小説

時雨

 雨の日は、あまり好きではない。雨の日につらい出来事があったという訳ではないが、わたしにとって雨の日というものはひどく気分を陰鬱にさせるものであった。思い出したくもない余計なことを隅から隅まで鮮明に思い出してしまうことが多いからなのだろうと他人事のように思う。わたしはいつもそうだ、自分のことであるのにも関わらず、いまいち自分のことをよくわかっていない。
 大人しく耳をふさいで、何も言わずに雨から逃げていればよいのに、わたしは雨降りの日に窓のそばに寄り延々と降り続ける雨粒を追っているのだからもう、どうにも救いようのない人間である。わたしがいくら灰色の雲で覆われた空を睨み付けようが、ぼつぼつと雨は相変わらず降り続く。あの空の上から雨の止まる気配は全く見られない。空から落ちてきた雨粒が、わたしのいる部屋の窓にくっついて、筋をつくってながれてゆくのが見える。雨粒が滑り落ちる時に、別の水滴と融合して大きな粒となって、更に速度を増して流れ落ちてゆく。それらが描く軌跡というものが、まるで窓がひび割れでも起こしているように見えた。
 
 雨は降り続いている。止む気配は未だなく、雨足は強まる一方であった。冷たい窓ガラスを隔てた向こう側でシトシト降り続ける雨音は、静かな室内にはよく聞こえる。「わたしね、雨が嫌いなの」そう彼に打ち明けた時、彼はわたしがそう言いながらも雨空を見ることをやめようとしない様子を見てため息をつくだけであった。わたしが窓の外を延々と見続けている、雨を嫌う女が、雨に目を奪われているという奇特な行為について、匡貴は声に出して何かを言うことはしなかった。「……そうか」そう、彼はわたしに言うだけであった。わたしと彼との会話は、それっきりである。匡貴自体、口数が多い方ではないから、わたしと匡貴で会話をするときの殆どは一方的にわたしがしゃべり倒して、ただ匡貴が聞くだけか、たまに彼が口を開くというだけのコミュニケーションとして成立していること自体が疑わしいものであるのが常である。彼はわたしの愚痴のような、日記のような実のない話に対して特に言及することはなかった。それはただ彼が面倒で話半分に聞いているからなのかもしれないが、その時の匡貴と言えば黙ってただ隣で本を読むか、たまに本から顔を上げてわたしのほうを見るのが常であった。本のページを捲る音が、雨音と雨音の間にたまに挟まるのをわたしはただ、静かに聞いている。彼は、わたしのことに自ら進んで干渉しようとはしなかった。ただ、わたしが、彼に対して何らかのことを打ち明けようとしたときにだけ、聞く姿勢を作ってくれるだけである。彼は遠慮するような人ではないから、彼の領域に居ることが煩わしいと少しでも思えば、ぞんざいな物言いでわたしのことを排除してかかるのだろうが、そのようなことをしないあたり、今の状況に彼も特に不満はないのだろう。わたしが、雨の日が好きではないことを打ち明けた後から、彼はボーダーの任務がない日であれば、決まって昼前にわたしが一人暮らしをしているアパートのインターホンが鳴らしては、わたしのそばにいてくれているように思う。わたしと、二宮匡貴というずっと小さなころから付き合いのある男との関係は、友達というには距離が近く、恋人というには距離が遠いところに、曖昧な形で在った。そして、わたしはこの男に対して密かな恋心を抱いているのもまた、事実であった。雨粒がまた一筋、窓を滑るようにして落ちてゆく。線がゆっくりと生まれて、そして別の雨粒が描いた線により消されてを延々と繰り返している。それを見ているうちに何だかさみしくなってしまって、わたしは小説に目を落としているの匡貴のほうをじっと見た。
 
「なんだ」
「なに」
「見ていただろう」

 本の背表紙には彼の通う大学の蔵書を示すシールが貼られている。そういえば、数か月前に予約した本の順番がようやく回ってきたのだと、珍しく彼が口を開いていたことを思い出した(これはあくまで推測にすぎないが、彼はめったに自身の話をしないのでかなり楽しみにしていたのだろうと思う)。そんな彼はとっくに本から顔を上げていて、わたしをまっすぐに見据えていた。匡貴は仏頂面でいることが多い。きっと、表情筋を動かすのがほかの人よりずっと不器用なのだろうと思う。彼が無表情でわたしの顔をただ見ている時がとても恐ろしく思う事もあったが、彼は表情が変わりにくいというだけで全く変わらないということではない。切れ長の双眸でわたしをじっと見ているときの視線はひどく冷たいように思うが、その実は異なるものである。彼なりにわたしを気遣っているのだ。彼があれほどまでに楽しみにしていただろう本ではなくわたしを優先しようとしていることがその証拠だろう。
  
「煩わしい?」
「いや。嫌なら初めからそう言う」

 匡貴にいうにはひどくくだらないことについてわたしが口を開くことを渋り続けようが、匡貴はわたしが口を開くことを延々と待つのであろう。わたしは、彼ほど人に気を回すのが上手なのに口下手で、言葉選びが下手すぎるが故に彼の親切心と彼に対する印象が結びつかない人を見たことが無い。こうしているうちに、彼はしびれを切らせるのかと思いきや、彼はわたしの口が動くのを、じっと待っているのだ。「笑ったりしない?」そう、問えば匡貴は顔を思い切りしかめて見せた後、また元の仏頂面に戻ってしまった。早く言えとせかすでもなく、彼はわたしの双眸をジッと見つめている。それをわたしの問いの答えの変わりにするにしては、随分と言葉が少なすぎるだろう。
 
「……少し、ほんの少しね。寂しくなっただけ」
「寂しいのか」
「とても。雨の日に何かがあったわけじゃないのに、いつも寂しい」

 匡貴は何も言わなかった。馬鹿にするでもなく、呆れるでもなく、読書にまた戻るでもなく、わたしを笑うでもなく、自由になっているわたしの手を取った。わたしの指先に、匡貴の長い指が絡まった。わたしの手よりもずっと角ばっているように見える、大きな手だ。彼の人差し指の第一関節から第二関節あたりを親指で撫でた時に当たる骨っぽい感覚が、わたしと同じ手というパーツであるにも関わらず、わたしのものと彼のものとで随分と違うように思えたのが不思議だった。「擽ったい」そう、思わず口にしてもわたしと匡貴の手が離れることはなかった。わたしも、匡貴の手をなぜだか放したくなかった。それはきっと、彼も同じだったのだろうと思う。もしそうでないのであれば、匡貴のことだからとっくに手を放しているだろう。「……小さいな」わたしと匡貴のつながれた手を眺めながら、彼はそう口を開いた。全く、今更過ぎる話である。十年以上昔であればまだ、わたしのほうが彼よりも大きかったはずなのに、いつの間にかわたしの身長をとっくに追い抜いて、わたしの頭一つ、二つほど高いところまで伸びておきながらそのようなことを思い出したように言うのがのがおかしくて、つい笑ってしまった。「笑うところか」「ちょっと面白かったから」そう言えば、匡貴は得意の仏頂面をわたしに向けるのである。

「匡貴ってさあ……わたしに理由、絶対聞かないよね」そう彼に言った。窓から聞こえる雨音だけがボツ、ボツと響くだけである。わたしを見る匡貴の顔、眉間に皺が寄ってすぐ、また普段の顔に戻った。きっと、この短い時間の中で彼の言い分を上手に話すための言葉を選んでいたのだろう。「お前にそんな事を聞いて俺に何ができる」そう、彼なりに考えた結果出してくる言葉が人を突き飛ばすように受け取られがちな言葉を選んでくるあたり、この男のことを不器用だといわずになんといえば良いのか。匡貴の言葉選びはぞんざいなものであるが、わたしと繋いだ手を放す気はないようで、手は固く結ばれたままである。

「俺はお前に気の利いた言葉がかけられるほど器用じゃない」
「知ってる」

匡貴はわたしの言葉にばつが悪そうな顔をして、無理やり会話を切り上げてしまった。なんとも彼らしい言葉、彼らしい態度である。ここで、「気の利いた言葉なんていいのに」といったところで彼はわたしに問うことはしないだろう。わたしがそれを善しとしても、匡貴自身が、彼のことを許さないのだ。許すか許さないかを決めるのはわたしであるはずなのに、そういうところを神経質なくらい気にするのは彼の細やかな気遣いが成せるものである。これはきっと、彼の美点であって欠点でもあると思う。「匡貴結構不器用だよね。でも、わたしは匡貴のそういうところがだいすき」そう、口から自然と言葉が滑り落ちてきた。言う必要のない言葉まで、匡貴の耳に入ってしまっただろう。匡貴はどんな顔をしているのかを確かめる気にはなれなかった。クラスメイトが馬鹿なことをやったときの様子を呆れたように見ている時のような顔をしているのかもしれないし、ドン引きしたときに見せる冷たい目をしているのかもしれない。なんの反応もない匡貴の様子を見るのが今一番怖かった。
 よく考えてみれば匡貴のそういうところが好きだと言っただけで、別にわたしは彼に愛の告白をしたわけではない(たしかに、わたしは彼に対して密かな恋心を抱いているのもまた、事実である)。しかも、彼は特段大きなリアクションをするかと言えばしないし、もともとなんの反応もないことも多くあるのもまた事実であるが、焦ったわたしはそれすらもすっかり記憶の彼方へと追いやってしまっていたのである。別に、ただ彼のそういうところが好きだと言っただけのことで、告白をしたわけでもないというのに、わたしはまるでうっかり告白をしてしまったかのようなふるまいを彼の前でしてしまったのであるから、もう手遅れである。途端に恥ずかしくなって、匡貴の顔を見ることをしないままに彼の手をはなしてしまおうとしたときに、わたしの手はさらに力を入れて握りしめられてしまった。

「寂しいんだろう。なら、もう少し握られておけ」

 無理やり振り払えば放してくれるのだろうが、それをすることができなかった。匡貴の力が強いというせいもあるが、もう少しだけ握っていてほしいとわたし自身が望んでしまったからだ。ただ、それだけの単純な理由である。「はい……」虫のなく声よりも小さいだろうわたしの声が、室内に響いた後、聞こえるのは窓の外の雨音と、やたらと煩いわたしの心臓の音だけである。この雨が止んでしまえば、彼の手を放さなければならないのだろうか。あれだけ雨が嫌だと思っているのに、今はもう少しだけ降っていてほしいと願うなど。
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