小説

五体満足鮪拾#2

 一限目の授業はあまり、気分が乗らない。夜遅くまでの防衛シフトのあとであれば、なおさらであった。ボーダーという組織は、三門市を守る重要な砦である。だから、大学の授業の多少の欠席については、大目に見てもらえることの方が多い。学年が変わり、前期が始まってすぐのうちは今年こそ頑張れよと声をかけてきた人も何人かいたが、教室にいないことが常になってしまえばあまり口うるさく言わなくなってしまった。ほどほどに自堕落な生活を繰り返し、五月の半ばごろには既に、今期休んでも良いだろうと思われる回数が、残り二回程度になってしまった。そのため、いくら夜間の防衛シフトのあととはいっても学校に行かざるを得なくなってしまった。そもそも、昨晩の深夜に防衛シフトを入れてしまった自分が悪いので、自業自得である。あくびを噛み殺しながら、指定教室に入る。部屋には既に、一限を受講する生徒のすがたがちらほらとあった。誰も彼も、校内ですれ違ったことが一度や二度くらいはありそうな人の姿のはずであるが、そもそも、あまり学校に来なかった己には誰が誰かなぞ少しも想像がつかない。「太刀川、お前これ、履修してたのかよ」知り合いの少ない教室の中で、唯一ともいえるだろう高校時代からの知人が話しかけてきたので、手をあげて挨拶の代わりとした。自分の師匠と同じ苗字をした、気さくな男である。己と違い比較的まじめに学校に行っているらしいこの男は、たびたび単位課題の連絡を寄越してくれる程度には、関わり合いがあった。「出席がギリ」そう、言えば忍田は笑って居た。「なあ、お前も何か言ってやれよ。同じボーダーなのにさ。お前は結構まじめに、学校に来てるだろ」そう忍田は己とは別の誰かに話し掛けた。忍田に気を取られていて全く気づかなかったが、彼の隣にはもう一人、居たらしい。しかも、忍田の口ぶりから推察するに、この授業を受けているボーダー隊員のようであった。「慶はわたしと違って忙しいんだよ」同じくらいの年齢のボーダー隊員と言えば、それなりに知っている人は居るはずであったが、次に聞こえた声は己の知る誰とも違ったが、やけに馴染みのあるおんなの声であった。

「あれ、なまえさん?」

 忍田の隣に立っていたのは、見慣れない風貌のなまえさんであった。なまえさんのすがたは、たぶんこの教室に居る誰よりも馴染みが在るはずなのに、目の前に居るなまえさんは、あまりに見慣れぬ姿をしていた。それなのに、声だけはあまりに馴染みが在りすぎるので、忍田の話し掛けた相手がなまえさんだと認識するのに比較的、時間がかかってしまった。今のなまえさんの左腰には、弧月は無い。ここは大学で、本部基地ではないのだから、トリオン体で居るわけがない。何よりこの場所では緊急時を除き、弧月を出す機会なぞ無いのだから、彼女の腰に弧月が無いのは当然である。

なまえさん、再履?」
「違うよ」
「……お前ら知り合いなんじゃないのか?」

忍田は己の顔をみて、あきれたような顔をして居た。「知ってるぞ」少なくとも、忍田よりも、己はなまえさんのことを知っている自信があった。なまえさんは、己の顔を見て、合点がいったような顔をしてくすくすと笑って居る。己も、忍田も、なまえさんが笑う意味がよく分からなかったので、二人して顔を見合わせた後になまえさんの顔を見た。

「慶とわたし、同級生だよ」
「嘘だろ」
「本当だよ。わたしも、今年二十歳」
「……他の奴知ってんの?」
「知らないのは慶くらいじゃないかな」

そう言うと、忍田は「どういうことだよ」と問うた。「慶ね、わたしのことをずっと先輩だと思っていたみたい」そう、なまえさんが答えた。忍田は、呆れ半分と言った顔をしてなまえさんに向って口を開いた。「こういうことってあるもんかよ?」「今目の前で起きてるから、あるんだろうね」と言ったなまえさんは、可笑しそうに笑って居た。己の知るなまえさんというおんなは、こんなに穏やかな顔をして笑う女では無い。己の知っているなまえさんは、弧月で切結ぶときの顔のほうが、馴染みがあった。この世の享楽のすべてを押し込んだような笑みを浮かべるおんなであった。目の前にいるおんなはひどく穏やかな笑みを浮かべているが、馴染みのあるなまえさんの表情というものは、どちらかというと己の闘争心や生き物としての本能を刺激するようなものである。

「慶とは今までずっと通ってる学校が違ってボーダーでしか会わなかったし、大学は一緒になったけど慶はあまり学校に来ないみたいだし、それに年聞かれたこと無かったから」
「みんなして俺がなまえさんにかしこまって喋ってるの疑問に思わなかったのかよ」
「いうほど畏まってないし、ボーダー歴はわたしのほうが長いから、違和感なかったんじゃないかな」

そう、なまえさんが笑いながら言うのに、つい、つられて笑ってしまった。忍田は、己となまえさんを交互に見た後に、なまえさんの手を取った。「へえ、じゃあ太刀川とは仲が結構、良いんだな」「そう見える?」「見える」忍田が、なまえさんに向ける視線の意味と理由を、本人らの口から言われずとも推察することは易かった。「慶はね、弟弟子だよ」「ああ、お前の言う弟弟子って言うのは、太刀川のことだったのか」忍田の顔に滲む色に、ほんの少しだけ影が滲んだことに、なまえさんは気づいていないようであった。「うん。わたしが忍田くんに話した、わたしよりももうとっくに強くなった弟弟子は、慶のことだよ」それは、己が忍田と同類だから気づいてしまったのかは分からないが、少なくとも、忍田と言う男が、なまえさんについて何の感情もない人間ではないということだけは、はっきりと分かった。
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