小説

顔のない住人

 玉狛支部は新入隊員を迎え随分賑やかになった。夢中で訓練をすること数時間、気づいてみれば日はとうに落ちて、空はとうに真っ暗になっていた。遊真くんらの入隊日までの期間は、決して長くはない。訓練に熱が入りその日の帰りが遅くなってしまう日がいずれ来るかもしれないとは思っていたが、ついにその日が来てしまった。「今日は泊まっていきなよ」中学生が一人で外に出るには遅すぎる時間に、自宅から迎えをここまで寄越してもらう訳にも行かず、今日のところは彼らには支部に泊まってもらう方が良いだろう。そう、中学生三人組に声を掛けると、彼らは顔を見合わせたのちに、「そうします」と言った。今日はこなみも泊まると言うのだから随分と賑やかになりそうだ。
 
 玉狛支部内は、本部とまではいかないが十分広いボーダーの基地である。隊員たちが寝泊りするだけのスペースは当然、あった。中学生三人を連れて、好きな空き部屋を使うように言った。言った後に、この場所には人にはあまり使わせたくない部屋があったのだということを思い出して、己が声をかけるよりも先に、あまり人に使わせたくない部屋とされている部屋──共有スペースに一番近い位置にある、一番手前の部屋である──のドアノブに遊真くんが手をかけていた。この部屋は、こなみが「たまに使うからそのままにしておいて」と言ったきり、誰も触らない部屋となっていた。
 しかし、遊真くんがドアを開けることはなかった。ドアのほうが勝手に開いたのだ。「うお」部屋から出てきたのは、掃除道具を持った迅さんだった。「泊まり?」部屋にはベッドと机、それから、真新しい制服が壁に掛かっているのが見える。「もう夜も遅いから今日は泊まっていただこうかと」「そっかそっか」こなみと同じ学校の、真新しいセーラー服と赤いカーディガンだった。クリーニングに出されてから一度もあけられていないのか、ビニル袋をかぶったまま、それはずっとそこにあるように見える。「こなみ先輩の部屋?」そう問う遊真くんに迅さんは「違うよ」と即答した。「ああでも、今は小南の部屋かもなあ」そう、迅さんはどっちつかずのような物言いをした。「ふうん」遊真くんがきょろきょろと周りを見ている。「おい、空閑」修くんが彼を咎めるように呼んだ。
 必要最低限のもので構成された、シンプルな部屋だった。ベッドと机、そして本棚。本棚に片づけられた本の群れはあれど、本棚に収まりきらなかった本が机の上に積み上げられている。本棚の一番手前に立てられた本は、教科書だった。自分にとって馴染みのあるものとはずいぶんと違う、中学三年生向けの数学の教科書であった。机の上に積み上げられているのはタイトルから高校の教科書なのだろうが、それらも、自分にとってあまりなじみのあるものではなかった。

「ちょっと、あんたたち勝手に何してんのよ」

 部屋の前で群がる人の塊を見たこなみが、仁王立ちでこちらを見ていた。大股で歩み寄って、「ダメよ、この部屋はダメ」と言った。「ほら、早く出て」そう、迅さんをはじめとする部屋のそばにいた面々をドアの外に追いやって部屋のドアを閉めた。迅さんは明後日の方向を向いて我関せずという顔をしているが、こなみはそれを許しはしなかった。「ちょっと、迅」「イタタ、掃除してただけだって」そう彼をまくしたてるように言って、迅さんを引っ張って連れて行ってしまった。己らは二人のその様子を、ただ後ろで見送ることしかできなかった。閉ざされた目の前のドアを、再び開ける勇気のある者はいない。

「で、部屋なんだけどね」

好きな部屋を一室ずつ割り振りした後、彼らがあの部屋について問うことがなかったのは良かった。聞かれても、答えることができないからだ。己は、あの部屋に居る住人のことを記録上での出来事でしか知らない。あの部屋に居る人のことを知る人たちは皆、あの部屋の人のことを自ら話そうとしなかった。聞けば、教えてくれることもあるのだろうが、自分からそこに足を踏み入れようとは思わなかった。あの部屋の、見知らぬ住人のことの中で、ただ知っているのは、その人のことを知る人たちが未だ、その人の帰りを待って居るということだけであった。
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