小説

すこやかなる懺悔

 白いワンピース、ワンピースに全く似合わない黒いミリタリーブーツ。そして白いカンカン帽から零れる長い髪の毛。それらで構成された人の姿に心当たりは無い。メガネくんたち三人の顔を見た時に見えたのは、その女性に会って、女性と市内──たしか、あれは旧弓手町駅の近くの通りだろうか──を歩いている姿、警戒区域のそばで佇む姿、そして、空の橙、紫色の花。視えた玉狛支部にやってきた新人の中学生三人組の顔色から、何らかのトラブルに巻き込まれている様子でもなさそうである。おおかた、道に迷っていた女性を案内していたのだろう。何もないのであれば、それは良い。「また暗躍?」「そんなところ」「ふうん」支部ですれ違った小南と簡単な会話をして、見送りに出てきた陽太郎に声をかけて外に出る。本日は晴天、寒い冬の中でもまだ、暖かい日だ。トリオン体で構成された肉体ではなく、生身、肉でできた己の背が自然と丸まろうとするが、それに逆らって無理やり背筋を伸ばす要領で、伸びをする。素肌の、陽光の当たるところが少しだけ温まるような気もするが、触れる空気が太陽の光以上に冷たい。口から洩れた白い息を見たせいか、余計に肌寒く感じた。特に行く宛てはないが、人の顔のたくさんある場所であればなお、都合が良い。

 新弓手町駅、警戒区域をぐるりと取り囲むように線路が敷設されたのちにできた駅である。警戒区域そばにあった市営弓手町線の駅の一つである弓手町駅が移転した先である。この駅は、昼夜問わず利用客で賑わっている。それは、本日も変わりなかった。気温が低いせいか、体を縮こませながら歩いている人々は、気持ち足早に歩いているように見える。寒いのに短いスカートで歩いている女性や、薄手に見える洋服で歩く男性を見てはこの寒いのに頑張るねえ、と他人事のように思う。すれ違う人、人、人の顔に映る未来の中に共通するものを探す。相変わらず、市内が第一次侵攻ほどとはいかないとはいえ、壊滅的な被害を受ける様子ばかりは相変わらず色濃く見えた。もう、ここまで見えてしまえばそれらがほぼ確定した未来であるには違いないのだろう。自然と、ため息が漏れる。ほぼ、確定した未来であるのにも関わらず、いつの出来事なのかがわからないのだから、その時が来るまでに打つ手を考えて準備すること以外、自分にできることは無い。

 何かを選ぶということは、選ばなかった方の選択肢を捨てるということである。天秤に載せられるものは、常に誰にとっても捨てても支障がないものが片側に乗っているとは限らない。片側どころか、両方に、自分にとって切り捨てたくないものが載る場合もあった。例えば、人の命。決して良いことではないが、ボーダーに所属している人間の命が載ることもあれば、一般市民が載ることもある。はたまた、それらを合わせた数の大小が左右にのせられる場合もある。それらの中で、どちらかを選ばなければならない場合、自分はもう片方のことをきっと、あっさりと捨ててしまう。例えそれが、自分にとって懇意にしていた人であっても、だ。選ばなかった方の天秤に乗ってしまえば、それを捨てることは容易い。選ぶこと自体は難しくはないのだ、選んだ先の未来が最良のものであるのであれば、そちらを取るだけのことである。しかし、選ぶことに自分自身の心が着いてくるかどうかはまた、別の話だ。心というものは厄介なものだ。己の心には常に、捨てた方の怨嗟の声が渦巻いていた。自分が本当に切り捨てたかったものは、これに違いないのであるが、それらを無視することができるほど出来た人間にはなれなかった。その選択肢が良いものだと理解しているのにも関わらず、選ばれなかった方の人の眼が、人の言葉が、聞こえようも、見えようもないはずのものが常に、自分を責め続ける。生きることを望む人たちの、もう聞こえないはずの言葉が、知らぬはずの人間の声が、目が、それらが、見捨てることを選択肢した己を──

「お兄さん、この間ぶりですね。今日はどうしますか?」
「──ああ、いつものようにお願いします」
「承知しました。暫くお待ちくださいね」

 花が好きというわけではなかった。だから、花のことはよく、わからなかった。小南に聞けばまだわかるのかもしれぬが、小南は己がこうして花を買うこと自体をあまり快く思っていないのだから、聞きようもなかった。己が花を買う相手からも、花が好きだという言葉を一度も聞いたことはない。そもそも、彼女以上に花というものが似合わない人に、今まで出会ったことが無いくらい、あの女に花というものは不釣り合いだった。枯れた切り花を見た小南とレイジさんが渋い顔をしていたあたり、きっと彼らも似たようなことを考えていたのだろう。花屋の店員さんは何時ものとおりに楽しそうに花を選んでは、小さな花束を作る。「いつもの、大切な人に差し上げるものですよね?」「ええ、そうです」嘘とも、本当ともつかない嘘をつくときは、胸が痛む。確かに、なまえさんのことは仲間として大切な一人であったが、今の己にそれを言うことはきっと、許されはしない。「この間のお花、どうでしたか」「喜んでくれましたよ」あの女は、もう物を言う口を持ち合わせては居らぬ。じくじくと、心臓を針で刺すような痛み。「それは良かった」そんなに綺麗な笑顔を見せられてしまえば、もう。「今回も喜んでもらえるとうれしいです。また、聞かせてくださいね」「はい」まるで、両手を拘束され、大衆が見守る中ギロチン台に連れていかれる罪人になった気分だった。手渡されたブーケは、紫色の花が中心に作られているらしい。前に頼んだ花とはまた違う、花の群れだ。店員さんが花の名前を述べているが、その名前は己の耳の中に入った瞬間に逆方向の耳から抜けてしまったせいか、少しも覚えられなかった。

 不純な動機で行うこの行為のことを、懺悔と言わずなんといえばよいのか分からない。この場所は、静かだ。心に巣食う怨嗟の声が大きくなればなるほど、この場所はひどく居心地が良かった。人の顔はどこにもなく、ただあるのは、誰かがただそこに居たことを示すための墓標ばかりが並んでいる。当然、己が選ばなかったもう片方の天秤に乗った者たちが居たという証も、そこにはあった。彼女の場合も、彼女が己の前に居たという事実だけがそこに在る、それだけの場所だ。
 数日前に挿した生花は未だ、元気に花開いていた。今日作ったブーケの花から、一番大きな紫色の花を抜いて、挿した。その時になまえさんの顔や声は、少しも思い浮かばなかった。残った花束は、墓石の上に置いた。あの店員さんが、己が花を渡そうとしている、顔の知らぬだろう相手の喜ぶ顔を思い浮かべて作られた花束なのだから当然のことなのかも知れぬが、墓という場所にこの花束は、明るすぎた。
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