小説

子どもの情景

#夢主について設定がいくつかあります
#ねつ造の毛色が強いです

「トリガーですか?」
「そう。これを起動していただけますか」
「理由を聞いても?」
「ええ。構いませんよ。二宮くんはみょうじさんをご存知でしたっけ。エンジニアの方だったので、面識がないかもしれませんが」
「知っていますよ」
「ああ、なら話は早いです。我々は、みょうじさんの痕跡を辿りたいのです」


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 みょうじなまえという女のことを知っている。ボーダーという組織の中でも戦闘員ではなく、技術部門に居たエンジニアのひとりだった。一時期は戦闘員として活躍していたという噂もあるが、彼女がトリガーを起動して武器を振り回している所を見たことのある人の話を聞いたことは無かったし、この組織の中に動画一本すら残っていなかったので、それは噂に過ぎないものとされている。ボーダーのエンジニアたちは、組織の規模を考えれば、随分と少人数で構成された部門であることには違いなかった。大学でトリオンについての研究をしてきた人たちが就職してくることが多いが、隊員として活躍していた人間が、開発部門に転属してくることもある。みょうじなまえという女は、前者であった。年は己より五つほど上で、己の通う大学の、東さんが所属している研究室と同じ研究室に所属していた。東さんに用事があって東さんの研究室に出かけた時に、たまにすれ違うことがある。彼女について初めて人に問うたのは、まだ寒さの残る春になりかけの時期であったように記憶している。己の思うみょうじなまえという彼女は常に、化粧っ気のない顔を青白くして、死人のように歩いている、そんな印象の強い女であった。「彼女、大丈夫ですか?」「今ちょっと詰まってるんだよ」東さんにそう問うたときに、東さんがそう困ったような顔をして言っていた。「みょうじは特に、次の研究費が掛かってるからなあ」彼女についての詳しいことを、東さんは己に話すことは無かった。最初のうちはあの女の顔色にギョッとしていた時期もあったが、それも慣れてしまえば気にもならなくなった。
 
 みょうじなまえという女が、ボーダーの関係者だと知ったのは、己がトリガーの定期メンテナンスに出かけた時のことであった。エンジニアたちに割り当てられた区画に足を踏み入れる時に、己を迎えに来たのがみょうじなまえという女であった。基本的には、エンジニアたちの開発しているトリガーというものは、当然機密扱いになっていて、技術部門以外の人間は自由に区画に入ることすら許されていない。「点検に来ました、二宮です」「連絡は受けています。このカードを首から下げて、出るまではなくさないでくださいね」「はい」相変わらず、学内で見かける時と同じように青い顔をしているに違いないが、学内で見かける時に比べれば随分と生きているように見えなくもなかった。みょうじなまえという女と直接話をするのはこの日が初めてだった。

「二宮くんは、三門の大学生ですよね」
「はい」
「東くんに会いに来るのをよく見るような気がしたから」
「間違いありません」
「ああ、やっぱりそうだったのですね。東くんに用事がある子は大体、ボーダーの子が多いから、そんな気はしていたんですが」
「俺も、みょうじさんが居るとは思いませんでした」
「エンジニアの区画と戦闘員の区画は遠いので、分からないのも当然ですよ」

 エンジニアたちが所属している開発室というのは、戦闘員に割り当てられている区画とは反対側の方に位置しているため、用事が無ければこの場所に来ることもない。だから、己がみょうじなまえという女がボーダー関係者と言うことを知らないのも仕方のないことだし、彼女からしてみれば、己がボーダー隊員であることを知らないのも当然のことであった。「先に待っている人が居ますが……」みょうじさんに案内された応接室に入ると、先客が居た。紙束に目を落としていた見知った顔が、己の方を向いた。「二宮」「東さん」「点検か?」「はい」「俺もだよ」一時間ほど点検に時間がかかるので、外出するかと問われた己と東さんは、外出を断って応接室で待つことにした。

「ボーダーのエンジニアだったんですね」
「ああ、そうだよ。みょうじの論文を読んだ鬼怒田さんがスカウトしてきたんだ。……ほら、ここに置いてある論文が、彼女が最近出した奴。この間まで死んでたのはこれ書いてたからだよ」

 東さんが応接室の机の上に置いた紙束のトップには彼女の名前が書いてある。詳しい論文の内容は、彼女と東さんとも専門科目が違う己には到底理解できるようなものではなかった。どういうことが書かれているのかを問うたとき、東さんは、トリオンを効率よく使う方法について書かれているのだと言った。彼女の書いた論文を参考にして取り入れれば、消費トリオンが減り、遠征艇の拡充をはじめとして恩恵が多く生まれる。確かに、彼女の書いた論文というものについて、トリオンの研究をしている人らが興味を持つのは当然のことなのかもしれない。


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 みょうじなまえという女のことを知っている。みょうじなまえという女と開発区画で会話をしたのちに、会えば一言、二言程度の言葉を交わすようになった。東さんの研究室のある棟から一番近い、さびれた喫煙所でぼうっとしているみょうじさんを見かけたので話しかけた。

みょうじさん」
「二宮くん、こんにちは。最近は忙しいですか?」
「ぼちぼちです」
「そうですか。お体には気を付けて」
「……みょうじさんの方が死にそうに見える時がありますよ」

そう言うと、みょうじさんは「よく言われるよ」と言い、濃い隈のある目を細めて笑った。「でも、わたしは研究も、技術のことも好きだから、良いのです」「そうですか」「ええ。自分の論文に書いたことを実装するのは楽しいですよ。自分の夢を実現しているような気持ちになります。わたしは、自分の夢を叶えたいと思っていますから」みょうじさんは、そう一息で言った。「……話変わりますけれど、タバコ、吸いますか?」そう、みょうじさんは問うた。「いえ。みょうじさんが居たので」「そうですか」「迷惑ですか?」「いいえ」このさびれた喫煙所は、数年前までは頻繁に使われていたのだというが、この喫煙所の反対側にできた小ぎれいな喫煙所のほうに人が行くようになったため、この場所に人はもうほとんど来ないのだという。誰もタバコを吸っていないのに、若い大学生がよく吸っているのを見かける二、三銘柄のタバコのにおいが混ざって、地面に染み付いている。このさびれた喫煙所は、地面に染み付いたタバコのにおいと、初夏の香りが混ざっている。

みょうじさんは吸うんですか?」
「いいえ。でも、たまにタバコを吸っている自分が居ても可笑しくないような気がするときがあります」

そう言って、みょうじさんは懐から、ビニルの空いていないタバコを取り出して、錆のついた灰皿の上に置いた。もう、この喫煙所はほとんど使われていないというのに、消火用の水はきちんと入れられているらしい。「ただ、持っているだけで吸ったことは無いのですが」みょうじさんはそう、箱をつつきながら言った。ビニルに包まれたパッケージの箱は、同級生が吸っているのを良く見かけるので、タバコに対してそう詳しくない己であっても知っているものであった。もし、二宮くんが吸うならあげようかなって思ったけど、と言うので、「同級生に吸う人が居る」と言ってみょうじさんから箱を貰った。ビニルの封の切られていないタバコの箱に記載された賞味期限は、今日の日付から五カ月も無かったが、特に支障はないだろう。「変な話をしてもいいですか?」みょうじさんは、己にそう問うた。「はい」そう、彼女の言葉に返事をした。みょうじさんは、二度ほど、かさついた唇を開いたり、閉じたりをした後に意を決したように口を開いた。「わたしは、たまに今のわたしじゃないわたしを見たいと思うときがあるんです」たとえば、今のわたしはこうして、大学でトリオンの研究をしているんですけど、研究をしないわたしを見たいと思うことがあります。ほかにも、ボーダーで技術者をやっていないわたしを見たいと思うときもあります。ただ、それもぼんやりしたもので、それらをやっていないわたし、と言っても何をやっているのかあまり想像がつかないんです。そう、みょうじさんは言った。

「俺にはそういう経験があまり無いので分かりませんが」
「うん」
「もし、みょうじさんが居なかったら、今のボーダーのトリガー技術は無かったのかもしれないとは思います」
「わたしは、何もしてないですよ。基礎設計は、近界の技術を取り入れているので」
「今のトリガー技術の、消費トリオンの効率化に関することはみょうじさんからと聞いています」
「それ言ったの、東くん?」

みょうじさんはそう、己に問うたので首肯した。「そう……」みょうじさんは、遠くを見るような顔をしていた。「……だから、みょうじさんが技術者で無いのであれば、それらは無かったのだと思います」そう言うと、みょうじさんは少しばかり悩ましい顔をして、「そうかな……そうか……」と呟いていた。


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みょうじさんが残したトリガーを起動させたいのです」

 みょうじさんが残したトリガーというのは、黒トリガーではない。みょうじさんは、三門市から文字通り失踪した。初夏の香りが空気に漂う頃のこと、みょうじさんと、喫煙所で言葉を交わした二日後のことである。トリガー反応が無かったため、彼女がひとり近界に出かけたわけではないことは明らかではあったが、逆に言えばそれ以外のことは何も分からなかった。みょうじさんは、在学していた三門の大学に退学届けを出し、トリガーを一つだけ、机の上に残す以外の痕跡は、すべて失われていた。発表済みの論文も取り下げられ、彼女が書いている途中の論文のデータもあったと聞くが、それも無くなっていた。データを持ち出した痕跡が無いあたり、彼女は端末から、データを削除しただけのようであった。ご丁寧にバックアップファイルまで過去をさかのぼりすべて、丁寧に削除していたので、誰にも復旧が出来ないのだという。彼女が住んでいたとされるアパートには、水道局の水色のビニル袋が掛かっていて、もうその部屋には誰も住んでいないのだと言っていたし、朝から晩まで大学の研究室とボーダーの開発室にこもりきりだった彼女のことを見かける住人の姿もあまりなく、彼女の姿をいつから見ていないのかと問うたが、ろくな答えを得られなかった。
 失踪したみょうじなまえという人間が、何故失踪したのかは誰にも分からなかった。そもそも、出不精のみょうじさんと関わり合いのあった人間は、研究室の人間に限られていたし、エンジニアたちも彼女のやっていた仕事とは全く別のことをやっていたせいで、業務上彼女と関わり合いになる人が少なかったのが仇となった。唯一残っている彼女の痕跡は、そのトリガーだけであった。彼女の未発表の研究のヒント、それから、彼女失踪の理由の手がかりになりそうなものは、このトリガーのみであった。厳重にかけられたロックを解こうと解析したところ、このトリガーはただ起動するだけで良かった。正隊員だけでなくC級隊員にも起動させてみたが、誰にも起動することが出来ていないのだという。「二宮くんの生体キーが入っていたから、先に二宮くん以外の人に起動させてみたんだけど、ダメだったんだ」そう、みょうじさんの失踪で顔を青くしたエンジニアがそう言った。最後に残ったのが、生体キーを登録されている己なのだという。己を見るエンジニアの顔に期待の色が浮かんでいるように見えたのは、そのせいだった。渡されたトリガーを握った。普段通りに換装するだけで良かった。トリガーを握ったときに、「二宮、みょうじから何か聞いていないか」そう、東さんが言ったことを思い出した。……変な話をしてもいいですか。わたしは、たまに今のわたしじゃないわたしを見たいと思うときがあるんです。みょうじなまえという女は、一介の研究者であり、技術者であった。特に、自分の夢を実現することに貪欲な女であった。そんな彼女が残したトリガーを起動していいものか。己以外の人間に起動できなかったこのトリガーを起動できる自信があった。そして、自分以外には起動できない自信もあった。しかしながら、これを起動した結果が、彼女のみたいと望んだ夢であるならば、何が起きるのかは自明である。たしかに、あの日彼女の変な話と言うものを聞きはしたが、彼女の夢を叶える約束はしていない。それに、彼女の物言いを考えれば、あのトリガーを起動したところで害はあれど彼女の痕跡を辿ることは無理だろう。もしかしたら、己がこのトリガーを起動しないことで、望んだ彼女の夢というものが叶えられずに、再び顔を見せに来る可能性のほうが高いように思う。己は、トリガーを起動させなかった。「起動できません」そう述べて、己の顔を期待してみていたエンジニアに、トリガーを返却した。己は、みょうじなまえという女と違い、一介の戦闘員である。彼女の言う、彼女自身の夢をかなえたいという気持ちに対して分からぬと言っても何の問題も無いだろう。
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