小説

花一匁

「あの子よ。わたしはあの子が欲しいの」

 女のわがままのすべて叶うことなど、絶対にありえないことであるに違いないのであるが、なまえの場合は事情が違った。なまえが可愛らしくわがままを言う相手はなぜだか、同性異性問わず彼女の口車にうまく乗せられて、あの女の艶めかしい振る舞いに踊らされるように、彼女のわがままを聞いてしまう。
 船から飛び出したなまえは、彼女が欲しがった"あの子"の所へまっすぐに走っていった。武器を携えている玄界の兵士たちがそこらじゅうに立っているのにも関わらず、この女だけはピクニックにでも出かけているような気楽さであった。トリオン体ではあれど、武器どころか盾一つ持たない。「初めまして、わたしは……」玄界の兵士が一際若いのか、それとも見た目が若いのかは分からぬが、己らよりも十ほど若く見える少女の前に立って、なまえは自己紹介をしていた。武器を持つ玄界の兵士たちも、なまえという武器も何も持たぬ女が突然、戦場に現れて突拍子もないことをやり始めたことに困惑しているのが見て取れた。「わたし、貴方のことを好きになっちゃった」こちら側で金の雛鳥と呼ばれている少女は一歩後ずさって、目の前の女の顔を、一際おそろしいものを見るような目で見ている。なまえと彼女との間には少年が壁のように立ち塞がっているが、彼もまた、敵意も何もないのに金の雛鳥に話しかける彼らにとっての敵である女に対してひどく困惑しているようであった。

「あなたとずっと一緒に居たいから、わたしの星になってよ。ね、いいでしょう?」

 可愛らしい顔をした女の子の言うわがままというものは、ほんの少し無理なお願いであれ可愛らしいものであるように思えるのであるが、この女だけは別である。人目を引くかわいらしい顔立ちをして、愛嬌のある大きな目で人の顔を見つめながら「あれが欲しいのよ」と言うときの女の顔、振る舞いのことを愛らしいと思うよりも憎らしいと思うようになったのはいつからだろう。
 あの女は嫌味なくらいかわいらしい顔立ちで、一番自分が相手の目に良く見えるような振る舞いまで熟知しておきながら、顔に似合わず全然可愛くないわがままを言いながらもうまく、己の手足を、心をがんじがらめにしてゆく。「ねえミラ」わがままを言うときのこの女は、あの細い喉の何処からとびきり甘い声を出しているのかは分からない。この女の、自身の神経を不快にならない程度に撫でてゆく器用な所作を一体どこで会得したのだろう。同じ形の肉体を持っておきながら、どうも、あの女と、己を構成するものは似ているようでその実全く違うパーツを組み合わせて作った見た目だけが似たようなものであるようにしか思えないときがある。それは、あの女がひときわ加護欲を駆り立てて、あの細い喉から出てくる可愛らしい声で言うわがままを聞いてあげなければならないと思わせるよう、うまく立ち振る舞って己の心に揺さぶりをかけているだけなのか、それとも、自身が不器用すぎているだけなのかは分からない。別に、知りたくもないが。ただ、なまえという女は、可愛らしい顔立ちをしているには違いないが、とても恐ろしい女に違いない。この女は、彼女の肉体の中にあるトリオンをほんの少しも使うことなく、直接肉体を拘束している訳でもないのにも関わらず、立ち振る舞いだけで己の肉体を少しずつ、器用に縛り上げてゆく。これを恐ろしいと言わずになんと言えばよいのか。

「ダメだった」
「そうね」
「残念」

 なまえは軽い調子でそう言った。残念、とひどく軽い調子で言ってのけたが、本音はそうでないことなどわかっている。彼女の言うところのお願いというものが叶えられなかった時の彼女はいつもそうだ。そっぽを向いて不機嫌を丸出しにして悪態をつく。言葉の調子と彼女の心境は反比例していて、彼女が軽い調子で言えば言うほど、なまえという女の心には手に入らなかった物事がずっと燻っていて、彼女の腹の底でよく燃えているのだ。

「欲しかったのよ」
「ええ」
「本当に、欲しかったの」
「知っているわ」

 手に入らなかったものことについて、延々と話し続ける女のことを、ひどく鬱陶しく思うことが多くある。特に、お願いがかなわなかった時のこの女は一際面倒だった。腹の底で黒々と燃える女の欲が、すべて燃え尽きてしまうまで、延々と繰り返すのである。こんな不毛な話を、後何度繰り返すのかを考えると途方に暮れそうになる。特に、この女の欲というものは一度灰になったところで何度も生き返ってくるものだから一度燃えてしまえばよいという話ではない。大体、別のお願いが叶えられるまでは少なくとも、この調子だ。「相変わらず面倒な子ね」己だってこの女の会話を無理に切り上げて、女の欲が灰になるまで放っておけば良いのにも関わらず、結局それをせずに彼女の欲が上手く燃え切ってしまうまで、こうして付き合っているのだから自分も人のことを言えたクチではないのである。
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