小説

五体満足鮪拾#3

 最近、慶と学校でよくあうね、となまえさんは言った。それは、この大学になまえさんがいることを知った己が、なまえさんの姿をつい探しては、なまえさんに話しかけているせいもあるのかも知らぬが、別にそんなことをなまえさんが知る必要は無かった。学内のカフェテリアでコーヒーを飲むなまえさんは、忍田を待っているのだという。忍田となまえさんの関係性にどんな名前がついているかを、なまえさんに敢えて聞くようなことはしなかった。ふたりの関係性に名前がついていることを知ってしまえば、多少の遠慮を含めて気を使わなければならなくなってしまうからである。己のよく知るなまえさんは、自分から自身について話そうとすることはあまり、しない。だから、こちらから、二人の関係性を問いさえしなければ、少なくとも、なまえさんとの付き合いを遠慮するような目に遭うことは無い。
 なまえさんは、テーブルの上にノートを二冊広げていた。ノートの書かれた日付を見る限り、木曜の選択必修科目のものらしく、己はその科目を履修していなかったため、己には無縁のノートであった。一冊は、文字が詰められた忍田のノートで、もう一冊は、なまえさんの未だ何も書かれていない真っ白なノートである。昨日、大学を自主休校した木曜日の昼に、少し疲れた顔をしていたなまえさんを本部で見かけたことをふと、思い出した。「昨日の?」「うん。夜勤が昼まで伸びちゃったから受けられなかったんだよ」なまえさんは、比較的まじめな学生らしいことは、なまえさんと大学で会ってから知った、ボーダー本部の外でのなまえさんの顔のうちの一つであった。忍田の口ぶりからするに、少なくとも、己とは違って、シフトの都合で入れ込んだりでもしない限りは、学校にまともに通っているらしい。「慶は、弧月使わなくなった後の自分を想像できる?」ノートにペンを走らせながら、なまえさんはそう、己に向って口を開いた。武器を弧月からスコーピオンに変更するとか、射手トリガーに転向するとか、そう言った意味合いで言われた言葉でないことは、分かっている。弧月で近界民を屠ることを続けている己が、弧月を持たなかった場合のことを想像する。今日みたく、大学に行って、授業を適当に受けて、家に帰って、寝る。もしかしたら、アルバイトをしているかもしれぬが、ボーダー以外の、アルバイトらしいアルバイトをしているところはあまり、想像できない。試しに、飲食のアルバイトをしている自分自身を想像してみるが、大学すらまともに続けて通うことが出来ていない己に、アルバイトを続けられるような姿はちっとも想像できなかった。己もなまえさんも、二十という年齢に達してしまえばもう、これ以上のトリオン器官の成長は見込めない。いずれ、前線を退くことにはなるのだろうが、自分らの師匠が前線から下がってはいるが、防衛の最後の砦として未だ立っている所をみれば、弧月を持つことを辞めてしまうのは、随分先のことのように思う。「……出来ない。それは、なまえさんもじゃないのか?」そう、なまえさんに問うた。なまえさんは、間髪を入れずに口を開いた。「わたしも、慶と一緒」なまえさんと己が思う剣というものが、あまりそう変わり無く思うのは、同じ師匠のもとで訓練してきたからなのか、それとも、なまえさんが剣に対して真摯に向き合ってきた態度を見て居るからなのか。
なまえさんは、あまりボーダーの人間とランク戦をしようとしないせいか、好戦的な性質ではないように思う人も、ボーダー内部には居るのだが、それは誤解である。今は穏やかな顔をしているこのおんなが、己と切り結んでいる時うかべるこの世の享楽のすべてを詰め込んだ笑みを一度でもみてしまえば、このおんなが剣を振るうことについて、何を思って居るかを知ることは易い。
 なまえさんには剣が、よく似合う。それは、己が弧月を握る姉弟子であるなまえさんの背を見続けていたからそれ以外の姿を想像できないからであるのか、それとも、弧月を握って凛として立っていて欲しいという己の願望が滲んでいるせいなのかは分からぬ。初めてなまえさんのくびを刎ねてから、更にもう、二年近い年がたってしまった後では、なまえさんよりも、己の方が戦績としては上に行ってしまったし、彼女の背を抜いてしまったと言っても過言ではないのであるが、それでも剣を持つなまえさんという人に憧れにも近い感情を抱いているのもまた、事実であった。自分自身が弧月を振るうことを辞める姿が想像できないように、己には弧月を捨ててしまうなまえさんというものを想像することが難しかった。大学に通い、学生のようなことをしているなまえさんの姿を見た今ではじめて、大学生のなまえさんというものを想像することができたとしても、それ以外のなまえさんというものを想像することは難しい。それがたとえ、男女の関係であったとしても、実際にそれが名言されて自分の目で見るまでは、それを信じられる自信は無かった。

「弧月をやめたなまえさんは、正直、想像つかん」
「それはわたしも、思うよ。わたしは……弧月を持ってない慶が想像できない。大学に行ってる慶を見るまで、慶が学生してるのも想像できなかった」
「……俺だって学校くらい行くぞ」
「たまにね」
「ひでェなあ」

なまえさんはくすくすと笑って己の顔を見て居た。ノートの上に、手は置かれているが、もうなまえさんの手元のシャープペンシルはちっとも走っていなかった。なまえさんのノートは、己がなまえさんをカフェテリアで見かけたときから変わらず、白いままだった。「手ェ止まってる」そう言えば、なまえさんはノートを閉じてしまった。「そうだね、もうコピーしようかなって」「手書きなんてしようとするなよ」「開いたときは、そういう気分だったんだよ」なまえさんは、ノートを二冊鞄の中に片づけてしまった。少し冷えてしまっただろうコーヒーだけが机の上に残っている。

「弧月をやめたわたし、もう死ぬんじゃないかって思うんだよね」
「死ぬ?」
「うん。弧月をやめてしまったわたしはたぶん、もうわたしじゃないから。たぶん、わたしは死んでしまうんだと思うよ」

「死んだ後の話、あまり、かんがえたこと無いのだけどね」なまえさんはそう続けた。生憎、己も死後のことなぞ少しも考えたことは無かった。今を全力で生きていると言えば前向きにも聞こえるが、考えても答えの出ない物事をまじめに考えられるほど、まじめな脳みそを己は持ち合わせては居ないという方が、己の場合は正しいように思う。「死んだ後の世界って、わからないでしょう」死んだ後の人間は、開くための口を持ち合わせて居ないのだから、死後にある世界というものが本当に存在するかなぞを教えてくれることは無い。もし、何処か別の世界に行くとしても、それが何かは今、生きている者にはきっと、わからない。自分で確かめようにも、死にでもしない限り確かめようがない。弧月を振るうことをやめてしまった後の自分自身というものを、少しだって想像できず、やめた先に何が在るかも分からないということを死後の世界と同じであるというのであれば、確かにそれはなまえさんの言う通りなのだろう。実際にやめてみなければ、わからない。ただ、この場合の死というものは、生命活動を辞めるという訳ではないのだから、死後の世界を語るための口は残っているだろうが。

「なら、死んだ後に残ったなまえさんはどうなる?」
「……わからない。分からないけど、わたしは抜け殻になって転がっているんだと思う」

それこそ、死んでしまった後のひとのように、となまえさんは続けた。

「蝉の抜け殻のことをね、思い出すんだよね」
「蝉の抜け殻?」
「そう。弧月を振らなくなったわたし、たぶん、そこらへんでさみしく転がってるんだろうなって、そう思うから」

なまえさんは、そう言って空になったカップを持って、席を立った。「……慶、もう行くね。ありがとう」なまえさんの目は、すでに手元にあるスマートフォンの画面に注がれている。待ち合わせをしていた忍田が漸く、やってきたのだろう。「なまえさん」己は、去ろうとしているなまえさんを引き留めた。

「……なら、その抜け殻を俺にくれよ」
「どうして」
「そこらへんでさみしく転がってるくらいなら、俺が貰ったっていいだろ」
「そんなに欲しいもの?」
「俺は欲しい」

なまえさんは、是とも非とも言わなかった。聞き分けの無い子の顔でも見るような顔をして、ただ己の顔を見て居た。「……やめた方が良いよ。またね、慶」なまえさんは、そう言って、己の方を振り返ることなく、そのまま行ってしまう。己は、もう用事のないカフェテリアの椅子から立ち上がれないまま、なまえさんのうしろすがたが小さくなっていくのをただ、見て居た。

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