小説

ひねもす

1.
 年度の変わり目というのは、どうも気持ちが晴れやかになるものである。真新しい制服を下ろした人の姿を見かけるからなのか、自分の学年が変わって気分を入れ替えるからなのか、それとも、冬の間に花と葉を落としていた木々が一斉に芽吹くからなのか。どうもこの時期というのは毎年気分が高揚するように思う。学年が変わった瞬間に行われるクラス替えも、気づいてみればもう三回目、これが最後のクラス替えだった。一年ほど通い続けた教室のあった旧校舎の二階から、ほんの四年ほど前に建設されたらしい、新校舎の三階に教室が変更になる。わたしがこの学校に入学する何十年も前からずっとあったであろう、旧校舎に設置された、ところどころペンキの剥がれた傷だらけの木製の下駄箱とはもうお別れで、今年からは新校舎の真新しい下駄箱のお世話になる。下駄箱は未だ、ペンキの剥がれる様子もなければ、そこから見える廊下も、傷汚れの少ない明るい色のゴム床が張られている。
 わたしが、三年生の教室のある新校舎の三階の掲示スペースへと着いたころには、すでにそこは人でごった返していた。人の群れの中に、見知った人の顔が多くあった。一年のころのクラスメイトだっただろう人、そして、二年生のころに同じクラスだっただろう人。他にも、近くの小学校が同じだった人、廊下でたまに見る顔の人。誰も彼も皆知り合いという訳ではないが、見知った顔が多いのはどこか不思議な安心感があった。壁に張り出された張り出された名簿一覧の中に、わたしの名前がどこにあるかを探していれば、一年の時に仲良くなった友人が、わたしの名前を呼んだ。「なまえ見た?今年は同じクラスだよ」「今来たところだけど、そうなんだ。一年ぶり?」「そうそう。友達いないかと思ってたからなまえがいて良かったよ」ほら、あそこだよと彼女が指をさした先に、確かにわたしの名前があった。「ここから教室って近いかな」「一階下の二階の手前だって」「下駄箱から近いのはいいね」「ただ、移動教室は三階とか四階が多いからさあ、ちょっとシンドイかもね」「たしかに」もう、新しいクラスを確認したわたしたちはこの場所には用はない。新しいクラスに一喜一憂するひとたちの姿を見ながら、あとからやってきた人の群れに押されてしまう前にと、わたしたちは人と人の間をすり抜けるようにして、人の群れから外れた。ごった返している人の群れからようやく出られて安心したときに、下を向いたまま歩いていたせいで、誰かに思い切りぶつかってしまった。「すみません」誰かを見る前に、わたしの口からは反射的に謝罪の言葉が飛び出した。「なまえじゃないか」よく知った声に、思わず顔を上げた。矢張り、声の主はよく知った顔の人であった。「准」「久しぶり」「うん、……」「クラス、どこだったんだ」そう言う准に、わたしは自分のクラスを言った。「俺はどこなんだろうな、クラス一緒だったらよろしくな」「……うん。ごめん、友達待ってるから、また」「悪い。じゃあ」准はそう言って、人ごみの中に消えていった。わたしは、待たせてしまった友人に謝って、彼女と一緒に階下の自分の教室へと向かう。真新しいゴム床を歩いたときに鳴る足音が、少しばかり煩わしい。

「嵐山くんと知り合いだったの?」
「うん。まあ、そう。でも、よく話すわけじゃないよ」
「そうだろうね、だって見たこと無いもん。嵐山くんはうちのクラスじゃなかったよ」
「そうなんだ」
「クラスメイトの所に名前なかったから」
「へえ」
なまえは見なかったの?」
「うん。自分のクラス教えてもらったから良いかなって」
「じゃあ、誰が来るかお楽しみだ」
「そうだね」

わたしたちが教室に付いたころにはまだ、教室内に居る人は少なかった。新しいクラスメイトの顔は、見知った人の姿がたしかに多いが、それでも仲が良い人であるというわけではない。自分の席は廊下側の、前から三列目と後ろ過ぎず、前過ぎずという中途半端な場所だった。学校から家が近い順序で配置されているため、比較的学校から家が近いわたしの席順はだいたい、このあたりだった。わたしの隣の席は未だ誰も座っておらず、誰が座るかもわからない。一年生の時に知り合った彼女は、わたしの前の席に座った。たしか、一年生の時も、彼女とは前後席で、それが発端となってよく話すようになったということをふと、思い出した。

「どうしたの、ぼーっとして」
「いや、懐かしいなって」
「おばさんみたいなこと言わないでよ」
「だって、一年生の時も前後席だったからさあ」

そう言えばそうだったねえ、と彼女は言い、家の位置は学校からの距離は同じくらいだけど正反対の方向なのにね、と笑う。そうだね、と言い、わたしはふと廊下の方を見た。わたしのクラスに入ってくる人、わたしのクラスの隣、奥のほうに在る教室に入っていく人たちが、ばらばらと廊下を歩いているのが見える。ぼうっと廊下を眺めていると、先ほどあったばかりの、よく見知った背格好が廊下を歩いていくのが見えた。廊下がわの席に座るわたしには気づかないまま、友達と楽しそうにおしゃべりをしながら、歩いていた。准はわたしと同じクラスではないというのだから、きっと隣のクラスなのだろう。准と、准と一緒に歩いていただろう彼の友人とは、わたしのクラスの入り口のドアの前で少しばかり立ち話をしているようであった。わたしからは、准のやわらかそうに見える黒髪と、彼のうしろすがたが見える。准が友人と楽しそうにしゃべっているのを見て、わたしではない誰かと話しているときの准は、あんな風に話すんだなあ、とぼんやり考えた。



2.
 春の連休が始まるころにはすでに、新しいクラスでの友達グループは固まりつつあった。わたしは相変わらず、一年の時に知り合った彼女とよく一緒に居た。わたしと彼女は、クラスの中でも快活な人たちが集まる派手なグループとは正反対の、地味なほうで、クラスの中心にいるというよりは、教室の隅にひっそりと固まっているようだった。クラスの中心の、快活なグループの中に、わたしが二年生の時の同級生の中でも、喧しいくらいに派手だった人たちもそのグループの方でつるんでいるのを見ると、どうも類というものは一か所に固まってしまうんじゃないかと思う。
 連休に入る前日の登校日は、あまり授業に身が入らない。これから始まる連休のことを思えば、途端に学校で勉強している場合じゃないだろうと思うのも仕方のないことかもしれない。三年生になって、いよいよ高校受験を控える年だからと、クラス担任や教科担当の教師らが、やたらと口うるさく生活の話をしてくるようになった。黒板の上を白いチョークが走るのを見ながら、教師の言葉に耳を傾けているふりをしながら、ぼんやりと考える。受験、受験かあ……自分は一体何をしたいのか、未だによくわからない。もう少し小さなころであれば、好きだった幼稚園や保育園の先生に憧れて、そういう仕事をやりたいと思ったかもしれないが、それから十年以上も経てば、価値観も変わるものである。今は特に、何をしたいとか、そういうものがすぐに出てこない。やりたいことが今少しも浮かばないから、それならば学校に行って勉強して選択肢を広げる方が良いのかもしれないとも思う。そんなことを考えている間に、最後の予鈴が鳴った。やっと授業が終わったと思い切り伸びをした彼女は、うれしそうな顔をして、彼女の後ろの席に座るわたしの方を向いた。「なまえはどこか行くの?」「ううん。家でゆっくりする」「そうなんだ」「どこか行く予定あるの?」「うちはどこにも」「じゃあ一緒じゃん」「うん」今年の連休は、連続して休日が続いているという訳でもなく、中日に登校日が挟まっていたため、旅行に行くにしても微妙だからと今年は予定を入れなかった。「今年の休日さあ、ちょっと休んでちょっと学校行って……って感じだから微妙じゃん。間も休みだったらさあ、都会の方に遊びに行きたかったのにな」彼女もまた、同じような理由で予定が無くなったクチなのかもしれない。そう言った彼女の口ぶりはどこか残念そうなものに聞こえる。

「二日も休みだったらいいのにね」
「ね。ちょっとくらい、空気読んでくれたっていいのに」
「ね」

彼女とは家の方向が真逆だから、下駄箱の所で別れるのが常である。彼女と連休前の最後の挨拶を交わし、家へと帰ろうとしたころに、わたしの名前が呼ばれたような気がした。声の聞こえた方向らしい方向を向いても、人の姿が見えない。気のせいだろうと、そのまま帰ろうとしたら「みょうじさん、上だよ、上」ともう一度呼ばれたので、その声に従って上の方を向いた。ちょうど、三階のわたしの教室のあたりに手を振る人の影が見える。よく見れば、クラスメイトのナントカくん、よく准と話してるのを見る人であることは確かではあったが、あまり関わり合いになる人ではなかったせいで名前を覚えていない。「ごめん、ちょっと待ってくれる」その声に、わたしは頷いた。

「ごめん、これ、持っていって欲しくて」
「准に?」
「そう、嵐山に。忘れて帰ったみたいでさ。嵐山に聞いたら、みょうじさんがいたら渡してくれって言われて」

 ナントカくんがわたしに渡してきたのは、休暇前に配布された宿題の入ったファイルだった。これを忘れて帰ったのは結構な痛手だろうと思う。別に、わたしの家から学校までの距離はそう、遠くは無いのだから、准も来ようと思えば学校に取りに来れ無くもないわけだが、わたしが未だ学校に残っていたのであれば、わたしが持って行ったほうが都合が良いだろうと思う。

「分かった。ごめん、准に三十分後くらいに行くって連絡してもらってもいい?わたし、准の連絡先知らないから」
「いいよ、こっちが頼んだんだし。……家に居るだろうけど、もし居なかったら母さんに渡してくれって伝言」
「ありがとう」
みょうじさん、嵐山と実は仲悪かったりする?」
「……そういう訳ではないけど」

 別に、わたしは准のことが嫌いという訳ではない。彼とわたしとの性質の違いから、あまり積極的に関わり合いになっていないだけで、それに他意は無いのだ。その弁解を、わたしがたいして仲が良いという訳でもない准の友達にするのもおかしな話である。「それなら良かった。頼んだの、悪かったかと思って」「別に、仲が悪いわけじゃないよ。ただ、あまりしゃべらないだけだから」それなのに、わたしは彼に言い訳がましくそう喋ってしまった。彼は、キョトンとした顔をしていたので、ああしゃべりすぎてしまったとわたしはひとり勝手に後悔した。そうしている間に、彼は「引き留めてごめんね」と言った。「ううん、大丈夫だよ。じゃあ、これは預かります」「よろしくお願いします」「それじゃ、休み明けに」「はい」そう、短い会話をして、わたしは彼と別れた。これから准の家に預かり物を届けに行かなければならないというのに、わたしの気分はひどく憂鬱であった。





3.
 「ちょっと隣、いってくるから」わたしが帰宅したのと入れ違いになるように、母が出かけようとしていた。「ちょうどよかった」と母はそう言って、今しがた鍵を締めるために鍵穴に差し込んでいた鍵を、回さずにそのまま引っこ抜いてわたしに預けた。母の言う隣というのは、わたしの家の真向いにある家のこと、つまり、准の家のことである。「准の家に行くんだったらこれ、渡して」わたしは、先ほど准の友達に渡された、准が忘れて行ったファイルを母親に預けた。准に、准の友人経由で准の家に行くと言ったのに、今は直接准に会いたくなかった。別に、准は何も悪いことをしていない。わたしが勝手に准の友達の前でおしゃべりをしすぎてしまったことを一人で気にしているだけの話だ。准とわたしのことを、准の友達に、准のいないところでひとりでしゃべりすぎてしまったことからくる罪悪感が、じわじわとわたしの心臓を締め付けることに耐えられなかっただけのことである。「何これ」「准が宿題学校に忘れたの、届けてって言われたから」「なまえが渡した方が良いんじゃない?」「いや、いいよ。お母さんが行くならついでに渡してよ」母は、分かったとだけ言って、ファイルを持って向かいの家へと出かけて行った。

 嵐山准という隣人は、生まれてから今まで生きてきた中で、物理的距離が一番近い他人と言える。嵐山の表札のかかる家は、わたしの自宅の向かい側に、わたしが物心ついたころにはすでに存在していたし、わたしにとっての准の家がそうであるように、准にとってはわたしの家がそうなのだと思う。わたしの母と、准のお母さんは、年が同じ子どもの居る母親同士ということで、それなりに付き合いがあるようで、こうして、わたしの母が准の家に行くこともあれば、准のお母さんがうちに来ることもある。しかし、母親同士の仲が良いからといって、それが子も等しいかと言えばそうとは限らない。

 三門市は、古くからこの町に住む人が多いせいか、いとこや遠い親戚などの血縁者が同じ市内に住んでいることが多い。それだけでなく、近隣付き合いがそれなりに活発であるせいか、隣近所の子どもらは仲が良いことが多いが、わたしと准の関係性というものは、似たような関係性の人たちの間柄と比べても、ずっと希薄なものであるに違いない。もしかしたら、わたしよりも、准の家に行く回数の多いわたしの母親の方が、准と会話した数が多いかもしれないとさえ思う。
 わたしと准は性別が違うということもあったが、アクティブに外に出て活動することの多かった准と、根っからのインドア、引きこもり気質のわたしでは、遊ぶ友達も違った。地味な面子でかたまりがちなわたしと、朗らかな面子が集まる准は対照的であったし、友達の層が被ることも無かった。それゆえに、わたしと准との関わり合いというのは、どちらかから積極的に関わろうと思わない限り生まれることは無い。わたしは、准のことを小さなころからずっと、認識していながらも准と積極的に関わりを持とうとしなかった。別に、わたしが准のことを嫌っているというわけでは決して無い。
 たまに、准のお母さんが遅くなる時にわたしの家でご飯を食べる嵐山の家のきょうだいたちの姿を見ることはあったが、それでも、わたしは積極的に准と話そうとはしなかった。准が、わたしに話しかけてくれることは多かったが、それでもひどくぎこちない返答しか出来ていなかったように思う。わたしは、准と一緒に話をするにしても、何を話してよいのか、その正解がわたしには全く思い当たらなかった。学校であったことを話したところで、わたしにとっての楽しかったことが、准にとって楽しいかはわからない。付き合う友達が真逆の准が、わたしの話すことを楽しいと思うとは思えなかった。ああでもない、こうでもないと、准と話すときの話題を選んでいくにつれて、准と話すための話題と言うものの候補がわたしの中から消えて行ってしまう。
 結局、何を話してよいのかがわからなくなって、だんまりしてしまうのを、気を使った准がわたしに、あたりさわりもない話題で話しを振り、それに対してわたしが、相槌を打つか、一言、二言程度の返事をするのが常になっていた。准は、わたしに気を使ってそこまでやっていて、ハイとイイエで構成された問答を行っている訳では決してないのに、准との会話はどうも、その問答の形式で落ち着いてしまう。准が振ってきた話題についても、わたしは気の利いた返事が出来るわけもなく、准との会話を一方的にブチブチと切ってしまうのだ。その時の沈黙の時間は決して長いわけではないが、わたしにとっては十五秒でも、三十秒でも、体感はその倍の時間であるように思うほど、准との間に流れる沈黙はとても気まずいものだったし、ぎこちない空気が漂っているように思う。准と会話をするたびに、会話が続かないことへの焦燥感と、それでも会話を一生懸命続けようとしてくれる准の顔を見ているのがつらくなってしまい、わたしはいつも居たたまれない気持ちになってしまうのだ。




4.
 春の短い休みが終わったあと、久しぶりに学校で姿を見た友人はぐったりとしていた。「なんか疲れてる?」「五月病だよ五月病」連休の中日の登校日に会ったときには元気そうだったのに。そういえば、彼女は一年生の時の夏の長期休みの最終日から数えて三日前からすべての課題をやり始め、無理やり提出日に間に合わせるという荒業をやってのけていたことを思い出す。残りの休みが終わったらこうなっているのだから、彼女はこの残りの間に宿題を慌ててやった可能性が少なからずあった。「溜めた?」「ううん……この休みから予備校行くことになって。ほら、受験あるから」今年の休みの宿題は早くのうちに終わったらしいが、どうも予備校の講習が上手く詰まっていて、勉強漬けになっていたのだという。「ほら、私、テストの点数が良くないからさあ。さすがにお母さんが行きなさいって、知らない間に放り込まれてたの」「大変だね」「全然大変だと思っていないような顔して言わないでよ」「ごめん」予備校ってみんな勉強ばっかりするからさ、わたしも周りより勉強できないんだからやらなきゃって思ったら、結局この休みずっと勉強漬けだったんだよね。そう言われて、そう言えば休みが明けた後にすぐに中間試験がやってくるなとぼんやり考えた。休みに入る前に、高校入試が近いこと、将来について少しずつ考えなければならないことを、先生が言っていたことを思い出す。わたしは相変わらず、何をしたいとか、そういうものがまったく思い浮かばなかった。家が許してくれるのであれば、大学で少し勉強をしたいから、大学に行くための勉強ができる高校に行きたいとか、わたしの考えていることなぞ、その程度のことである。「じゃあ、次のテスト勉強はばっちりなわけだ」「買い被りすぎだよ、でも、なまえには負けないかもね」「わたしも勉強、頑張ろうかな」「やって悪いことは無いしね、どうせ、勉強しないといけないわけだしさ」そう、彼女は言って次の授業で使う数学の教科書を机の上に広げた。未だ、授業で勉強していないはずのページの上に、明るい色の付箋でメモ書きが沢山張られている。たびたび、赤い文字で参考書のページ数や補足説明が書かれているのが見えた。よくよく彼女の広げている教科書を見れば、一か月少し前に貰ったはずの彼女の教科書は、すでに年単位以上苦楽を共にした相棒のように紙がくたびれていた。

:

「うわ、みんな帰ったの」

 日直の夕方、一緒に日直の仕事をするはずだった人は、ショート・ホームルームが終わって脱兎のごとく、教室から飛び出して行ってしまった。わたしが引き留める前に早々に消えてしまった相手のことを思えば少しばかり腹も立つが、何より引き留めきれなかったどんくさいわたしが悪いのだと思うことでやり場のない感情を消化した。結局、仕事をする人がいなければ、叱られるのは、結局、わたしもサボった彼も同じなのだ。
 クラスメイトがひとり、またひとりと姿を消していく中で、彼は誰に起こされるでもなく、ほったらかしにされていた。教室の窓際、ちょうど、わたしの席の正反対の列の後方の席に突っ伏して、居眠りから本格的な昼寝へと移行した彼──あの日、わたしに准の忘れ物を預けた准の友達である──は、目を覚まして早々にそう、言った。わたしが教室の黒板を消して、日誌を書き終わるまでに起きてくれれば良いと思ったが、彼はわたしが日誌を書き終わっても起きる気配がない。窓の外はまだ、随分と明るい。遠く、西の方の空に橙色が混じり、夕方と夜とが混ざった、紫色に限りなく近いような不思議な色をした空が広がっている。少し前までは五時過ぎれば暗くなっていたのに、随分と昼の時間が長くなった。起きるまで待つべきか、起こすべきか悩んだ結果起こさない方を選び続けて一時間、もう六時を回ろうとしていた。腹をくくって起こそうと、彼の席に近づこうとしたときに、迅くんが急に起き上がった。「せめて帰る時に起こしてくれたっていいと思わない?ひどいよね」「……そうだね」彼の白いひたいに、うっすらと制服の袖の皺が跡になって残っている。

「けっこう待ったでしょ」
「うん」
「正直」
「……ごめん」
「怒ったとかじゃないよ。待たせてごめんね。うわ、嵐山から連絡来てる」

嵐山ってほら、心配性だからさあ、と彼は言った。迅くんは端末の画面を見ながら、文字を打っているようであったが、結局、文字を打つことを途中であきらめて電話に切り替えたらしい。「お、嵐山。ごめんごめん」教室の後方のドアを、あまり大きな音を立てないようにゆっくり閉めていると、迅くんがわたしの名前を呼んだから勢いよくそちらの方を振り向いてしまった。「みょうじさん?ああ、いるよ。おれが起きるの待っててくれたみたい」迅くんの、明るい色をした双眸が、わたしの方を向いた。「ん?いいよ。みょうじさん、帰ろう」迅くんは、准と電話を繋いだまま、わたしにも話しかけてきた。恐ろしく器用な人だと思う。「いや、いいよ……ひとりで帰れる」「おれのことが嫌じゃなかったらでいいから」「……わかった」「ありがとう、って訳でみょうじさん連れて帰るね」わたしに有無を言わさせないように上手く話を持っていこうとしたのは、きっと准の入れ知恵なのだろうと思うと、自然とため息が出そうになるのを無理やり飲み込んだ。

みょうじさん、この間はありがとう」
「えっと」
「迅だよ」
「……ごめん、迅くん」

 准の友達と、准がいないのに一緒に帰るのはなんだか不思議な気分だった。休み前に、一人で勝手に気まずくなっていたのに、迅くんはわたしがしゃべりすぎたことなぞ少しも気にしていないような顔をして、話す。日ごろから、クラスの人と楽しそうに話しているところも、廊下で准としゃべったり、ふざけたりしているのを見るような気がする。わたしと、彼とはきっと正反対で、あまり関わり合いになることのないだろう人だと思っていたのだから、こうして下校を一緒にしていても、気難しい先輩や、先生らと一緒に家に向っているようでどうも落ち着かなかった。

「嵐山がさ、助かったってみょうじさんに伝えてくれって」
「准の忘れ物に気づいたのは迅くんなんだから、迅くんにそれを言った方がいいのに」
「嵐山はおれにもみょうじさんにもお礼を言ってたからさ、それ、みょうじさん宛てだよ」
「家に持って行ったのはお母さんだよ」
「それでも、学校から家まで持って帰ったのはみょうじさんだから素直に受け取ってよ」
「……」

 みょうじさんって、案外頑固だよねと迅くんは笑って言った。それにどう答えれば良いのかわからずに、黙ってしまうと、迅くんは「別に、馬鹿にしているとか、悪い意味で言ってるわけじゃないよ」と気を使って言ってくれた。
 
「迅くんと准って似てるね」
「そう?」
「わたしに、そうやって気を使って話すところが」
「そう?おれはあんまり自覚ないよ。おれからしたら、嵐山とみょうじさんの方が似てると思うけど」
「……そう思えない」
「結構意思が強いとことか」
「全然似てないよ。わたしは地味だし暗いし」
「うーん、そういうタイプとは別でさ」
「わかんない」

 「准はわたしに似てるって言われたら嫌がりそうだから、准に言うのはやめておいてよ」そう、迅くんに言ったら、迅くんは目を丸くしたあとに吹き出して笑った。そんなに面白いことを言った自覚がなかったので、思い切り顔をしかめてしまい、迅くんに「ごめん」と謝られてしまった。別に彼に謝ってほしいわけでもなかったので何となく、居心地が悪いように思う。比較的学校から近い場所にある我が家の、慣れた通学路を歩く。二十分も歩かないうちに、見慣れた家の屋根の色、それから、自宅の表札のある玄関前にたどり着こうとしている。こうして歩いている間に、街の姿は少しずつ夜に近づいていて、家のやわらかな色をした明かりが外に漏れていた。わたしの家も、准の家も例に漏れず、すでにリビングは明るくなっていた。

「わたし、家ここだから」
「……みょうじさん、本当に嵐山の家の向かいに住んでたんだ」
「うん」
「おれさあ、よく嵐山のところに遊びに行くけど、みょうじさんと会ったことないね」
「わたし、部屋からあまり出ないから……今日は送ってくれてありがとう」
「おれも、待たせてごめん。じゃあ、また」

迅くんはそう言って、向かいの准の家の前、准の部屋の方を見て、端末を操作していた。わたしが家に戻るのと同じタイミングで、准の部屋の窓が開いたようで、准の声が聞こえた。その、准の声にこたえる迅くんの声も良く聞こえる。准は、今から下に行くと言って部屋の奥の方へと入って行ってしまった。ほんの数分もしないうちに准はきっと出てくるのだろう。わたしは、准が来るのを待たずに、迅くんにかるく頭を下げて、明るい家へと帰った。




5.
 試験の結果は、散々というほどひどいものではなかったのであるが、席次だけ見れば結構下がっていたので少しばかりショックを受けてしまった。これまで、あまり勉強しようとしていなかった人たちが、少しずつ受験のことを考えて勉強するようになったのだろうか。春の連休から予備校に通い始めた彼女は、今まで見たことのない点数と、席次とが並んでいる成績表を眺めては嬉しそうにしていた。彼女は、わたしの知らないところで一生懸命勉強して、今の成績をおさめたことを考えると、わたしもそろそろ、まじめに勉強をした方が良いのかもしれないと思う。他人に流されてしまいがちになるのは、あまり良い癖であるとは言えないが、勉強に関して言えば、彼女も言っていたようにこれから嫌でもやらなければならないのだから、早いうちにやっていても悪いことは少しもないだろう。
 中間試験が終われば、次に来るのは期末試験と、夏期休暇である。このクラスになって二か月が過ぎ、三か月目に突入するころには、あまり関わり合いにならない人の名前と顔が一致するようになってくる。同じ学校に居るはずなのに一度も会話したことが無かったような人とも、授業や学校行事で一言、二言くらい話すことも増えた。相変わらず、わたしはクラスの中でも地味な人たちで固まって、クラスのなかでも派手な人たちとは一歩、二歩程度距離を開けたような、そんな当たり障りのない人間関係の上で生きている。今月は一年の中でも祝日が一番少ない月だから、前月の休暇と翌月の三連休のことに思いを馳せることが少なからずあった。「三連休、月に一回くらいは欲しいね」という会話をしていたこともあったが、彼女は連休になれば予備校に詰めることになるので、連休があろうがなかろうが、今はもうあまり平日と変わらない日を過ごしているのだという。そう言われてみれば、わたしはそういう人たちと受験の日に同じ試験を前にして戦わなければならないのだと思うと、自然と心の底に焦りが生まれてくるのは当然のことなのかもしれない。「わたしも、勉強した方が良いのかな」なんとも主体性のない言葉が口から零れてくるのを、彼女は笑って聞いていた。彼女は、こういう自分で選択をしなければならぬことに関して話しかけた時は、彼女なりの答えを述べることは無かった。結局のところ、そういう選択をするもしないも、わたしが自分で決めるべきであるというのが彼女の答えであった。

なまえ、悪い。迅を起こしてくれないか」昼休みが終わるころ、自分の教室のドアの前で准に話しかけられた。准の指さす方を見れば、クラスの窓際、一番後ろの席で机に突っ伏して眠っている迅くんのすがたが見える。今日は天気もよく、窓から入ってくる太陽のひかりは優しい。突っ伏して寝ている迅くんの背も、気持ち暖かそうに見えるし、今日のような日にする昼寝は心地よさそうに見えた。

「起こすの?」

気持ちよさそうに寝ている人間を起こすのは、あまり好きではなかった。どこまでも自分本位な理由であるが、起こした時に嫌そうな顔をして見られるのが、ひどく自分が嫌われてしまったような気がして嫌だったからだ。自分で起こしてよ、と言いたかったのだが、それを言うよりも先に准が口を開いた。「さすがに人のクラスに入るのはな……」別に、そんなことを誰も気にしないと思うが、准が申し訳なさそうな顔をしてわたしの顔を見てくるので、こちらが申し訳ない気持ちになってしまう。准はどうも、わたしとあまり関わり合いになることは多くないのに、自分のやりたいことをうまく通すためのものの頼み方というか、人の使い方というものがうまいように思う。回数こそ多いわけではないが、そういう頼まれ方をしたときに、どうも自分の意思でうまく断れずに流されてしまうというのが、わたしの質であった。「……分かった」「迅は怒らないから大丈夫、頼むよ」准は確かにそう言っていたし、迅くんを起こした時も、迅くんは准の言った通り怒るでもなく、顔を上げて、うつらうつらしている状態でわたしの顔を見ているだけで、わたしが危惧したいきなり不機嫌になって睨み付けられるということは無かった。

みょうじさん、どうしたの」
「准が呼んでる」
「嵐山?」
「外で待ってる」
「……ああ、ごめん。ありがとう」

 迅くんは准に呼ばれるような要件が身に覚えがあったのだろう。机の引き出しを豪快に漁って、先ほどの授業で使っていたはずの科目の教科書を引っ張り出して教室から出て行ってしまった。「悪い、嵐山」と教室の外で迅くんが話している声が聞こえる。わたしが、不在になった迅くんの席から、廊下側の自席に戻ったときに、迅くんとおしゃべりをしていた准が会話を切って、わたしの名前を呼んだ。「ああ、なまえ」「なに」准は大きな声でわたしに向って「ありがとう」と言った。准のその大きな声のせいで、今までそれぞれにおしゃべりをしていたクラスメイトがおしゃべりをやめて、一斉にわたしの方に向いたことに驚いてしまった。そんなに大きな声を出さなくても聞こえるからもう少し小さな声で言ってよと、そう思うのであるが准は何時もこの調子なのだから、言ったところで「ごめん」とわたしに謝ることはするだろうが、きっと彼の声の音量はあまり変わらないのだと思う。どうも気後れしてしまったわたしは、喉から声をうまく出すことができず、准の顔もまともに見ることすらできないまま、首を縦に振るだけになってしまった。顔を上げたときには、准はすでに迅くんとのおしゃべりの方に戻って行ってしまっていたので、もしかしたらわたしが、彼のお礼の言葉を受け取ったことにすら気づいていないのかもしれない。それならば、准が気づくようにきちんと声を出して返事をするべきだった。わたしは、いつもこうだ。准に気を使ってもらっているのに、准に対して嫌な態度を取ってしまう。いつも、それを思うたびに、わたしの心臓のあたりがひどく痛むように思う。心臓をギュッと潰されたように苦しく、どうにもならない痛みが、じくじくと棘のように刺さってうまく抜けてくれないのだ。




2019-11-23