授業が始まる一時間以上前の時間にも関わらず、なまえさんはすでに教室に居た。この教室には、なまえさん以外の姿は見えなかった。教室の中間列、廊下側の一番端の席に、なまえさんは必要な教科書を広げて座っている。「隣、いい?」「いいよ」「早くね?」「慶がいつも遅いんだよ」「そうかあ?でも一時間前は早すぎるだろ」話し掛けられたなまえさんは、言葉こそ平常を装っていたが、己の顔を見た時に目を丸くしていたので、たいそう驚いていたのだと思う。それは、早い時間に教室にやってきた人が居たことだったのか、立っていたのが己であったことなのかは、わからない。なまえさんは、端から、荷物ごと端から二番目の席に移動したので、先ほどまでなまえさんが座っていた座席に、どっかりと腰を下ろした。
「珍しいね」
「今日は本部、メンテの日」
「成程」
この後やってくるだろうこの授業を受ける面々のことを少しずつ思い出した時に、なまえさんの隣に立っていたアイツのことを思い出した。なまえさんの隣に座るだろうとは思ったが、なまえさんに座席のことを問うた時に、なまえさんが良いと言ったのだから問題無いのだと、一瞬だけちらついた、気のいい同級生の顔はすぐに忘れることにした。
「慶と全然会わないね」
「学校来なかったからな」
なまえさんの退職は、引き伸ばされている。なまえさんが戦闘員を辞めるということは、エンジニアへと転向するという意味でも、通信室の方へと転向するという意味の、どれにも該当しないことは、誰もがわかり切っていたように思う。なまえさんが、戦闘員以外の仕事をするところなぞ、彼女を知る人であれば、誰もが想像することは出来ないだろう。なまえさんの意思で戦闘員を辞めることを伝えているのにも関わらず、正式に受理されていないということは、彼女の届け出を受け取った忍田さんが、なまえさんに未だ迷いが残っていることを知ってやっているのか、それとも、なまえさんという在籍年数が長すぎる古株の人間一人の処遇を上が決めかねているという理由なのかは知らされていないが、なまえさんは退職の前に、ひとまず、休職という扱いになった。そのため、なまえさんは本部基地に来なくなり、己も学校に行っていなかったのだから、なまえさんと己とが会うことはなくなってしまった。なまえさんの口から、戦闘員を辞める、と言う話を聞くことは、終ぞ無かった。迅の口から噂程度に聞き、本部に珍しくやってきた小南に「ちょっと太刀川聞いた!?」と詰め寄られたが知らぬ存ぜぬを繰り返すことしか出来なかった。何せ、己はなまえさんについての話を、なまえさんの口から何一つきいていないのだから当然のことである。なまえさんのことに関しては、己から聞かねば分からぬということを知っているのにも関わらず、なまえさんの口からその言葉を聞きたいと思う己と、さっさと聞いてしまえと言う己とが、なまえさんの関与しないところで勝手にせめぎ合い、結局のところ、なまえさんの口からききたいと思う己がずっと、優勢であったというだけのことである。最終的に、忍田さんの口から、なまえさんが戦闘員を辞める話をしていること、今は休職扱いとなっているという話を聞くことになったが、その頃にはすでに、なまえさんは本部基地に顔を出さなくなっていた。
「この間のレポート出した?中間試験の代わりの」
「俺の締め切りは来年の今頃だぞ」
「……学年まで落としても知らないよ」
「そこは、うまくやる」
なまえさんは、くすくすと笑っていた。「わたしは、出来れば慶と一緒に大学卒業したいよ」「出来ればとか言うなよ」「ごめんなさい」「俺は寛大だから許そう」「ありがとうございます、慶さま」こうしてみるなまえさんは、普通の学生のように見える。いや、そもそも普通の学生であることに違いないのだろうが、己の知るなまえさんという人は、このような穏やかな会話を多くする人ではなかったので、どうにも違和感があった。『二宮くんのフルアタックはシールドじゃ防げないから撃たれる前に攻撃させないようにするか、相打ち覚悟で行くしかない』『この間も戦って思ったけど、足止まったらもう削られて負け確定だから本当に厄介だよね。一対一ならまだしも、二宮くんの味方が居たら手に負えないと思うんだけど、慶ならどこから倒しにいく?』『二宮くんに全勝するなら、わたしも生駒くんみたく旋空の射程伸ばしたらもう少し安定して勝てるようにならないかな。慶、暇ならブース入って』なまえさんと己との会話は、少し血の気の多い剣の話が多かった。言ってしまえば、勝つための剣の話以外をしたこと自体があまり無かった。だから、なまえさんとの共通の話題であった剣を無くしてしまった己は、なまえさんと話をするのに、何の話題を振って良いのか分からなかった。なまえさんはあまり、何も思って居ないように見えるが、なまえさんとの会話が途切れそうになるたびに、間をつなぐための会話というものを急かされているような気さえ、している。急かされてする会話の、気怠さというものがあまり得意では無いので、なまえさんとの会話自体をやめてしまえばいいことに違いないのであるが、うまく続けられない会話であったとしても、なまえさんとの会話を続けたいと思って居るのは、自分自身であった。「ねえ、慶」なまえさんが、改まって己の名を呼んだ。「なんだよ」なまえさんは、ひどく緊張した面持ちで、己の顔を見ていた。目が合ったと思えば、その目は違う方を向いてしまう。「あのね」別に、取って食うなんてことをしないのに、と思うが、横やりを入れずになまえさんの次の言葉を待った。「後で、ちょっと時間をわたしに貰える?」その言葉に、己はおう、と答えた。今日は、時間が有り余っているのだから、別にこの場ですべての会話を、急ぎで終わらせる必要は無かった。なまえさんが、畏まって話したがることなど、きっと、彼女が今休職している話にまつわることなのだろうということは、薄々感じてはいる。しかしながら、あえてこの場でその話題に対して触れることはしなかった。なまえさんの口から、なまえさんの身の上について話されることを、誰よりも一番望み続けているのは、まぎれもなく己なのであった。その機会を自ら潰すことなど、するわけが無いのである。
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