームに設置されている時計は、九時五十分を指していた。手帳に書かれていた十時までに、弓手町駅へ到着できたことに安堵したが、わたしの持ってきた手帳には、この駅に何時、というところまでは書いてあるが、肝心の駅での待ち合わせ場所の詳細がどこにもなかったのである。もしかしたら、あの手帳に字を書いたときにはすでに、弓手町駅で待ち合わせするときはこの場所、というように場所を決めていたのかもしれないが、今のわたしには書いたときには知っていただろう暗黙の了解というものを、何も知らないのである。駅に過去に来たことがあるとはいえ、それは昔のわたしで、今のわたしにはその事前知識というものが何も無いのだから、初めからちゃんと調べておくべきだった。とはいえ、誰に聞けば分かるのかも、何一つ分からない状態なのだからきっと、調べようとしたところでその時に途方に暮れていたことには違いないのだろう。ホームを行く人たちは皆、足早に同じ方向──改札のある方向である──へと去ってゆく。少なくとも、駅のホームで何かがあることは無いのだろうからと、わたしも彼らについて駅の改札を抜けた。




 わたしは無謀にも、この駅に着けば何とかなるのではないかと思い込んでいたのであるが、実際のところ、何とかなりそうになかった。駅の改札を抜けた先に設置された案内板と駅周辺の地図を眺める。弓手町駅も含めて、このあたりの地図を見たところでわたしには何一つ分からなかったし、近隣の建物や近場にあるだろう名所の名前にも、心当たりは何一つ無かった。「……」わたしは持ってきた手帳をもう一度、鞄から取り出した。今日の日付のところに刻まれているのは相変わらず、駅の名前と時刻だけである。『弓手町駅 十時』と、若干、インクの滲んでいる文字を指で撫でてみるが、撫でたところで、場所の名前が浮き出てくるなんて魔法のようなことが起きるワケもなく、ただその字だけがそこに在るだけだった。わたしが駅構内で途方に暮れている間に時刻はとうに十時を回っていたが、駅構内で何かイベントごとがあるでもなく、行き交う人々は変わらぬ日常を送っているように見える。わたしは近くのベンチに座り、足早に去っていく人の群れをぼうっと眺めていた。

「……なまえ!」

わたしの名前が呼ばれた。わたしの名前を呼んだ人のすがたを探してみたが、当然、わたしの知っている人の姿はどこにもなかった。生活圏からほど遠いところにあるこの町で、わたしを呼ぶ人などいるわけがなく、同じ名前の違う誰かを呼んでいたのだろうと思ったら途端に恥ずかしくなってしまった。わたしの挙動不審な姿が誰にも見られていませんように、と思わず下の方を向いてしまった。わたしの名前を呼んだ人はまだ、わたしの名前を呼んで、わたしと同名の誰かを探してまわっているらしい。

なまえ!おまえ、なまえだろ」

わたしの視線の先に、大きな足がふたつあった。慌てて顔を上げると、見上げた先には、見知らぬ男の人の顔があった。長身の、くせ毛のひげ面の男だった。先ほどまでわたしの名前を呼んでいたのはわたしの目の前にいる彼で、彼が呼んでいたのはどうやら、わたしのようであった。

「遅刻したのは悪かったけどよ、無視すんなよ」

彼は、わたしの居るところまで急いできたのか、肩で息をしていた。

「……すみません」

わたしは、本当にわたしのことを呼んでいたと思っていなかったから、と彼に言うこともできずに謝罪した。彼は息を整えて、「俺も、遅れて悪かった」とわたしに向って言った。わたしは、わたしのことを知っているだろう目の前の男の人のことが分からない。彼はわたしのことを知っているのか、少しうれしそうな顔をして、「久しぶりだな」と言った。

「ここ暫く連絡つかなかったから今日来ないと思ったぞ」

わたしに向けて、彼はそう言った。手帳に書かれていた待ち合わせの相手は、目の前の彼でたぶん、間違いないのだろうと思う。昔のわたしは、彼とどういう関係だったのかは分からない。見た目だけで言うのであれば、目の前の彼はわたしよりも年上に見える。わたしの知り合いというのであれば、学校やアルバイト先の先輩である可能性だって、ある。「ええっと……」わたしが、どう切り出していいのかが分からずに口ごもっていると、彼は訝しげな表情を浮かべてわたしの顔を見た。

「もったいぶって、どうしたんだよ」
「言わなければいけないことが、あるんです」
「なんだよ」

わたしが畏まってそう言うと、彼は大真面目な顔をして黙り込んでしまった。わたしは、彼に向けて言わなければならないことがあった。もし彼が、昔のわたしと約束をして今日来てくれたのであれば、猶更言わなければならない。「ほんとうに、ごめんなさい」そう言うと彼は、大真面目な顔をしてわたしの顔を見ている。わたしは、ひと呼吸おいて震える唇を恐る恐る開いた。

「わたし、昔のことを何も知らないんです」
2019-12-22