小説

五体満足鮪拾#1

 十六になる年に、この組織に所属するようになったということは、つまり、己が弧月を振るようになったのも、その頃からとなる。真面目に剣を振るい、少しずつ様になりはじめたことを自覚するには、それから二年以上の歳月が必要であった。
 この、おんなのくびに触れたのは、はじめてのことであった。トリオンで出来た肉体ではなく、おんなの生身の肉体に、である。自身の首よりも細いおんなのくびは、自身と同じ肉体構成をしているに違いないというのに、どうも構成部品の何もかもが違うように思えて仕方が無かった。喉、おんなの白いのどに親指で触れる。自身が何年も一緒に暮らしている喉仏のない、すべすべした平坦なのどをしている。親指でおんなの喉を味わう間に、他の四指は、おんなの頚椎の感触を味わっていた。おんなのくびの、生暖かい皮脂の感触が、指先にまとわりつく。ふしぎなことに、不快感はすこしも無かった。ただ、こうしておんなのくびに触れている間に、このまま五指に力を入れてしまえば、このおんなはどんな顔をするのだろうという邪な思念が、己の脳髄を駆け巡ろうとするのを、無理やり振り払うことのほうが大変であった。おんなは、己の手の上から自身のくびに触れている。おんなの柔らかい指先の感触、己の手よりも少しばかり生ぬるい手指の感触が擽ったい。あたまひとつ低いところにあるおんなのあたまを見るたびに、おんなのからだの大きさと己のからだの大きさがここまで違うものなのかと思い知らされてしまう。剣を振るっているときにはまったく、そのようなことを思いさえしないのだから、この場でこのおんながいきなり小さくなってしまったような感覚さえ、あった。自分のくびの感触を、己の手の上から確かめるおんなは、己の顔をちっとも見てはいない。己が、どんな顔で、このおんなのくびに手をかけているかを、まったく見てはいなかった。だから、己が、このおんなのくびに手をかけている時に、どんな欲と戦っているかなぞ、少しも気づくわけが無い。

「どうしたんだよ」
「いやね、首、本当につながってるかちょっと怖くなって」

おんなの口から言葉がこぼれるたびに、おんなの喉が震えた。喉仏はそこにないのに、喉が震えるのがなんだかおもしろい。頭の中に廻ろうとしていた邪な邪念を振り払うことを、少しばかり忘れてしまった途端に、己の五指はおんなのくびに触れるだけというには少しばかり強い力を入れてしまう。首が締まる感触に、なまえさんが驚いたような顔をして己の顔を見た。今までこちらを見て居なかったおんなの双眸が、己の目をとらえた。今まで何も悪さをしてこなかった飼い犬に、手を噛まれてしまったときの飼い主の顔はもしかしたら、今のなまえさんのような顔をしているのかもしれないと思った。生憎、己はペットを飼ったことが無いのであくまで、想像に過ぎないのであるが。

「繋がってるぞ、ちゃんと」
「……うん、そうみたい。ごめん……ちょっと、びっくりしただけ」

 なまえさんの頸を初めて、刎ねた。旋空で伸ばした切先が、なまえさんが咄嗟に出したシールドごとなまえさんの首を斬りつけて、胴と頭とを真っ二つにしてしまった。それだけのことと言えばそれだけのことであるが、己にとってこの出来事は大きな意味が在った。なまえさんと己は、同じ師匠の元に弟子入りしているという点と、同じ武器を使っているという共通点がある。逆に言ってしまえば、己となまえさんの共通点なぞ、それ以外知らなかった。なまえさんのほうが、ボーダーに入ったのは、己がボーダーに入るよりも随分前の話で、この組織が正式に発足する前から師匠のもとで弧月を振るっていたのだというのだから、いうなればなまえさんは己の姉弟子であり、超えたい背のひとつでもあった。トリオン体が崩壊したのちにブースのベッドの上に放り出されたなまえさんが、ベッドの上に座ってぼうっと首に触れているあたり、本人の中では、己に首を刎ねられるということがあまり、現実感の無い出来事だったのだろう。なまえさんは、己の顔を見て「……負けた?」とつぶやいた。なまえさんと己との先ほどまでの弧月でのじゃれ合いのようなものは、たしかに、現実ではあるのだが、なまえさんの生身の肉体にはとうぜん、傷ひとつついていないのだから、そういう意味合いでいうなれば、己に斬られ首を刎ねられたという出来事自体が虚のことであるのかも知れぬ。

「おう、俺がなまえさんを斬った」
「首を?」
「首を」

なまえさんは「そっか」と言った。己が、どんな顔をしてなまえさんの目の前に立っているかは確認しようがないことであったが、初めてなまえさんに勝ったということがあまりに嬉しく、顔が緩んでいることには間違いないだろう。「じゃあ、わたしは慶に負けたんだ」勝ったものが居れば負けるものが居る。それは、世の常である。勝った己がいるのであれば、負けたなまえさんが同時に存在する。己が初めて、なまえさんに勝ったということはつまり、なまえさんは己に初めて負けたことになる。「慶、もう強いなあ」己に負けた後のなまえさんの顔というものが、己が知ることを今まで許されなかったなまえさんというものを、無理やりこじ開けてみてしまった後のような感覚さえ、あった。高揚感と、みてはいけないものを見てしまったときに抱く背徳感とが入り混じったものが、己の背をゆるく撫でた。「慶」己の思惑なぞ少しも知らぬなまえさんは、普段の通りに、己の名を呼んだ。なまえさんが己の名前を呼ぶときの、赤い舌先に載せられたやわらかい声音のことを、己はけっこう、気に入っている。「……どうしたんだよ」自身の母親や、師匠も同じ呼び方をするが、なまえさんに呼ばれる己の名にはほんのすこしの特別が滲み出ているようで、良かった。「ちょっとわたしの首を触ってもらえる」なまえさんの首に触れた五指は、生ぬるいなまえさんという人間の温度と、やわらかい肉の感触を拾って居た。
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