小説

五体満足鮪拾#6

 朝の一限の授業が始まる直前に登校してきた忍田は、なまえさんと己がいる場所には寄ってこなかった。なまえさんと己が視界に入る後方の席に、顔も名前も知らぬ同級生と座っていた。時折、己を刺すような視線を感じたが、なまえさんと言えば、忍田から熱い視線を向けられているというのに、なまえさんといえば涼しい顔をしていた。ただの一度だって、この教室をぐるりと見渡して忍田の顔を探すようなそぶりを見せることも無かった。「慶、先生きたよ。教科書とノートは」「持ってきてねえよ」「本当に暇つぶしに来ただけ?」首肯すると、なまえさんはほんの少しだけ困ったような顔をして、笑って「慶」と己の名前を呼んだ。己を諭すときのやわらかい声をしていた。すこし困ったように笑うなまえさんは、たしかに己のよく知る彼女だった。
 授業の声を背景音楽のように聴きながら、なまえさんが走らせるシャープペンシルの先が描く軌跡をただ、眺める。シャープペンシルのペン先の動きは止まることなく、罫線の引かれたノートの上を自由に走っていた。なまえさんの字のペースと同じか、それ以上の速さで教卓のホワイトボードに書かれる文字は、走るように書かれては消されてゆく。シャープペンシルが少し止まる。誤字に気づいたなまえさんは、消しゴムで文字を消すことはせずに、黒丸でぐしゃぐしゃに誤字を塗りつぶしていた。時折、黒丸で塗りつぶすのではなく、二重線を引いて無かったことにしているのもあった。文字が消される速さに合わせて字を書くのであれば、きっと綺麗な字を書いている余裕が無いのかもしれないが、そこを大目に見たとしてもなまえさんの字はお世辞にも綺麗とは思えなかった。ミミズが這ったような字が、罫線を完全に無視して走っているのをまじまじと見てしまう。罫線からはみ出す程度ならまだ可愛いもので、罫線と交差する形で書かれている文字の方が多い。なまえさんが普段、二度旋空を撃って確実に仕留めに掛かるほどに丁寧な戦い方をしているからと言って、読めるような字を書いて、罫線の中に文字をきれいに収めるような丁寧さを持っているとは限らないのだなとぼんやりと考えていた。殆ど速記のようなことをした九十分、ちょうどよい暇つぶしになった授業を受け終えるころには、真っ白だったノートは、いつの間にか自由に走ったシャープペンシルの軌跡で黒くなっていた。
 なまえさんは教科書が沢山詰まっていそうな大きなカバンを肩に引っ提げて、ひとりで次の教室へと出かけてしまった。「慶は帰るの?」「俺は帰る」「わかった。あとで慶の家に行くよ」「おう」以前会ったときになまえさんの肩を抱くようにして連れて立っていた気のいい同級生は、終ぞ己となまえさんのいるところに来ることは無かった。普段の彼ならばきっと、己に向って手をあげて、「よう、太刀川」などと話しかけてきていたのだろうが、今日の彼は、己に対して何も言わぬまま、なまえさんの去り行く後姿だけを物悲しげな顔をして見つめていた。あの男の顔を見る限り、なまえさんと忍田との間に何らかの変化があったのだろうと思う。なまえさんのほうは、少しも忍田のことを気にするようなそぶりを見せなかったあたり、彼らの関係性のおわりがどのようなものを迎えたのかは、本人らに聞かずとも分かりそうなものであった。

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 なまえさんが己のアパートにやってきたのは、十六時をまわったころであった。「遅くなってごめん」と言って現れたなまえさんは、つい今までずっと授業が入っていたのだという。なまえさんがこのアパートに来るのは、随分と久しい。己がこのアパートを契約してすぐのころに引っ越しの手伝いをしにきてくれた時以来であるように思う。「迷わなかったか」「ちょっと迷った。道一本間違えた」「電話したら良かっただろ」「そうしたら迎えに来てくれたの?」「おー」「電話したらよかった」「スリッパないからそのままな」「じゃあ靴下のまま、お邪魔します」なまえさんは、狭い玄関先で踵の無い、ぺたんこのパンプスのストラップをゆっくりと外したのちに、丈の短い靴下のまま、足音を立てずにフローリングの上をつま先で歩いた。

「座るね」
「おー」
「……作戦室の外部清掃、要らないんじゃない?」
「ははは」
 
 自分の隊の作戦室の整理状況は決して褒められたものでないが、自分の借りているアパートはそれなりに綺麗にしていた。正しくは、殆ど使っていないからただ、きれいなだけである。基本的に作戦室に常駐しているような己が家でやることと言えばただ、寝に帰るだけなのであるが、市内に実家があるので、借りている賃貸の方でなく実家に戻ることが多い。使わない部屋を解約しろと実家からも口うるさく言われてはいるのだが、面倒ごとを先延ばしにし続けた結果、大学入学時から今まで、ずるずると長く部屋を借りてしまっている。ボーダー関連の話について言えば、外で大っぴらに話すわけにはいかない。当然、実家になまえさんを呼んで話すわけにもいかないし、休職扱いになっているなまえさんを本部基地に呼ぶのもどうかと思ったため、今回ばかりは自分の先延ばし癖にほんの少しばかり感謝した。

「いいのか?」
「なんで?」
「付き合ってるんだろ」

異性の恋人のいる人間が、異性の一人暮らしの部屋に上がり込んでも良いものか、という意味合いで問うたつもりであったが、なまえさんはなんだかよくわかっていないような顔をしていた。一人暮らしの人間の部屋としては十分なワンルームの部屋に唯一置かれていたクッションを尻の下に敷けばいいのに、なまえさんはクッションの上に座らずにカーペットの上に三角座りをして、クッションを握りしめていた。帰宅時に買ってきた二リットルのペットボトルのお茶に、ミカン味のジュースと、プラスチックカップを机の上に置く。なまえさんは、短いお礼を言って、お茶を自分のカップに注いだ。「慶は?」「いい。自分でやる」「うん」なまえさんからお茶のペットボトルを手渡してもらい、自分のぶんのお茶をプラスチックカップに注いで、一気にお茶を飲んだ。「付き合ってないよ」なまえさんは、プラスチックのカップに口をつけて、お茶を少し飲んだ後に口を開いた。「忍田くんとは、とっくに」それは、己が投げたなまえさんへの質問に対する回答であった。

「別れたのか」
「うん」
「なんで」
「わたしじゃないわたしを、あの人は好きになってると思ったから」

なまえさんは、己の顔のほうは少しも見ないで、カップのふちに残った口紅をティッシュで丁寧に拭いていた。ただ捨てるだけのモノであるのに、やけに念入りに拭いている。口紅の色が、ティッシュペーパーにすべて移ってしまった後では、手持無沙汰になった手を開いたり、閉じたり、指を組んでみたりとせわしない。

「意味が分からん」
「剣をしてたときのわたしじゃなくて、剣をしていないわたしを好きだったんだよ、彼は。だから、違うの」
「……余計に分からん」
「慶はわたしがやめる話、もう知ってるでしょ」

なまえさんは、何事も無いような顔をして己に向ってそう言った。「何を」「ボーダー」弧月を振るうことを辞めるということを、なまえさんは何一つ己に言っていなかったのに、なまえさんの中ではもうすでに、それは己の知るところの話になっていたのか、それとも、説明を省いても問題が無いことだと思われていたのか。理由がどうあれ、なまえさんの中でそのことを己に直接伝えずともよいものとして扱われてしまっていることのほうが、己にとっては大きな問題だった。「いや」己は、なまえさんの問いに否定で返した。その物言いに子ども染みた不満の態度が滲み出ていようが、もう関係なかった。なまえさんの口からその事柄を聞きたかったのに、なまえさんにとってそのことは取るに足らないものであったということが堪えたし、それが己のなまえさんに対して抱いた不満だったのだから、何ら間違いではない。己にとっての剣というものと、なまえさんにとっての剣というものは同じような価値を持っているものだと勝手に思っていた。弧月を振らないなまえさんのことを、今まで少しも想像ができなかったくらいに、なまえさんに剣はよく馴染んでいた。なまえさん自身も、それはよく知っているはずであったのに、なまえさんが本部に来なくなってから今までの間に何が起きてしまったのか、なまえさんの口ぶりから語られたその話の程度というものは、なまえさんにとってはその剣というものは、自分から簡単に切り離せるようなものに変わってしまったようにさえ、聞こえる。

「俺は姉弟子のなまえさんから直接聞いてないから知らねえよ」

つとめて冷静に、そう意識したところで、一度荒れてしまった感情と言うものを極力落ち着かせて話すということは難しい。剣のことで荒れてしまえば、次に出てくるのは、さらなる彼女に対する不満である。なまえさんが、自分自身のことを人に話したがらないのは、彼女の性格特性だからとあきらめていたところは確かにあったが、それでも、姉弟弟子として長くやってきた己に対して一言、二言くらいあっても良いだろう、それについて責めるつもりは無いが、一度火がついてしまえばそれをも掘り返してしまう。過去のことをほじくり返して何かを言うことは会話の上で悪手であることは分かり切っているが、話している相手がなまえさんである場合においては別だった。そして、そのような卑怯な話し方をしたところで、なまえさんは怒るでもなく、ただ己を受け止めるということも、すでに知っていた。己に突然、過去を掘り返して文句を言われてしまったなまえさんは、目を丸くして驚いて見せたあとに、己の顔を見て申し訳なさそうな顔をして「ごめん」と言った。

「今日、その話する予定じゃなかったのかよ」
「うん、そのつもりだった」
「なら俺が知ってるだろうからって言うのサボろうとするなよ」
「慶、ごめん」

なまえさんは、深呼吸をして口を開いた。

「わたし、ボーダーをやめた。休職扱いになってるけど」
「知ってる」
「弧月も、もう持たない」
「ボーダーやめるなら、そうなるだろうな」
「でも、いざやめてみたら、どうしていいかわからなくなっちゃった」

わたしは、思ったより剣しかやってなかったんだなって思うよ、となまえさんは言った。「彼ね、わたしがボーダーにいるの、あまりよく思っていなかったから」プラスチックのカップに口をつけ、なまえさんは再び口を開いた。

「わたしもいずれ、トリオン器官が衰えてしまえば弧月だって持てなくなるし、そう思えば今やめても、後で辞めても変わらないんじゃないかって思って、やめようって。ちょうどいい機会だって思ったんだよ」
「弧月じゃなくて男を取ろうとしたってワケか」
「はっきりいうね。でも、確かに慶の言う通りだよ。本部に行かなくなって、学校と家を往復して、デートの回数も増えて、忍田くんは嬉しそうにしてた。わたしも、忍田くんがそうまで喜んでくれるなら良かったのかもしれないって思った。でも、朝起きてランニングに行こうとしたり、もう剣を持たないのに、稽古場に行こうとしたり、授業が終わって、そろそろランク戦の調整しようとか、そう思うけどわたしは防衛任務どころかランク戦ももうやらないことを思い出してがっかりしてしまう。何もない日に、どうして時間を潰していたかもわからなかったのに、いざ暇な時間に慣れてきたら今度は、剣を持たなくても生活が出来るんじゃないかってことに気づいた。わたしは今まで剣が無い生活を少しも想像できなかったけど、本当は剣なんてなくても生活ができたんじゃないかって気づくことが怖くなった。それに気づいてしまった今のわたしと、剣しか知らない今までのわたしは、たぶん違うんだと思う。だから、剣を持っていた時のわたしを好いた忍田くんはたぶん、今のわたしを好いていないんだと思って別れた」
「忍田はゴネなかったのかよ」
「わたしのことが好きだと言ってくれたよ。でも、わたしが納得できなかった」

 蝉の抜け殻の話をふと、思い出す。なまえさんが、弧月を持たなくなった自分自身のことを形容していった言葉のことだ。蝉の抜け殻。誰にも見つからないような場所でひっそりとさみしく転がっている、からっぽの器のことだ。「結局やめることを選んだのはわたしなのに、間違った選択をしたと駄々を捏ねているのもわたしで、それを人のせいにしようとしてるのもわたし。幻滅した?」なまえさんは、己にそう問うた。自分に姉がいたらなまえさんが、己にやってくれたように関わってくれるのだろうとか、そういったことを考えたことは一度や二度ではない。このような話をするまではたしかに、なまえさんのことを、姉のような人だと、そう思っていた。ただ、なまえさんという人が、剣と恋とを天秤にかけた時に、恋を選んでしまうような人であったことを新たに知っただけのことである。姉だと思っていた人間が、実のところ、自分の知らぬ女性であるように思えてしまったのも、また事実であった。「なあなまえさん」そう、なまえさんの名前を呼んだ。己の口から出てくる答えに、おびえているのか知らぬが、己の顔を見るなまえさんの表情が少しこわばっている。「もうそれ、俺がもらっていいんだろ」「それって」「転がった蝉の抜け殻」なまえさんは何も言わなかった。ただ、己の問いの意味を分かりかねるような顔をして、ただ己の顔を見ていた。
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