小説

ひねもす#2

6.
 街中は、さわがしい。楽しそうに隣り合って歩くひとびとの、あかるい話し声、比較的、平日よりはずっと多く見かける子連れの親の、この世の幸せという幸せを詰めたような顔ぶれの並ぶ、穏やかな日曜日の朝のことである。好きな場所を見て回るからと、待ち合わせ場所を決めて、両親と別れた矢先のことであった。なにこれ。なにこれ、と言ってもそれについて答えてくれる人はどこにもいない。巨大な広告モニターを引っ提げている、この駅前の中では一番大きな建物ともいえる電気屋さんのビルの画面に映し出されている光景を見て、わたしは両目をこすった。そうして、もう一度、その画面を見る。小さな子供が、作った砂場の山を蹴り飛ばしてできた時に見える抉れた砂山のようなものが出来ている。その、無造作にできた山々を構成しているものが、わたしにとっては身近にありすぎる人の家の壁だとか、たまに見える割れた窓ガラスがお情け程度に引っかかっている窓枠だとか、屋根瓦だとか、そういうもので構成されているのが見えるあたり、これはただの子どもの作った山や、それらを崩して遊んだ後ではないことだけは分かる。何これ。わたしの口から飛び出したのは、そのような言葉だけであった。わたし以外にも、この大型モニターの見える場所で足を止めて、画面を食い入るように見つめている人が居る。彼らは生唾を飲み込んで、わたしのようにそのような言葉を述べることは無かったが、それでもその表情はわたしと同じことを言っていたように思う。普段は、ゆきかう人々や車のエンジン音のせいでさわがしくて聞こえないはずの、あのモニターの隣のスピーカーから流れる音が、今日はやたらと大きく聞こえる。冷静に、書いてある文字列を読み上げる男性アナウンサーの声が、なんだかよくわからない状態を目の前にして唖然としているわたしの脳みそにはよく刺さった。聞こえる言葉に、普段から馴染みの深い言葉が述べられる。例えば、わたしの生活している市の名前だとか、その市内の中の東側の方の地名のことだとか。時折映し出されるのは、市内の中でもそれなりに目立つ場所、市内の中学だとか、高校だとか、はたまた、それらが"在った場所"の名前だとか。それら一つ一つを認識するたびに、わたしの脳はわたしに向って警鐘を鳴らすのであるが、わたしと言えば、その画面を見てぼうっと突っ立っていることしか出来ない。

 繰り返しお伝えします。本日午前……時ごろ──、同じニュースを繰り返し伝えるアナウンサーの声を、何周聞いたのかわからなくなったころに、隣に歩いていた人が、端末で電話を試みているのが見えた。そうだ、わたしも別れた家族に電話をかけなければならないのだ。家族が、今の三門の状況を知らぬわけは無いのだろうが、今日の外出を切り上げてすぐに帰るべきなのか、どうするのかがわからないわたしは途方に暮れていた。とりあえず、家族に電話をして、それから──そう思うも、わたしは端末を取り出すことすらうまくできずに、指先から滑った端末は、コンクリートの地面に叩きつけられてしまった。普段かけ慣れた動作で電話を掛けようと試みる。電話一つかけるのに、こんなに手が震えたことは今まで一度もなかったはずだ。漸く、電話をかけることができたが、ブツリと切断される音が聞こえて、それっきり電話がつながることは無かった。少なくとも、今の状況だけを知ろうとインターネットに接続したところで、通信中のマークが表示されるばかりで、いよいよ、接続されることは無かった。「繋がりませんね」そう、口々に話している人の声が聞こえる。「三門、ここから近いじゃん」怖いね、と小声で話す人の声が聞こえる。そう、あの三門市、わたしが朝見た時はまだ、街のすがたをしていたあのまちが、わたしが外出しているこの数時間のうちに、ああなってしまったのだ。人死にの数だけは未だ報道されていないが、あの惨状で人が死なずにいるなんて奇跡のようなことがあるのだろうか。そう思うと、わたしは金曜日に最後に会ったばかりの同級生の顔が浮かんでくる。彼女たちは、彼らは無事なのだろうか、また、これらが落ち着いた後に会うことができるのだろうか。わたしの心は先に焦るのに、頭の中はどこか冷静であった。そうしている間にも、街頭モニターには、新しい情報が表示される。交通網は復旧の見込み不明、電車もバスも、数日は動かないのだという。そうして、崩壊したまちのすがたが流れてゆくのが、淡々と伝えられていった。たしかに、画面の向こう側に見えるのは映画の世界の話のようであったが、それらは確実に、わたしの住むまちであるに違いない。




7.
 わたしが学校に通えるようになったのは、あの災害の起きた数週間後のことである。
 壊滅的にやられてしまったという地域に比べれば家も、学校もそのままの姿を保っていた。そのため、体育の授業以外の学校授業の再開も早かった。体育館は家がダメになってしまった人たちが、仮設の住居として住んでいるのだというから、体育の授業は暫く外で行われるという話も聞いたが、それに関していいも悪いも言っていられる状況でないことは誰もがわかっていたので、誰も文句は言わなかった。
 わたしの家のあたりは、大した被害もなく、自分の家が壊れることもなかった。無事であるに違いないが、その周りの地域は家を塵にされてしまった人たちも多く、その家が無事であっても血縁者が無事ですまなかった人も多く居たため、無事を大っぴらに喜ぶことはできなかった。

 報道で伝えられた行方不明者と死者の莫大な人数を見れば当然のことであるが、再び学校で会ったときに、クラスの全員が揃っているクラスの方が少なかった。わたしの教室にも、二度と人が座ることのない席があった。それが、ちょうど、わたしの前の席だった。先生が彼女の名前を呼んで、彼女の死が確認されていることを涙ながらに話していた。ぽっかりと開いた、わたしの目の前の席をクラスメイトらがちらりとみて、知人同士で顔を見合わせたと思えば、そのまま目を下に落としてしまう。中には、家族や、親戚が亡くなってしまってそれどころじゃない人もいるだろうに、クラスメイトらは皆、わたしの前の前の席にいつも居た彼女の死を悼んでいる。
 彼女と最後に別れた金曜日のことを思い出す。彼女が、予備校に通い始めて初めて受ける模擬試験を、日曜日に受けるのだと言っていた。「点数取れれば良いなって思ったら、ちょっと緊張しちゃって」「頑張って勉強してるんだから、大丈夫だよ」「そうかな?わたしの頑張ったぶんはご褒美として少しくらい報われたいよ」休みも返上して、机にかじりついていた彼女に対する報いがこれであるならばふざけるなと思うし、ちっとも救われないじゃないかと思う。教室がかなしみに包まれるなか、わたしだけこの場所から一人外れてしまったようなさみしさを覚えた。それは、わたしが教室に居る彼女の死を悼む人の群れから外れて、別のことを考えているせいなのかもしれぬが、わたしの中には寂しいという感情があるだけで、そのさみしさの理由は分からない。学校に置きっぱなしになっていた彼女の荷物は、今日の放課後の最終下校時間間際に彼女の両親が取りに来るのだという。先生から見ても、このクラスの中で一番、彼女と仲が良かったのはわたしだったのか、彼女の引き出しと、彼女のロッカーの中に残っている荷物を整理してくれと頼まれたので、二つ返事で答えた。わたしの席から見える彼女の机の中には、彼女が週末に持ち帰らなかったノート類──これも、きっと"あの出来事"が起きなければ、彼女に開かれる予定だっただろう──が、今か今かと彼女に開かれるのを待っていた。

 誰も居なくなった放課後の教室は、さみしい。やることがあるからと日直の子に戸締りを変わる旨を伝え、人が誰も居なくなるのを待った。あのような災害が起きた後で、部活動はできるわけもなく、普段であれば、教室に残って喋り足りない子たちがしゃべるだけ喋って帰ることもあったが、クラスメイトたちはショート・ホームルームが終わった後、すぐに家に帰って行った。放課後、誰も居なくなった教室で、わたしの前の席の引き出しの中身をすべて机の上に出した。付箋が山のように張られた、彼女が持ち帰るのを忘れてしまっただろう教科書と、彼女が使っていたノートがある。
"自習ノート"と銘打たれたノートの横に書かれている番号は、彼女が勉強で消費したノートの冊数であるに違いない。許可を取る相手はもういないが、彼女に断って、彼女のノートを開く。上から下まで細かく書き綴られたノートに書かれていたのは、彼女が点数が取れなかったところの復習と、教科書のページ数と、問題集を解いたときの丸付けの結果と、間違っている場合に赤ペンでの修正だった。模擬試験に出そうなポイントも書かれているあたり、彼女は日曜日の試験は一つの勝負であったに違いない。彼女の使っていたこのノートには、勉強以外の他のことは何も書かれていない。最後に残った三ページだけが空白のページであるから、もうこのノートも終わりで、休み明けには模擬試験の反省と復習が行われていたのだろう。

なまえ、まだ学校に居たのか」
「准」
「おばさんが心配していたぞ」
「……ごめん」

遠くから聞こえた足音に、もう彼女の両親が来てしまったのかと思ったが、来たのは准だった。わたしの端末を確認すると、母親から一時間前と、三十分前と、数分前に電話が着ていた。「気づかなかった」「何もなくて良かったよ」准はそう言って、わたしよりも先にわたしの家に電話をしていた。おおかた、早く帰ってくるように伝えてくれと、そう准に言ったのだろう。准は、わたしと一緒に帰る旨を伝えて電話を切った。准は、わたしが彼女の机の前で立って、彼女の遺品となってしまったものの群れを見て、痛ましい表情を浮かべた。このノートの持ち主が二度とこのノートを手に取ることが無いことを、准はすでに知っていたようであった。「俺は向こうにいるから、終わったら呼んでくれ」そう言って、准は教室から出て行ってしまった。わたしが、彼女の荷物を整理して、彼女との別れの最中だとでも思ったのだろうか。彼女との別れは、あの災害の来る前の金曜日であったというのに、こころの別れというものは、どうもうまくいかないものである。彼女の机の上に置かれた彼女の遺品を見ていると、彼女はまた、戻ってくるのではないかと思ってしまう。もう二度と、ここに来ることは無いということを告げられているのにも関わらず、また、次の試験勉強に向けて机にかじりつこうとする彼女の姿が、またあるのではないかと、そう思うのだ。




8.
 彼女の荷物を机の上に置いて三十分程度、ぼうっとしていると、廊下から別の足音が聞こえた。いよいよか、とわたしは廊下に出た。歩いてきたのは、彼女の両親と、先生だった。わたしは、彼女の両親に頭を下げ、逃げるようにそこから去った。彼女の母親が、肩を震わせて、今にも泣いてしまいそうになっているのを見ることに耐えられなかった。先生も頭を下げただけで、わたしたちの間に言葉は無かった。逃げるように外に出てきたわたしに、准は「もういいのか?」と問うた。「……うん」准は、すれ違って教室に入っていった、彼女の両親のさびしい後姿を見たのだろうか。わたしの教室の方から聞こえる、すすり泣くような声が、耳に入ってくるのに、准は痛ましい表情を浮かべて、目を伏せた。「もう、行こうよ」何も悪いことをしていないのにも関わらず、わたしは早くこの場から立ち去りたかった。わたしにせっつかれた准は、「ああ、そうだな。帰ろう」と言った。夏が近いせいか、下校時間から一、二時間程度が経過した今でも、未だ空は明るい。西の空には太陽のすがたは見えぬが、太陽の残滓は未だ、空にあった。未だ、橙色が残る空を見ながら、わたしは准と並んで帰る。わたしは、学生カバンをぶら下げているが、准は一度家に帰ったせいか、鞄は持っていない。わたしの母に言われて、もう一度学校に行くために制服に着替えたのかもしれない。

「准、ごめん」
「それはさっき聞いたよ」
「あっ、そっか……」

准に話しかけたのは良いが、あいにく、わたしは准と日ごろから話をするわけではないのだからこういう時に限って話がうまく出てくるわけもなかった。「あのね」「無理して話そうとしないで良いよ」「……ごめん」わたしが、一言一言に詰まるのが聞き苦しいか、迅くんに話したことが准に伝わっているのか、それとも、ただわたしが、無理やり言葉を繋ごうとしたことが不愉快だったのか分からぬが、そう言われてしまえばもう黙ることしか出来なかった。「悪い、違う、そういう意味じゃない」黙ってしまったわたしに、准は焦ったような声をだしてそう言った。

「俺に合わせて話題を選ばなくて良いよ」
「……」
なまえの話したいこと話してくれればいい」
「詰まらないよ」
「聞かないと分からないだろ、そういうの」
「……詰まらなかったらつまらないって言って」
「わかった」
「くらい話になるかもしれないけどね、わたし、あの子が死んだって聞いたけど未だあまり実感が無いんだよね。教室で先生、ほらさっき見たうちの担任の先生いるでしょ。先生が朝に、わたしの目の前の席を見てさあ、あの子は死にましたって言ったんだよね。ほら、この間の近界?よくわからないけど、知らないところから来た人たちが町をめちゃめちゃにしていったやつ、あれで死んじゃったって言って、でも、あの子の引き出しの中には持って帰り忘れた勉強道具があって、また帰ってくるんじゃないかって思っちゃうんだよね。だってあの子、日曜日に模試あるから頑張らなきゃって言って、月曜日からまた復習とか、そういうことやるんだろうなって思ったんだけど、あの子は学校に来ないし、ノートの日付は金曜日が最後だし、まだノート持って帰ってなかったんだなって思っちゃってさ。でも、みんなは死んだって言って泣いてて、でもわたしは悲しい感じがあまりしてなくて、涙も出なくて、それで、わたしだけ取り残されちゃっているような気がして、わたしは仲良い友達が死んじゃったのにさ、ひとりで周りが悲しんでいるのを見てるだけで……泣いている子よりわたしのほうが、ずっとあの子のこと知ってたはずなのに、薄情だなって。でも、あの子のお父さんとか、お母さんがああやって泣いていると、もう、本当に帰ってこないんだって思ったら……」

准は何も言わなかった。ただ、痛ましい顔をして、わたしを見ていた。わたしはまた、勝手にしゃべりすぎてしまったと思い、居たたまれなくなって「……ごめん」と謝った。准は、「なまえ」とわたしの名前を呼んで、口を開いた。「何も、なまえは悪いことしてないだろう。すぐそうやって謝るのやめた方がいい」「……ごめん」言われたばかりなのに、わたしはこうやってまた、謝ってしまった。准は「謝ってほしいわけじゃなくて、言い方が悪かった」と弁解する。「うまく言えてないかもしれないけど」と考え込むような顔をしている。

「悲しみ方を他の人と比べなくてもいいんじゃないか。泣いてないかもしれないけど、なまえだって悲しいんだろ、いいじゃないか、それで」
「そうかな」
「俺は薄情だとは思わない」

准はそう言い切った。わたしは、「そう……そうかなあ」と准のその言葉を素直に受け取ることができずに、そうひねくれたことを言い、准が首肯するのをただ、見ていた。たぶん、わたしが欲しかったものは、きっと今の准の言葉だったのだろうと思う。もしかしたら、ただ、わたしも悲しいのだということを、誰かに知ってほしかっただけなのかもしれない。「寂しいな」と准は唐突に、口を開いた。「……うん」わたしは、准の言葉に頷いた。「とても、さみしいくて、悲しいよ」「ああ」「悲しくて……」わたしの視界がぼやけた。目頭が熱くなって、わたしの意思とは関係なしに、水膜がわたしの視界を揺らす。准は何も言わなかった。一緒に歩いていたわたしの手をとって、優しく握っているだけだった。わたしの鼻を啜る音にも、零れる涙のことも、何もかもを見ないふりをして、ただわたしの手を握っているのだ。まるで、さみしい気持ちに支配されているわたしに、ひとりきりでないことを教えるように、ただ隣に寄り添っていた。




9.
 生活は少しずつ、元に戻りつつあった。ただ、以前と異なるのは、この街には警戒区域と呼ばれる立ち入り禁止区域ができたこと、それから、ボーダーという組織の名前を良く聞くようになったことだ。相変わらずテレビでは、ひと月ほど前の日曜日の大規模侵攻時に偶然撮影された映像が流れている。朝ごはんを食べながらテレビをつければ、東三門──今回の災害の中で最も被害が甚大だとされている地域の方である──の様子が流れていた。建物の残骸が積み重なっている群れの間に、よく見知った店舗の看板の色や、重さでひしゃげた様子が、現実感が無く思えてしまう今回の災害が、自分の関係のない世界で起きている話ではないということを思い知らせてくる。死者と行方不明者の数が、テレビ画面の右端の方に頻繁に書かれていた時期もあったが、今は一行テロップが流れる程度に収まるようになった。その数字に大方変化が出なくなってきたころ、朝の番組でこのニュースが放送されるたびに、家族のだれか──これはわたしも含まれるのであるが──がテレビを消すことが多くなった。そういう、自分の身近にあった出来事を少しずつ、自分から遠ざけ始めたころに、彼女の席は教室から無くなってしまった。校舎がダメになってしまった隣の学校の生徒を一部受け入れたこともあり、全校生徒の数だけを見れば、随分と人が増えたように思う。わたしの学年にも、わたしの学校とは違う学校の制服を着た学生らの姿を見かけるようになった。新校舎が立つまでの間、とはいえ、わたしたちはもう三年生なので、若しかしたら同学年の生徒らは、卒業までこの学校に居ることになる可能性だってある。またいつか戻ってくるだろうと思っていた彼女は、もう二度と教室にやってくることは無かったし、彼女の座っていた座席は、すでにわたしの学校の制服とは違う制服を着た生徒が座っている。新しくやってきたクラスメイトは、最初のうちはひどく居心地悪そうな顔をしていたが、数日経てば少しずつ、クラスに馴染んでいった。もしかしたら、死んだ彼女以外にあまり、親密な付き合いをする友達がいなかったわたしよりもずっと、多くの友達を作っていたように思う。六月の時点で随分と暑かったのに、七月に入ってしまえば、気温が三十度をゆうに超える日がが多くなった。朝の天気予報で表示される予想気温の文字の色は、見ている方が暑くなりそうなくらい真っ赤な色をしている。本学期が終わる日も、例外ではなかった。持ち帰り損ねた資料集や、授業で作ったはよいが、ロッカーに放り込んだままになっていた美術の課題作品を抱えて、教室から出るころには、わたしの額にはまるい大粒の汗が浮かんで気持ちが悪かった。「みょうじさん、荷物多いね」「うん、もう少しちゃんと持って帰っておけばよかったなって……」わたしの荷物の数を見たクラスメイトの女子が、苦笑していた。そう言う彼女の荷物は、わたしの半分もなかった。

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 朝早くから鳴く、煩わしい蝉の声にも慣れつつあった夏の日のことである。終業式が終わってから十日ほど、八月の始まりがもう目前に迫ってきた日のことであった。わたしはいい加減に受験勉強に本腰を入れなければならないからと、数か月前の彼女と同じように予備校に通い始めた。線路の復旧作業が未だに終わらないため、わたしは二駅となりの隣町の予備校に、バスに乗って出かけている。普段、バスに乗らなかったせいで、電車よりも広い時間間隔でやってくる振り替え輸送のバスの時間待ちに苛立ちを抱いていたときもあったが、数日通い始めたあたりでそれらに慣れ始めたように思う。夏期講習を受講して、自分に合いそうであるならば、その予備校に受験が終わるまで通おうと思い、通い始めた。実際に、予備校に通い始めてみれば、わたしのように殆ど毎日を自由に遊んで居る人よりも、日々勉強にまじめに取り組む人の方が多く、自然と勉強をやらなければならないような気がしてしまい、自然と机に向かうようになった。他の予備校はどうだろうと思い、わたしの通う予備校の近くにある予備校の前を歩いてみたが、窓から見える学生らの机に一生懸命かじりついている姿は、どうもわたしの通う予備校の人らとそう、変わりないように見えた。
 まだ、聞こえてくる蝉の声が比較的ちいさな朝方に外に出て、夕食の時間あたりに帰宅するという生活を夏休みが始まってからずっと行っている。予備校に出かけて、授業を受けた後、二、三時間ほど自習をして帰宅する。帰宅するころには陽はすっかり西の方に傾いている。
 
「今日の夜、嵐山さんのところが留守だから、准くんたち来るのよ」
「三人?」
「そう。うちで晩御飯食べることになってるから少し早めにね」

 今日だって、夏期休暇に入ってから常になりつつあった日を送る予定であった。家のドアを開ければ、むっとした熱気が部屋の中へと入ってくる。そうして、外出の挨拶を玄関から部屋に向って言ったときに、わたしの母が、准のきょうだいがわたしの家に来ることを告げた。「帰りにこれ、お願いね」母は、わたしに紙を寄越した。「わかった」わたしは、それだけ返事をして、予備校への、もう慣れつつある道のりを歩き始めると、最寄のバス停の看板が、道路の向こう側に見えた。歩いてそう時間が経っていないというのに、吹き出した汗が煩わしい。ハンカチで汗をぬぐいながら、今日の気温もまた、あの朝の天気予報の上では赤い文字で数字が書かれていたんだろうかと、朝見損ねたテレビの天気予報のことを思い浮かべていた。




10.
 母親に頼まれたお使いの先はケーキ屋であった。わたしが夏期講習で通い始めた、家から二駅先にある予備校の、最寄り駅すぐそばにあるケーキ屋で、わたしの家族は、お祝い事があるとこの店でケーキを買うのが常であるから、わたしにとって馴染みのあるケーキ屋と言えば、この店であった。白い生クリームが、さっぱりしていて、後味に甘ったるいものが残らないことを、家族ともどもとても気に入っている。西洋のおしゃれなカフェのような可愛らしい造形をした建物は、先月の災害で、亀裂が入ってしまったのか、外壁の工事を行っているらしく、グレイの布で覆われていて、可愛らしい店舗の姿は見えなくなってしまい、いまは周りの色のないビルと同じような見た目をしていた。大きく「営業中」と書かれているドアを開け、母親から渡された紙をカウンターに出すと、カウンターの愛嬌のある笑みを浮かべた女性店員は「ああ、予約のみょうじさんですね、只今お持ちします」と言って奥の方へと姿を消してしまった。暫く、女性店員が大きな箱を持って戻ってきた。「プレートの文字はこれでお間違いないですか」と、愛嬌のある笑みで問うカウンターの女性店員に問われて、ケーキの中身を見たときに、丸い誕生日ケーキの上に載っていたチョコレートプレートに書かれていたのが、今日の日付と、誕生日を祝うメッセージと、准の名前だった。「……間違いないと思います」確証が持てないが、准の名前の字の綴りに間違いはなかったので、良いだろうと思い、そのままケーキを受け取った。今日が、准の誕生日であることを知ったのは、ほんの偶然であった。
 いくらわたしが准とそう、多く交流している訳ではないとはいえ、さすがに手ぶらで家に帰るのも申し訳が無かったので、ケーキを受け取った足で、駅すぐそばの雑貨屋に寄った。あまり長く歩くとケーキの生クリームが溶けてしまうから、あまり、時間に猶予は無かった。雑貨屋さんに立ち寄ったは良いが、准の好みが少しもわからないし、かといって准の友達に聞こうにも、わたしは准の友達とはあまり仲良くないから聞きようもなかった。少し悩んだ後に、気に入らなかったら捨てるだろうから別に気にしなくても良いかと開き直って、携帯に着けられそうなシンプルなネックストラップを買った。

 わたしが帰宅したときにはすでに、准たちは家に居た。持ち帰ったケーキを冷蔵庫の中に入れて、わたしは母親に言われるがまま、部屋に荷物を置いて手を洗って食卓についた。テーブルの上に乗った食事は、普段よりもずっと豪勢であるように思う。わたしのすがたが見えた時に、「お姉ちゃんおかえり」と副と佐補が言うのであるが、わたしには、准のようにしたのきょうだいがいなければ、上のきょうだいもいないので、なんだかむず痒く思う。

なまえは予備校に行ってるのか?」
「うん」

もう夏が終われば受験に向けて一層、勉強することになるのだろう。「准は、予備校とかいくの?」「俺は、たぶん行かないな」「ふうん」准は、わたしよりもずっと勉強が良くできる人なので、もしかしたら、自分ひとりで勉強しても何とかなる人なのかもしれない。わたしは、生憎、准みたくひとりで黙々と出来る人ではないので、どうしても勉強に身が入らないから、周りの勉強する人が多い環境で、まわりにうまく流された方が、より勉強に取り組もうという気持ちになるのだから予備校に行くのがある種の正解であるように思う。副と佐補は、わたしと准の顔を交互に見ては不思議そうな顔をしてみていた。
准の誕生日ケーキを食べ終わったころには、夜もちょうどよい時間になっていた。副と佐補はもう、今頃の時間であれば眠っているのだろう、目を擦りながら、リビングでうとうとしていたので、わたしが布団を引こうとしたのであるが、「今寝たら帰って寝れなくなるからいいよ」と准が遠慮して言った。しかしながら、母親が「もう三人とも泊まって行きなさい」と言い、准が何かを言う前に、准のお母さんにも連絡してしまったため、准は「すみません」と言って口をつぐんでしまった。わたしは、准に横やりを入れられる前に、すべてを終わらせてしまった母親を見て、母は強いなあ、とぼうっと考えていた。布団の用意が終わるまでに待ちきれなかった双子のきょうだいは、すっかりねむってしまっていたため、副と佐補、副を准が、佐補をわたしが抱えて布団のある部屋へと連れて行った。准ももう、そのまま寝てしまうと言う。

「准、誕生日おめでとう」
「ありがとう」

准に誕生日プレゼントの袋を押し付けるように渡し、おやすみの挨拶をしてわたしも自分の部屋に戻って寝ることにした。准は、わたしとプレゼントの小さな袋を交互に見て呆けた顔をしていた。よくよく考えてみれば、准とそんなに仲良くないのに、ただ申し訳が無いからと言う理由でプレゼントを渡したのは良いが、それはそれで馴れ馴れし過ぎたのかもしれないなと少しだけ後悔した。しかしながら、それも、寝る準備をして自分の布団に入るころにはきれいに忘れてしまっていた。
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