小説

さみしいをなぞる

なまえさん」そう、彼女の名前を呼べば、ベッドの上の乱雑な布団の山がごそごとと音を立てて動いた。「ん……」と今しがた己の姿を見知ったような顔をして、なまえさんは今にも眠りに落ちてしまいそうなほどにとろりとした眼をこすりながら布団の山から這い出して己の方を向いた。「こんな時間にどうしたの」そう、不敵な笑みを浮かべている女の顔を見るたびに、白々しいと思う。「聞かずともわかるでしょ、なまえさんにはさ」そう言えば、なまえさんはただでさえ嫌な笑みを浮かべているのにも関わらず、より面白いものでも見たような顔をしていた。ベッドの上から這い出る気はさらさらないのか、己を見上げる姿勢のまま、彼女を見下ろす己の顔を見ている。

 夜はとうに更けている。なまえさんがとろりとした目をしているのも当然のことやもしれぬが、彼女の場合いつ会ってもこのようなものだし、そもそも彼女はいつでも眠っているようなものであるのだから、彼女が起きている時間を探す方が難しいものである。「悠一くん、マナーとかそういうのが雑だと思うけど」「ごめんね。人に対してだったらそうするよ」「わたしのことを人でないみたいに言うのやめなよ」なまえさんが頬をわざとらしく膨らませてそう言う顔も、本来であるならばかわいらしいものであるのかもしれないが、彼女に対してわいてくるのはふつふつとした別の感情である。

「で、今回の奴もその通りなんでしょ?」
「聞かずとも答えなぞ分かっているのにその質問に意味はあるの?」
「質問を質問で返すのをやめなよ」
「アハハ。確かに」

なまえさんは「悪いね」そう言ってカラカラと笑っていた。メガネくんが死の間際を歩いて居たあの時だって、彼女はこの狭いベッドしかない部屋の中でゴロゴロと転がりながらただ、見ていたのだろう。「そうだね……悠一くんが最善の未来にするために様々な未来を読みながら運命に逆らおうとするのも、アフトクラトルの国の行く末も、三門の行く末も、わたしにはすべて見えるよ」そう、当たり前のことを言うように、なまえさんはそう言った。「悠一くんがわたしに、この事象が本当に最善であったのかをうっかり話そうとして取りやめようとするのもね」どこまでも嫌な奴である。なまえさんには事の顛末がすべて見えている。現在の事象から続くすべての物事が、この狭いワンルームの空間に居ながらにして見えているのだという。「もし、悠一くんに見える未来というものが現在から続いた先にある可能性の分岐の中のいくつかだとするのであれば、わたしに見えるのは確定した未来というものになるといっても良いと思うな」なまえさんは、己に自分の目がどのようなものであるかを説明するときに、そう言っていた。

「その途中過程でどのような悪あがきをしても?」
「わたしに見えるのは現在とその行く末だけ。悠一くんが悪あがきをしまくっているのだって、見ようと思えば見えるし、その行く末まで見えるんだよ。たとえここでわたしが悠一くんにそのやり方ではできないと助言して、別のやり方をしようとしても収束する先は一緒」

なまえさんはわざとらしく笑って己の顔を見ていた。己自身どのような表情を浮かべたまま、彼女の顔を見ているのかは理解しているつもりである。なまえさんは己の顔をみて満足したのか「アハハ、嫌そうな顔」と言って笑って見せた。己の何もかもの行動の結果を知っておきながら、彼女は己に決して何も言うことなく、目先の未来を見る己が見える選択肢の中の最良を選ぶために苦しんでいるさまを楽しんでいるのだ。それを知っていながら良い顔を浮かべられるような人でいられるほどできた人間には成れない。「なまえさんって本当に最低だよね」毒を吐くようにそう言ったところで、彼女には何のダメージにもならないのだろう。クスクスと笑みを深めるだけで、己のやったことはただ彼女を喜ばせることにしかなっていない。「そうやって悪あがきをしているのを見るのが好きなんだ。こればかりは君にも譲ってあげられないわたしの楽しみだからね」邪魔しないでくれよ、と言っている彼女はすっかり上機嫌である。

「それしか楽しみがないんだからさあ、悠一くんにはわかるでしょ、人の時間の流れから外れたヒトの気持ちが」

人を見て虫唾が走るという言葉の意味を改めて知るのは、この女の顔を見た時であると思う。彼女に人の命の話をしたところでどうしようもないのは今に始まったことではない。彼女はその能力を持ってしまったが故にこのようなことになってしまったのか、それとも彼女がその能力を持たずにいればこのようなことにならなかったのかは己には全く分からない。この女の言う気持ちを知ってたまるかと言う己もいれば、言う通りに分からなくもないと思う己もこの場にたしかに、いるのだ。彼女が見たがっているものというものは、彼女の知る確定した未来に対して抗おうとする人間たちの振る舞いであるに違いない。ことの顛末が過程関係なく確定しているのであれば、それこそ彼女の言う「何をしたって無駄な行動」になるのだろうが、彼女はその無駄な行為をして悪あがきをする人間の姿を見るのが、人と違う時の過ごし方を強いられてしまった彼女に残されたたった一つの楽しみなのかもしれない。彼女に未来というものはなく、すでに確定しているゴールにたどり着くまでの一本道をただ歩かされることを定められてしまっているのであれば、多少の道草くらいが娯楽になるのも道理である。

「わたしは悠一くんのことを結構気に入ってるよ」そう、なまえさんは毎度のごとく、そう言っている。ただ、人より少し先の分岐を知ることで、多くの人々と同じときの流れを歩く人よりもずっと悪あがきをし続けることができる己ほど、彼女にとって面白いものはないのだろう。彼女のように、「そうにしかならない」ものばかりを見る者からすれば、まだゴールの可能性しか見えない己はずっと、彼女の言う人の時間の流れから外れた人の中でも己に近しい人間で、かつ人の時間の流れの中で人の倍以上に悪あがきをしようとする者になるのだから、彼女にとってこれ以上ない娯楽であるに違いない。

「おれはなまえさんのこと好きじゃないよ」
「ひどいなあ、凄く傷ついた」

そういってカラカラと笑うなまえさんからは少しだって傷ついたところは見えやしない。ただ、彼女がそう立ち回ることで本当に傷ついている自分自身を隠しているだけという可能性は無きにしも非ずであるが、そこまで気にする必要は今の己には無いのである。なまえさんは楽しそうにひとしきり笑った後にベッドに再び倒れ込んで、「苦しい、すごく」と息も絶え絶えになりそうな顔をして笑っていた。あの白くて細い首を今すぐ締めてしまえば、この子憎たらしい喉から嫌になるような笑い声が出てくることなぞ二度とないだろうに、そうすることができないのは未だ自分の中に人の心が残っているからだろうか。あの目の前の悪魔、人のかたちをした別の生き物に見える女のことをまだ人の子だと思うことができる位には、まだ自分の心には余裕があるらしい。

「これからも、わたしのことを楽しませてよ。わたしのさみしさが無くなるくらい。ね、お願い」

 人の群れから外れてしまったひとの姿をしたものはひどい孤独を飼っているのだと思う。人の時の流れから外れてしまった人の姿をしたものは、いつの時代であれ、きっと同じ人としての目で見られることはなく、人と異なることを早々に受け入れてしまった後であれば、その人たちと同じように生きることはできないのである。少なくとも、人より少し先の可能性を視ることのできる自分自身でさえ、その能力に振り回されることがまったく無かったという訳ではない。このような能力を持たなければよかったと、声に出さずとも思うだけであれば一度や二度ではなかったように思う。しかし、それを受け入れてしまえば、あとに残るのは人と全く同じ場所に立つことが許されなくなってしまった自分である。この、目の前の女の抱く孤独というものがどのようなものかを、他人よりは知ることができているのかもしれないが、その実少しもわかっていないのだろう。可能性が見える自分と、確定したものが見えるなまえさんとでは、全くと言っていいほど違うのだ。彼女にはもう、未来をかえるという選択肢は最初から残されておらず、彼女の見た結末に向って時が流れてゆくのを、人々とは違う場所からそれこそ傍観者の如く見ることしかできないのだ。先を知れど、その時の流れに干渉したところで変わることのない物事の中で形成されてゆくのは、その時の中でどのような人の営みが形成されてゆくかを見ること以外に楽しみを見いだせなくなってしまったさびしい人の姿である。

なまえさんってさあ、案外寂しがりやだよね」
「わたしはいつだって寂しいよ。埋められることのないさびしさのことをずっと考えながら、わたしは死ぬんだ、たぶん」

そう、なまえさんはまるで親が離れていくのを寂しがるような子のような顔をした後に、布団の中に潜り込んでしまった。そうして、再び顔を出した時にはいつもの、腹が立ちそうになるほどにいやらしい笑みを浮かべて、己の方を見ているのである。あの一瞬に見せたさみしさの表情というものが彼女であったとしてもきっと、己に彼女の孤独を、さみしさを癒すことはできないのだろうと思う。きっと、彼女と同じような境遇の人がいるのであればほんの少しくらいは変わるのだろうが。
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