小説

やさしい食卓

 帰ろう。悠一はわたしに向ってそう言った。帰る場所がどこにもないわたしに向って、悠一はそう言ったのだ。「どこに」そう問うことはきっと、許されはしない。オサムくんたちと向かった、警戒区域のそば、そしてその向こう側にあるすでに人の住むことが許されぬ場にある一軒家が、わたしの家だと言うのはなんだかおかしな感じがした。そもそも、この場所に来る前にわたしが昔、家族がいた頃に住んでいた家のあった場所に行きはしたが、わたしが三門市で生活していた場所で一番強い記憶として残っているのはあの家ではない。ボーダーの本部、あの川の上に在る基地の中である。
 三門市に戻りたいと思い続けていたはずのわたしは、三門市にたどり着いてしまった後に、三門市のどこへ行けば良いのかが分からなくなってしまった。否、わたしはただ、そう考えることで、本来しなければならなかったはずのことをやらずに居ただけだ。本部基地──今は、玉狛支部となっているようであるが──に行って、自分自身の帰還をただ、告げればよかった。あの日、彼らの制止を振り切って、勝手に飛び出してしまったことを詫びればよい、ただそれだけのことだ。わたしの顔を見たときの、彼らの顔を見るのが怖かった。わたしの家のあの寂しい墓石に名前だけが彫られている彼らのように、彼らがどんな人だったのか、どんな体温をしていたのか、どんな声で話していたのかを身内であったはずのわたしですら思い出せなくなってしまったように、わたしのことなぞ、とうに忘れてしまっているのかもしれぬと思えば自然と足が竦んだ。だから、墓石に自分の名前が刻まれていることに、少しの落胆の気持ちとともに、安堵の気持ちさえあった。わたしのことはもう、彼らの中では終わったことになっているのだと、だから、忘れてしまっていてもおかしくはないだろうという、ある種の諦念。
 一向に動こうとしないわたしを、悠一は「はい、行くよ」と急かした。最終的には、彼に腕を引かれる形で無理やり歩かされることになる。「どこに」そう問うたが、悠一は「なまえさんが一番良く知っている場所だよ」と言うだけで目的地は口に出さなかった。「メガネくんたちも夕飯食べるだろ?」「はい」すっかり変わってしまった街並みの中に、わたしの知る景色がポツ、ポツと見えてくる。比較的新しい建物はきっと、最近建てられたものなのだろうが、随分古そうに見える建物は、わたしの記憶にも唐牛で残っているものであった。わたしの知るボーダー本部の建物は今、玉狛支部と名前を変え、街の中央に在る巨大な四角い建物が今の本部基地なのだという。「みんな居るの?」「いや。なまえさんが知ってた時の人で残ってる人はもう大分少ないよ」悠一の口ぶりから、わたしの知る人たちはもしかしたら、行方不明にでもなったか、死んでしまったか、辞めてしまったのだろう。それについて、悠一から明確な返答を得ようとは思わなかった。それはきっと、今のわたしには必要のないものである。

「今日の夕飯誰だっけ」
「小南先輩です」
「カレーか。いいね」

チカちゃんの返事に、悠一がそう返していた。彼らの口から出てくる人の名前のなかに、知っている人の名前が出てくると、途端に懐かしい気持ちになる。「三人とも、ボーダーの子だったんだ」「はい……私と遊真くんは正式入隊日はまだですけど」「入隊日までに今訓練していて」「こなみ先輩にぼこぼこにされてます」「桐絵?」「うむ」「……想像できない」わたしは、林藤さんにくっついていた桐絵のことしか知らない。その桐絵が、誰かを指導するというところがあまり想像できないというのもあったが、年を考えればもう、彼女も高校生になっている頃だ。後輩の指導をしていても何らおかしくはない。悠一は支部に電話をかけていた。電話口からうすらと零れてくる声が、知った声であったから自然と肩が震えた。「悪い、客が一人増えるからよろしく」そう、電話口でわたしのほうを見ながら話している。電話をしながら楽しそうにわたしの顔を見ているのが、余計にわたしの気分を陰鬱なものにさせる。

「そんなに辛そうな顔しないでよ」
「してない」
「目が言ってる。まあ、黙ってまた居なくなろうとした罰だと思って」

 そう言われてしまえばもう、何も言えなかった。わたしの表情と悠一の表情はひどく対照的なものであるのか、チカちゃんがわたしと悠一の顔を交互に見てはおろおろとしていたので申し訳なく思う。「今日もまたにぎやかになるぞ」そう言う悠一に対して中学生三人組はそれぞれ同意していた。わたしはどうも、居心地が悪かった。「……いや、でも」そう、悠一に向って言えど、悠一はわたしの腕を離す素振りを見せることは無かった。

なまえさん、大丈夫だよ。絶対、なまえさんの思うようにはならない」



 なまえさんをボスの所に通した後に玉狛支部内の共用スペースのドアを開けた時には皆既にそろっていた。なまえさんのことはまだ言わぬようにと、三人に口止めをして部屋に入る。「遅い」先ほど無理な注文をつけたせいか、小南は己に向ってジトりとした目を向けていた。「迅さんおかえり」と宇佐美が己の顔を見て言った。「お客さんが来るのが視えてたなら最初から言いなさいよ」「悪い悪い。ちょっと驚かせたくてさ」いきなり食事の量を増やせと言われた方は文句の一つや二つ言いたくなるのも当然のことだろうから素直に謝っておいた。メガネくんたちの顔を見た時に、白い女の姿は見えていたが、あの人がなまえさんであるということを、その時の己には分からなかった。更に、どのような分岐を辿るかも確証はなかった。あの時、己が彼女に接触した後の分岐で、なまえさんが玉狛支部で和気藹々とした会話の中に居るところも、ひとりで駅から電車に乗って三門市から出て行く姿も見えていた。

「お客さんは?」
「ああ、これから来るよ。今ボスのとこ行ってる。飯は先に食べてて良いよ」

そう時間も経たぬうちに話を終えたボスとなまえさんが来るだろう。人数分のカレーを用意して、テーブルの上に並べた。メガネくんたちが手伝ってくれたおかげで配膳は早くに終わった。今いるメンバーでカレーを食べ始めたときに、京介が口を開いた。

「新人すか?」
「新人来てもこれ以上弟子取れる人いないだろ、迅が見るのか?」
「まあ、そんな感じ」
「聞いてないわよ」
「言ってないからね」

小南は「……また何か企んでるんでしょう」と呆れ半分といった顔をして、カレースプーンでカレーをつついている。「迅さんが弟子ですか」「意外?」「はい」京介のまっすぐな物言いに思わず苦笑した。まあ、彼女には指導も何も必要ないだろうから、もし彼女がボーダーに戻ってくるのであったとしても、きっとそのようなことにならないだろう。レイジさんが、怪訝そうな顔をして己を見ている。レイジさんは特に、己に向って何も言わなかったが、彼の場合は言葉よりも目が、己に向って物を言っていた。

 次にドアが開いたとき、ボスがやってきた。ボスの背に隠れるように、白いワンピースの裾がちらついている。後ろに引っ込んだまま出てこないなまえさんを、ボスが前に引きずり出した。いきなり前に引っ張り出されたなまえさんが、ボスの顔を縋るような目で見るが、何もしてくれないのだと悟るや否や、己のほうにヘルプを視線で送ってくるのが可笑しかった。黙って居なくなろうとした罰だと思って、とは言ったが、あまりに落ち着きが無いのだからこちらも遣り過ぎたのかも知れぬとは思ったが、何もしなかった。
 小南と京介とレイジさんは、彼女の姿を見て、互いに顔を見合わせている。メガネくんは、彼らとなまえさんを交互に見て落ち着きが無くなっているあたり、もしかしたらなまえさんよりも緊張しているのかもしれない。小南が、なまえさんをジッと見た。目を細めて、記憶の底から、既視感のあるものの正体を探るような顔をしていた。それはそうだろう、小南やレイジさんの記憶の中のなまえさんと、今のなまえさんは、大分違う。五年近く、短いようで長い時間の中で人は思ったよりも変わるものだ。彼女の顔を暫く見ていたレイジさんが何かに気づいたような顔をするのと、「うそ!」と叫んだ小南がスプーンを豪快に取り落とすのと、なまえさんが口を開いたのは同時だった。

「……みょうじなまえ、只今戻りました」

 玉狛支部は今日も、賑やかである。新入隊員三人を迎え、随分とにぎやかになったが、今日は一層賑やかであった。気まずそうにしていたなまえさんは、小南に引っ張られてそのまま食卓へ、彼女も、彼女が想像していた悪い方に向かなかったこと以上に歓迎をされたことに戸惑っているのだろう。カレースプーンを握りしめたなまえさんが突然泣き出した時に、レイジさんが一番慌てていたのも可笑しかった。「だから、なまえさんが思うようなことにはならないって言ったでしょ」と、そう言えばなまえさんはひどくばつが悪そうな顔をしていた。
 
 彼女が戻ってくることを、己らは待っていた。あの墓石に、知らぬ間に彼女の名前が刻まれた頃から、もしかしたら帰ってこないのかもしれぬと思った日が無かったと言えば嘘になる。あの墓に、もう二度と戻ってこないかもしれない女のことを思いながら、一番似合わない花を供えるということはもう、きっと無いのだろう。己は、今日この日のことを長らく待っていた。生きているか死んでいるかもわからない人間に対して、最悪の想像をする必要がなくなる日を、また、彼女も含めて食卓を囲むことを確かに待っていた。小南が京介に騙されて悔しがっている様子を、レイジさんが呆れ半分といった顔で見ている。そんな彼らを、メガネくんたちと宇佐美が笑っている。そんな彼らの様子を見たなまえさんが、穏やかに笑っていた。なんの変哲もない、楽しい食卓の風景である。そうして、明るい夜は更けてゆく。
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