小説

すこやかなる懺悔Ⅱ

 なまえさんの家の墓は随分と小さな墓である。墓という体裁だけが唐牛で保たれている墓は、彼女が不在の間己が手入れをしていたせいか、何もしないでいるよりは多少マシだと思う。なまえさんは、自分の名前の刻まれている墓の前に来ると屈んで、ブーケだったものの残骸と、花立に刺さっている花を取って桶の中へと捨てていった。その間に、なまえさんは一言も発しなかった。ただ、墓石を丁寧に拭いて磨いている間のなまえさんの顔は、墓石にずっと向けられているのだから、なまえさんが言葉を発さずとも、もしかしたら目で何かを言っていたのやも知れぬが、それに関しては己が知る由もなかった。なまえさんが黙っている間、己もまた、同様に黙っていた。続く沈黙の間、風が吹いて木々が揺れる音が時折聞こえる。何の声も聞こえないこの空間というものに居心地の良さを感じていたはずなのに、今は居心地が悪くてたまらない。

「これは、悠一が?」

なまえさんは花の残骸を指して、己に問うた。なまえさん宛ての花。正しくは、なまえさん宛てという名称をつけられた、己が選ぶことをしなかった選択肢に宛てた花。ただ、己が選ばなかった選択肢の中に、顔と名前を良く知るなまえさんという、選び取らなかった選択肢がそこに在っただけのことである。それでいながら、どこかでなまえさんが生きているということを諦めたくなかったという気持ちと、諦念とが入り交ざった、葬花にさえ成れなかった花のむくろ。なまえさんが帰ってくることをずっと待っていたのは事実であるが、その中には、矛盾もよいところの、うまく折り合いのつけられない感情がたしかに、そこにあった。それが、花という形をとっただけのことである。花のむくろは常に、己の中にある相反する感情が押し込められている。

「……うん。そうだよ」

ひどく曖昧な返答であった。なまえさんは、この墓の掃除をすることはあれど、花を買ってきている所を過去に一度だって見たことが無い。今回も、例にもれずなまえさんは花を買わなかったし、墓にそなえるにしては小ぎれいでやわらかい彩色にあふれている、墓と言う場所にはそぐわない、やたらと気合の入ったブーケが、己の手元にあるだけである。

「ありがとう」

なまえさんはそう述べた。

「何時も買ってきてくれたんだ。どれくらい?」
「……ごめん、覚えていない」
「そう」

今までこの墓に持ってきた花の回数は、己の懺悔の回数よりは少なくとも多いと言うことは分かるが、具体的な回数は全くと言っていいほど分からない。「わたしは幸せものだったのか」そう、なまえさんは言った。何故、を問うこと以上に野暮なことは無い。なまえさんは、「わたしの代わりに墓を掃除してくれて、花までくれる。そんないいひとに恵まれているんだ、これ以上の幸せはない」なまえさんの言葉が、己の心に重くのしかかった。なまえさんがいなくなった日のことを命日だとして、その日と彼岸の時期に、この墓に花を置いた。そして、自身の心が、選ばれなかったひとびとの怨嗟の声がおおきく己を責め立てるたびにも、ここに花を置いた。自分が選べなかったひとびとのことを、絶対に忘れないという自戒か、はたまたその声が聞こえなくなりますようにという自分の希望をこめた花か、はたまたその両方か。置けば解決するというものでもないということはよくわかっていたが、その行為が習慣になりつつあったことは否めない。少なくとも、目の前に在る花々は、そのなまえさんの年一の命日だとされていた日でも、彼岸の日の花でもない。なまえさんにあてた花と言えばイエスと言うことにもなるが、なまえさん以外にあてられた花と言った場合においてもそれはまた、イエスとなる。なまえさんに宛てた花であると、そう言えれば良かった。しかしながら、それが己の口から出ることは無かった。嘘をついている訳では決してないのにも関わらず、目の前のなまえさんの眼を見てしまえば、それを言うことができなくなってしまった。

なまえさん、ごめんね」

 なまえさんは、眼が"とても良い"。彼女の眼が、"視える"範囲の物事を熟知しているはずなのに、こういうときはなぜだか、彼女の"眼"が、うつるはずのない心の中まで視えているのではないかと、そう思ってしまう。なまえさんはただ、会話の相手である己を見ているだけだ。己のこころのことを、脳みその中でこねくり回されている感情を見ている訳では決してないし、彼女にそれを視ることはできない。会話する相手の目をみて、会話しているだけで、己を責め立てるような目を向けているわけでもないのに(なまえさんにそのような目で見られたことは、過去を遡ったところで一度もないのであるが)、何故だか自分がわるい嘘をついているような感覚に陥った。口の中がからからと乾いてゆくような感覚が気持ち悪い。生唾を飲み込むことすら、今はすこしばかり難しかった。なまえさんは、そんな己を見ながら「何が」と言葉に出して問うことはなかった。ただ、彼女の視線は、己の双眸をまっすぐに見つめている。その次の言葉を、彼女は欲しているのだ。この謝罪は、きっと、彼女に対する謝罪なのだろうが、果たして本当にそうなのかは分からない。ただ、自分が嘘をついているような罪悪感から逃れたくて言っているだけかも知らぬ。「……ごめん、」何でもない。そう濁そうとしたときに、なまえさんが口を開いた。「言いたいことがあるなら言って」怒ったりしないから。なまえさんは、ぞんざいな言葉選びをするくせに、気配りは妙に丁寧なところが不器用で、むず痒い。彼女の目は口以上に物を言う。今の彼女は、まるで小さな子どもにでも話しかける風体を取っているが、その実口から出ている言葉はひどくぞんざいである。

「それを言って楽になるなら言って」

 なまえさんは、紫色の花弁を指先で遊びながら己の双眸を見ていた。彼女の眼球、彼女の瞳の中に、みっともない顔をした己の顔が映っている。なまえさんの眼球には一体何が視えているのか、己には到底想像もつかない。少なくとも、彼女の顔を見る限り己の視覚に映るのは、暫く、なまえさんがあまり表情を変えずに己に淡々と何かを話している映像であるが、この未来視は音まで伝えてくれるようなものではないのだから、彼女が何を言っているのかまでは分からない。一言ずつ、言葉を選びながらなまえさんに向けて話した。あの時、なまえさんにそういう選択をさせてしまってごめんだとか、自分の心を軽くするためになまえさんのことを使ってごめんだとか、そういう言葉ばかりが空気に触れては、己となまえさんの間で消えていく。歯切れ悪く、最後の言葉を切った後になまえさんは「そう」と言った。その言葉に、彼女のどのような感情が溶けているのかを知ることは出来ない。ただ、彼女が己に対して失望したとか、そのような感情を持っていないことだけは分かった。なまえさんは少しばかり、思案するような顔をして、「悠一」と己の名を呼んだ。

「あれは……あの時は、悠一が視た選択肢の中からわたしが最良だと思うものを選んだだけ。悠一たちが引き留めるのを聞かずに、わたしが勝手にやった。……それで心をずっと痛めていたのであれば、謝るのはわたしの方だ。心配をかけてごめんなさい。悠一の心を傷つけてしまってごめんなさい」

なまえさんの言葉に対して何を言えばよいのか分からなかった。己が許しを請うたのに、己が許しを請われるとは全く思っていなかったからだ。「違う、なまえさん」己が言葉を紡ごうとしては言う言葉が出てこない。「違う」と、彼女に対して勢いよく否定の言葉を投げたが、何が違うのか、自分の中でうまくまとまらなかった。ただ、なまえさんに謝ってもらうつもりはなかったということだけが事実で、己がなまえさんのことを許す、というはまた違う話のように思えて仕方なく、己の唇が少しばかり開いては、言葉が見つからずに閉じるのを何度か行ったが、最終的に口をつぐんでしまえば次に開くことが難しくなってしまった。何も言わなくなった己に対して、なまえさんは急かすこともしなければ、無理やり言わせようとすることもなかった。「また、言いたくなったら教えて欲しい」となまえさんはそう言った。
会話の無くなった己らの間には、居心地の悪い沈黙が流れていた。なまえさんはあまり気にしていないようで、手で遊んでいた紫色の花弁をちぎって、桶の中に散らかしていた。紫色だった花の、茶色へと変色しかけている花びらがはらはらと、桶の中におちてゆく。「良く"視える"目は良いことばかりではないね」となまえさんはそう、己に向けて言った。それは、彼女自身にも向けられた言葉かもわからないが、彼女もよく視える目を持っているのだから、そうであっても可笑しくはないだろう。

「視たいものだけが都合よく視えれば良いのにね」
「……おれもそう思うよ」
「不器用だ」
「お互いにね」

なまえさんは、立ち上がって、己の手元を見た。「花はいいの?」未だ、小ぎれいなブーケの花は、手の中に納まっている。この花は一体、誰に向けて贈る花だったのか、自ら買っておきながら、宛先は無かった。店員さんは、なまえさんにあげるための花だと、そう思って作ってくれたところ申し訳ないが、この花の宛てはあまり、自分の中でしっかりとした答えは出ていなかった。いつもの癖で入った花屋で作られた小ぎれいなブーケは、自分の心を救うための花なのか、犠牲になった人に宛てた花なのか。今回ばかりは、そのどちらとも違う。かといって、生身のなまえさんに宛てた花かと言えば、それも違った。

「……今日はいいかなって」
「そう。また、供えたくなったらそうして」
「そうする。その時はなまえさんも来てくれると嬉しいけど」
「時間が合えばね」

この花どうしよう、と言えばなまえさんはやさしい笑みを浮かべて、「支部に花瓶があるならそれに入れたらどう?」と言った。そもそも、支部で花が飾られていたことなんてあっただろうか。探せばあるかもしれないが、花瓶がどこにあるのか、結構長くあの支部で生活をしているはずであるが全く思い出せなかった。

「花瓶無いの?」
「あってもかなり大きいやつだったと思うから、買って帰らないとダメかも」
「ペットボトルの口の所を切り落とした奴じゃだめ?」
「さすがにそれで支部に置くのは見た目が良くないでしょ」
「悠一が時間あるなら、買って帰ろうよ」
「いいよ。花瓶はなまえさんが選んでよ」
「センスがないから悠一が選んで」
「おれも言うほどセンスないよ」
「……わたしが選んだやつ買って帰ったら桐絵に変な顔されそう」
「大丈夫だよ」
「サイドエフェクトは?」
「小南が凄い渋い顔してるのが見える」
「ダメじゃん」

 結局、渋ったなまえさんに花瓶を選ばせて買って帰った結果、「えっそれ花瓶?……そのデザインのやつ、どこを探したら買えるのよ」と案の定小南に凄く渋い顔をされてしまった。京介は言葉を選んだ結果「前衛的なデザインの花瓶」と述べては居たがその言葉の裏に隠れているのは"呪いのツボ"という単語であったし、レイジさんは「……良く見つけたな」と感心していた。なまえさんが恥ずかしそうな顔をして俯いてしまったので、「なまえさんが選んだけど」と、とどめを刺すに等しいことを言えば、「なまえさんは花、あまり得意じゃないのよ」と小南が即答していた。さすがに、玄関になまえさんが選んだ素晴らしい花瓶を置くのは人がかなりびっくりしてしまうのでやめておこうという話になり(花瓶となまえさんには非常に申し訳ないが……)、結局、戸棚のずっと奥から昔使っていたらしい淡い色をしたガラスの花瓶をレイジさんが探して持ってきてくれたため、なまえさんが選んだ花瓶は引っ張り出された花瓶と交代するように、棚の奥の方にしまわれてしまった。選んだ花瓶のセンスについて、散々に言われたなまえさんは、「悠一、そんなにアレだめかな?」と己の顔を見て言った。たしかに、花瓶を買いに行ったときに、前衛的なデザインの花瓶を持ったなまえさんを止めなかったのは、たしかに己であるのだが、花瓶を選んでいたときは、あのデザインでも問題が無いように思ったのだ。「おれはいいと思うよ。なまえさんっぽくて」なまえさんは己の言葉の意図が読めないと言いたげな顔をしてこちらを見ていた。

:

 なまえさんは、玄関にある、淡い色をしたガラスの花瓶に飾られた花を見るたびに嬉しそうな顔をする。朝方、外出しようとする己が、玄関のほうに出てきたときに、玄関のところに座り込んでいるなまえさんの姿が見えたから声をかけた。

「……なまえさん、朝はやいね」
「おはよう、悠一。今日ははやく起きたんだよ。悠一は任務?」
「いや。少し出かけようかなと思ってたとこ。特に行先は決めてないけど」

なまえさんは玄関の花と、己とを交互に見たあとに嬉しそうに笑った。

「やさしい想いのこめられた花はきれいね」
「やさしいかな」
「悠一はどう考えているかわからないけど、わたしはそう思うよ」

そういうものかな、と問えば、そういうものだよ、となまえさんは至極当たり前とでも言いたげな顔をしてそう、言った。「気を付けていってらっしゃいね」と、そう言って、立ち上がって、共用スペースに向かおうとするなまえさんに、「なまえさんも暇だったらさ、一緒に出掛けようよ」と声をかけた。なまえさんは未だ、自分の身を本部に置くか、玉狛支部に置くかを決めかねており、彼女のランクも未確定のままであるから、防衛任務は入っていない。時間の自由は、それなりにあるだろうと踏んでそう、問うた。

「いいよ。待っててもらえる?余所行きの服に着替えたいから」
「待ってる」
「置いていかないでね」
「おれが誘ったんだから置いていかないよ。急がなくていいから」
「わかった」

なまえさんはそう言って、自室のほうへと向かっていった。玄関に残ったのは、己と、未だ上を向いて咲いている、花だけである。「やさしい、ねえ……」そう独り言ちたところで返事をするものは誰もいない。淡いガラスの花瓶に生けられた花の方を見る。己の気をこれっぽちも知らぬ花は、相変わらず上の方を向いて、うつくしい花弁を広げている。
0000-00-00