小説

拝啓、立春とは名のみの

「おれ、この間諏訪さんの彼女と話したんですよ」

 半荘南風戦、南場四局。己の作戦室に何時ものメンツを揃えて卓を囲んでいた。「諏訪の快気祝いも兼ねて久しぶりにやるかあ」と言い出した発端が誰かはもうわからないが、大体麻雀するときに集まるメンバーはもう決まっているので別に、誰が発端かなど今更考える必要もないだろう。麻雀をする日はだいたい、深夜まで入れ込むか、翌日が非番であれば朝までやることもある。今日も、例に漏れず、そのまま朝までやるのだろう。二時を過ぎたあたりで冬島さんが伸びをしながら「俺やっぱ徹夜ダメかも」と言い出した。「おっさん」「通る道だぞ」「おれは未だ若いんで」「一番最初に寝るの太刀川だけどな」メンツの中で最年少の太刀川と互いに軽口をたたきあっているのを東さんが見て笑い、それに横やりを入れた。なんだかんだ、一番最後のほうまで起きているのは冬島さんで一番最初に寝るのは太刀川である。そういう軽口を叩きつつも、今のところ誰も眠そうな顔をしている人は居なかった。その証拠に、そういうおしゃべりも絶好調であるが、ゲームの流れも決して悪いものではない。

「太刀川おまえ諏訪の彼女の話好きだな」
「前みたいなかっこいい振り込みを期待してるんで」
「お前絶対飛ばす」

 半荘戦も、終わりが見え始めている。親の東さんが連荘しなければ良くも悪くも無いところで収まりそうである。ここからうまい具合に役が揃えば良いが、と思いながら壁牌から牌を取ったが、そう物事はうまくいかないらしい。牌を河に捨てようとしたときに、東さんが口を開いた。「豪快な自摸切りには気をつけろよ」「……東さん」「悪い悪い」念のため、牌が安牌であることをもう一度確認して河に捨てた。冬島さんがそれを嫌な笑みを浮かべてみているのが少しばかり憎い。

 あの日結局、己となまえは仲良く川でずぶぬれになった後、仲良く風邪を引いた。嵐山たちの手を借りてなまえのアパートに転がり込むようにしてたどり着き、風呂に入った後、おとなが二人で入るには狭すぎるシングルベッドに仲良く入ればもう体力の限界であった。家に寄る前に、薬局で薬と食料を買い込んで帰宅して良かったと思う(これもすべて、迅の入れ知恵なのだろうが、この時ばかりは感謝するしかなかった)。二日ほど、二人そろって仲良く熱に魘され、ようやくまともに動けるようになった日の朝のことである。なまえが死んだような目をしてベッドの上に座り、己の方を見ていた。「どうした」「……洸太郎」なまえがあまりにも真剣な顔をしているので、己もそれに合わせて起き上がった。

「嵐山くんに友達止めるって言われないかな、こんなばかな先輩、二度と付き合ってられませんとか」
「無いだろ。というか、なんでそういうとこだけ陰気なんだよ」
「性格かな……陰気なおんなは嫌い?」
「めんどくせえなあ」
「好きって言ってほしい」
「好き」
「心が無い」
「お前もう一回寝ろよ」
「洸太郎がやさしくしてくれたら寝る」
「寝ろ」

起き上がったなまえをそのまま、押し倒して再び布団の中に包まった。「ねえ、洸太郎」そう言って、なまえが首元に縋りついてくるのを、そのまま好きにさせた。おんなの頭を、極力優しく撫でる。同じ人間の髪の毛であるというのに、自分の髪の毛とはずいぶん質が違うものだと思う。なまえの使っているシャンプーがそこそこ良い値段がする、所謂高級品を使っているせいなのか、それとも自分がそういうものに頓着していないせいで自分の方があまり良くないだけなのかはわからないが、指通りの良い髪の毛というものは気持ちが良いものである。「……昨日お風呂入ってないからベタベタしてそう」「大丈夫だろ。入るなら次起きてからな」「ん……」なまえはもう暫くしたら、再びまどろみのなかに意識を沈めてしまうだろう。「嵐山くん、呆れてないかな」「嵐山に聞けばいいだろ」「洸太郎」「はいはい。次大学行ったときな」背を極力優しく撫でてやれば、次に聞こえるのはやさしい寝息だけである。

「喫煙所の近くのとこで諏訪さんの彼女が嵐山に泣きついてたんで、『嵐山お前いじめてんの?』って聞いたら真顔で『誤解です』って言われた」
「嵐山困らせんなよ」

ちょっと修羅場かと思ったんすよ、と太刀川は言った。「だってあそこの喫煙所、人あんまり来ないし、距離がそこそこ近い男女が二人いたら気になるし」「気にするなよ」「野次馬しにいったら嵐山と諏訪さんの彼女だし」今日はすこぶる調子が良いらしく、牌を切るペースも早い。きっと、太刀川が見た光景というのは、なまえと己が漸く大学に行けるようになった日のことを言っているのだろう。

「で、諏訪さんの彼女だけど」
「その話もうやめろよ」

というか、彼女じゃなくて諏訪さんの話なんですけど、と太刀川は言った。それ以上何も言うんじゃないと思うがこの男がそれを言って止まる程の男でないことなど初めから分かっているため言うだけ無駄である。

 己の中で嵐山という男は随分、おおらかな人間であると思う。嵐山が激昂するところは想像し難いし、相当なことでもやらない限りは縁を切るとも言わないだろうと思う。ある程度、嵐山と付き合いのある人であればそう思うのだろうが、なまえはそういえば、同じ大学の後輩であるというだけで嵐山とすごく仲が良いという訳でもないからそう思うのも無理はないだろう。そのうえ、こういうときばかり悪い方向への被害妄想ばかりがポンポンと膨らんでゆく質なので、余計である。人目のある場所でこういう話をするのは苦手だろうからと、大学構内の喫煙所、禁煙が推奨され始めてからめっきり人が来なくなってしまった喫煙所のそばに嵐山を呼んだ。なまえには、向こうの喫煙所でタバコ吸ってるから終わったら来いよとだけ言って、嵐山が来るだろう場所へと送り出した。嵐山が来るまでの間、なまえは吟味して買ったお菓子折りの紙袋の持ち手を何度か握りなおし、嵐山が来るまで何度か己の方をチラチラと見ていた。初めてお使いに行く子どもか。数分も経たないうちに、嵐山の快活な声が聞こえた。「みょうじさん、風邪治ったんですね。良かったです」会ってすぐにそう、嵐山が言ったのにたじろいだなまえは、「うん、ありがとう……これ」と消え入りそうな声で言っていたのが面白くて笑いそうになった。「すみません、買ってくれたんですか。ありがとうございます」なまえが大真面目な顔をして選んでいたお菓子折りは無事、嵐山の手に渡ったらしい。「こんなところに来てもらってごめんなさい」「大丈夫ですよ、どうしたんです?」「この間、助けてもらったから、謝りたくて」「謝る?」「はい……」「風邪は大丈夫ではないと思いますけど、おれは出来ることしかしてないですから。謝る必要はありませんよ」当然なまえの悪い方向への被害妄想は杞憂で終わった。「……嵐山くん、わたしと友達やめるとか言わない?」「えっ」「……」「いや、やめるって訳じゃ……泣かないでくださいよ」本格的に嵐山が困り始めたあたりで、第三者の声が聞こえた。「よう、嵐山」「太刀川さん」「嵐山お前いじめてんの?」「誤解です」なまえが涙目で、嵐山ではなく喫煙所の方──己の居る場所である──を見た。その視線に誘われるように、嵐山と太刀川も、己の方を向いた。「洸太郎」「諏訪さん」「……気まずいからこっち見んなよ」何も悪いことをしていないのにも関わらず、なまえと嵐山の縋るような目と、好奇にまみれた太刀川の目が己に向けられた瞬間の居心地の悪さはひどいものであった。気を紛らわせるために吸ったタバコからは味がしなかった。

「諏訪さんの彼女が喫煙所の方をチラチラ見るからそっち見たら諏訪さんがこっち見ながらタバコ吸ってんの」
「保護者かよ」
「彼氏が告白されてるのを遠くから見てる彼女だったアレ」

太刀川がリーチを掛けた。壁牌の数が残り少なくなってきたタイミングで良くリーチ掛けたな、コイツ。「このタイミングでかよ」「おれはキメる時はキメるぞ」「その調子で豪快に振り込んでくれや」「それは諏訪さんがやるって」「おいコラ」そのまま自摸切りで振り込め太刀川と嫌な祈りを捧げながら、自分の牌を見る。他三人の捨牌を眺め、自分の目の前に並ぶ牌を眺めた。切りたい牌はすべて危険牌である。「諏訪さん長考すんなよ」「うるせえ」「今日も好きなだけ振り込んでくれて良いぞ」「景気良いな」「うるせえぞおっさん」目の前の危険牌、そのうちのどれか一つを切るべきか、役を崩して安牌を捨てるか。おれはキメるときはキメるぞ、と言って豪快にリーチを掛けた太刀川の顔が浮かんで嫌になった。この時ばかりは、太刀川の豪快さが少しばかり羨ましい。俺はキメるときはキメる、などと声に出して言うことはしなかったが、別に目の前の牌を捨てたくらいで命が消し飛ぶわけもないと思えば、別にどの牌を切っても良いような気がしてきた。これが、ただ夜更かしで頭がしっかり回ってないから行った行動なのかどうかは分からないが、普段であれば役を崩して無難な方を切っていただろうと自分のことながら他人事のように思った。「豪快だな、諏訪」「イイねえ」「諏訪さんここでドラ切りは有りえねえわ……」お前もやっただろうが。誰の上がり牌でもなかったことに安心した。そして、東さんが「諏訪に感謝だな」と言いながらドラを捨てた。「汚ねえ」「勝負に綺麗も汚いもないだろ」ごもっともである。結局、海底牌が見えてきたところまで、誰も上がることは無かった。海底牌は残念ながら、己の上がり牌にはならなかった。それならば、手に取った危険牌ではなく、あとは無難な牌を捨てるだけである。

「今日は諏訪の快気祝い麻雀だしな」
「こんな季節に川で水遊びして彼女と仲良く風邪ひいた諏訪さんの快気祝い」
「うるせ……あっ」

水難だなあ、と言って笑ったのは誰だっただろう。だが、今の己にとってはあの出来事も、その前の苦い思い出もすべて、あの冷たい川の水が流してしまったように思う。なまえに初めて渡した指輪は結局、もう二度と抜けないようにと首に下げるように提案してみたものの、なまえはあまりいい顔をしなかった。なまえの左手と手を繋いだ時に、己の手の中で転がるあの忌々しい指輪のこと、あのほろ苦い味は、いつの間にか悪くない思い出に変わりつつあった。また、あの冷たい川の中に入って風邪を引かれても困るしな、と途方に暮れていた時に、「指輪サイズ直しに行けばいいじゃ~ん」と気ままなオペレーターが言ったことでそれらは解決することになるのだが、結局どの指に合わせるのかと言う話が浮上し、また悩むことになるのである。

「中指のサイズにしようかなあって。ずっとここに有ったから」

結局、初めて送ったシルバーの指輪が、おんなの左の薬指を彩ることは、初めて指輪を嵌めたあの日の一度きりで、二度ともう嵌ることは無いのだろう。そして、なまえの左手を繋いだ時に手の中で揺れるあの指輪の感覚はもう、無くなるのだ。あの手の中でゆらゆらと揺れる感覚があれば、苦い思い出を想起させるいやなやつだと思っていたのに、無くなったら無くなったで、あの揺れる指輪の姿が無くなってしまったことを、すこしばかり寂しく思うので、自分も大概面倒な人間であるに違いない。「もう四時か」ゲームが終わってしまえば、もう朝はすぐそこに在った。「今日はここで解散だな」「お疲れ」そう言って、己から点数を搾り取りまくった奴らは作戦室から出て行ってしまった。朝にしては早すぎる時間、夜にしては遅すぎる時間の今頃、アイツはまだ、布団の中でやさしい寝息を立てて眠っているのだろうか。こうして、夜の延長を楽しみ、おんなの左手の中指に嵌るシルバーの指輪のことを想う己にも、布団の中で優しい寝息を立てているおんなにも、朝はひとしく訪れるのである。
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