とどのつまり、目の前の男がわたしに向ける目が、何よりも怖かった。あの時わたしに向って縋ろうとした手を振り払って出て行ったときのことを思い出すからだ。わたしはたしかに、死ぬことは無かったし、紆余曲折を経てここに戻ってくることも出来た。しかしながら、あの時にわたしが振り払った手が、あの時に無視したあの時に見た目が、なによりもあの日の選択がもしかしたら誤りだったのではないかと思う日も全くなかったわけではなかった。もしかしたら、今のわたしの行動のせいで、あの場を切り抜けることができただけでその後に、さらにひどい未来があったのかもしれない。それを、出て行こうとしたときに悠一が告げたかったのだろうか。そのようなことを考えてしまえば、確認しようもないことに頭を悩ませているのにも関わらず、わたしは自分自身がまるで罪人にでもなってしまったかのような気持ちになってしまう。
「これからどうするつもり?」
「まだ、何も」
「行く宛ては?」
「……ありません」
「……知り合い、いるでしょ?」
「いないと思います」
「どうして?」
もう、わたしのことを死んだものだとされているようであるし、今ではもうわたしという人がいたことさえ忘れてしまっているだろう。それどころか、今の時点でわたしの知っていただろう人たちが、わたしの知る場所に居るとは思えない。この街は、わたしの居ない間に随分と様変わりしているのだ。それは、人の生活だって、様変わりしているのだろう。「もう、忘れてしまっていると思うから」そう、言ったわたしの声は、思ったよりも随分小さな声として口から零れた。それは、わたしが勝手に飛び出した船に居た彼らに、わたしのことを忘れてほしくないと思っているからなのか、彼らに会いたいと思っているからなのか。そして、勝手に出て行っておきながら、それを望むことは許されるのだろうか。「……いや、」わたしがただ、彼らと顔を合わせるのが怖いのだ。わたしの言葉を、ここにいる人たちのすべてが聞き取れたとは思えなかったが、目の前の彼の耳には十分届いたらしい。浮かび上がろうとする感情という感情を、人当たりのよい笑みの下に隠した彼のむき出しになった感情が、わたしが怖いと思ったあの双眸に浮かんでいる。「なまえさん、いい加減にしてくれる」繕いきれなかった感情なのか、それともわざと隠そうとしなかったのかは、わたしには分かりようもなかった。わたしと彼との間にあった距離は、いつの間にか、人があいだに一人も挟まることができぬほどに詰められていた。「おれたちはずっと、なまえさんが帰ってくるのを待っているのに」後ろに下がろうとすると、利き腕の二の腕を掴まれてわたしが逃げられないようにしてくるあたり、周到である。まさか、目の前の彼がこのように、感情をむき出しにしてわたしに向うとは思っていなかったのか、オサムくんが時折「迅さんちょっと」そう、彼を静止させようとする声が聞こえる。オサムくんは一体、彼を何と呼んだ?たしかに、目の前の彼と、わたしの知る彼の名前と同じ名前だった最後に見た彼は、じゅうぶんに重なる。わたしよりも頭一つ以上大きくなり、体つきも成人男性に限りなく近いものであるが、たしかに、わたしの知る彼に似ていた。わたしは、彼が彼であることについ今しがたまで気づかなかったというのに(今も確証があるわけではないが)、彼はいつからわたしがわたしだということに気づいたのだろう。わたしが、目の前で激高する彼のことをジッと見ていたせいか、彼は一度言葉を切った後に不満そうな顔をした。「……なまえさんおれの話聞いてる?」
「ごめんなさい、……悠一」
「絶対に許さない」
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