小説

親の仇

 もう、今よりもずっとずっと昔の話だ。父により、ファデュイという組織に入れられてすぐの頃のことである。今思えば、あの頃の自分はまだずっと”若かった”。ファデュイという組織に入り、その兵士たちを力で散々叩きのめしていた己は、一言でいうのであれば”調子に乗っていた”。自身より強い者はまだこの世にはたくさんいるということを、あのほの暗い場所で出会った師匠は教えてくれたのであるが、スネージナヤという国、そしてその国の組織でもあるファデュイの中では、戦闘だけ限って言えば己の実力は上の上の方だと思っていた。自分よりもずっと強い者と戦いたい、そう常々思いながら、使い走りのようなつまらない任務を繰り返していたとある日、ファトゥスであり自分の上司でもある雄鶏から、ある命令を受けた。スネージナヤという国の仇になるだろう人間を消す、いわば汚れ仕事であった。この国はファデュイという組織を使い、外交で相手をうまく言いくるめて国の利を取ることのほうがずっと多かった。しかし、それだけではうまくいかない障害が立ちふさがることがある。しかし今回の問題は国外のことではなく、自国──スネージナヤ──内部の問題であった。ファデュイに多くの献金を行っていた要人が、急に反旗を振りかざし始めたのである。その者は、ファデュイへ献金を行い、それで得た力で自分の私腹を肥やしているだけであるならばそれでよかったものの、この氷神の治める国ごと手に入れようと画策しはじめていたのだった。相手がただわめいているだけであるならば放っておけば良かったのだが、ファデュイという組織が自分の思い通りに動かないと悟ったのか、自費で私兵を集めはじめたのである。流石にこの動きを黙ってみているわけにはいかないと上は判断したのだろう。その”障害”になった者を”取り除く”任務が、組織に入りたての下っ端である己に与えられた命令であった。その命令を実行したのは、夜明けの時間までほど遠い、星のきらめく夜のことであった。”目標”は、この遅い時間に一人散歩に出かけるのだという。「私兵のいない時を狙って殺せば良い、とても簡単なことだ」そう大見えを切って言ったのは記憶に新しい。”目標”が出てくるまでの時間、岩陰に隠れながら星空をすこし眺めていた。「こんな夜に──されるなんて、余りに運が悪いな」その言葉は自然と唇からこぼれ落ちた。きっとこの言葉はスネージナヤの空と、空にきらめく星々と、薄明るく光る月しか聞いていなかっただろう。「今回の実行役はお前だ」そう、同じ任務を与えられたファデュイの兵士──彼が今回の任務の隊長である──は言った。彼は己よりもずっとこの組織に居る人であった。「わかってるよ」隊長に対してぶっきらぼうな態度をとる己を見たほかの兵士は、面倒臭そうな顔をしていた。新人の癖に大きな態度を取る──そう、彼の視線は己に対して言いたげであった。それを無視して、何度も言い聞かされた命令を頭の中で反芻しながら口を開いた。「俺が目標を叩く、そしてアンタたちが死体を処理する。そうだろう?」そう言うと、隊長は無言で頷いた。暫く、その場にとどまっていると”目標”が顔を出した。ただ、聞いていた情報と話が違った。”目標”は、その傍らにちいさな子どもを二人、連れていたのだ。しかしながら、隊長は「行け」とだけ己に言った。「子どもは?」そう問うと隊長はため息をついて答えた。「どちらも”消せ”」己は”目標”だけを消せば良いと思っていた。しかしながら隊長がそう言うのであれば、その子どもも殺さなければならなかった。己がどのような表情をしていたのかは自分ではわからなかったが、気乗りしていない顔をしていたのは、きっと彼らにも透けて見えていたのだろうと思う。「躊躇うか?」そう隊長は聞いてきた。「子どもは悪くないだろ?」そう答えたのであるが、隊長の命令は変わらなかった。
 初めて人を殺した。色々な人と剣や槍を交えることはあったが、人の心臓に向かって刃を入れたのは初めての経験だった。闇夜に紛れて”目標”に接近し、心臓を貫いた。”目標”は、声を上げる間もなく、すぐにこと切れたのであるが、急に倒れた親を見た子どもらは放心して震えていた。子どもの喉が震えたのが見えた時、とっさに首に刃を突き刺した。声をあげられては困る、だから殺す──その一連の行動は、自身でやりながらひどく冷静な動きであった。立て続けに二人の子どもを殺し、残ったのはただのもの言わぬ死体だけである。死んだ子どもの、開いた瞳孔が彼らを殺した己のことをうつろな目で見ていた。親のせいで巻き込まれて死んでしまった子どもたちは、まだ4つの歳を迎えたかどうかも分からないほど、ちいさな子らであった。その子らの顔を見ていると、彼らの顔に、家にいる弟や妹の顔が重なってくるのだ。死体はもう、何も話すことはなかったが、その目は確実に何かを訴えていた。任務とはいえ、殺人を犯した己に罪というものを知らせようとする目であった。己の喉が鳴る。そして、胃から何かが込みあがってきた。ここで口を開けてはならない、そう自分の脳は理解していたのに、体が勝手に動いてしまった。「おい」「汚えぞ」隊長たちがくちぐちに己の吐瀉物を見てそう言った。そしてひとしきり己の無様なところを笑った後で、「フン……ファトゥスに気に入られているのか何なのか知らんが、この程度なら先が思いやられるな」と誰かが言い、あざ笑った。「死体の処理に”コレ”の処理か……最悪だな」「まあ、まだ若いんだから許してやれよ。殺しは初めてなんだろう、”坊や”」そう、彼らが己を罵っていることを知りながらも、己は何も言えずにいた。それから随分時が過ぎた。「死体を見て吐いていたお前がファトゥスなんてな」そう、あの失態を晒した任務の隊長は、己の昇進を祝いながらもそう悪態をついた。人をひとり殺してしまえば後は同じだった。殺人というものに感情と言うものが沸いてこず、いつの間にか、罪の意識を抱くこともなくなった。己に殺されたということは、相手が己より弱かっただけのことである──この世は強いものが勝ち残り、弱い者は死んでいく、残酷な話ではあるがそれが節理であった。そのたびに、より強い者と出会いたいという気持ちのほうが強くなっていくのだ。自分の力に見合った相手が欲しい、そう心の底から願うようになった。



 ファデュイという組織のことを、この国の人間たちはとてもよく知っている──それは表向きの面に関してだけで言えば、の話である。ファデュイが裏で何をやっているかなど、ファデュイという大きな組織の中において知っている者は一握りであった。

「アヤックスもファデュイに入って随分経ったんでしょう」
「急に何さ、思い出話でもする?」

久しく帰っていなかった実家に帰った時、そこには良く知った女がいた。幼少期の頃、己がまだ、師匠と出会う前まではよく一緒に遊んでいた女だった。己がファデュイという組織で年を取っている間に、彼女も同じように年を重ねていた。会うたびに奇麗になっている。しかしながら、それを口に出すことはなかった。己が女に対して想っていることは、絶対に知られてはいけないからである。女は己の家族に混ざって話をしていたのだろうが、ドアが開いた音を聞いて玄関までやってきてくれた。「お疲れさま、お仕事大変なんでしょう」そう女は言った。

「いつものことさ。細かい仕事が多くてね、なかなか」
「この間は璃月のお土産をありがとう。かわいいお人形は早速部屋に飾らせてもらった」
「気に入ってくれたならいいよ」
「アヤックスの贈り物はいつもわたしの好みのものばかりだから、いつか璃月に行ってみたいな」
「はは、いつか連れて行ってあげるよ」
「約束よ」
「ああ、約束だ」

この女は何も知らない。ファデュイという組織がどのようなものであるかも知らないし、己が何をしているのかも知らない。己について知っていることは、ファデュイという組織で莫大な金を稼いでいるということだけであった。「アヤックスはいつもわたしに贈り物をしてくれるでしょう。わたしばっかりもらって、申し訳ないなって」そう女は言った。

「せめてアヤックスが帰ってくる日はごちそうを用意しようと思って。アヤックスのお母さまと色々考えたから、早くテーブルについて」
「せかすなよ」
「早く見てもらいたいのだもの、許してよ」
「いいよ」

女の家は、この世には存在しない。正しくは、”なくなった”のだ。己が最初の任務で障害を取り除いたのと同じように、彼女の両親もまた”消された”。女はそれを知らなかった。両親が原因不明の事故に遭った後で家が火事になったのだと女は言っていた。女の両親を”消した”のは己であったし、女がいない時間を狙って火をつけたのもまた、己であった。それもまた、この女は知らないのだ。家を失った女は、現在この家に住んでいる。己の家に引き取られる前は、召使のところに引き取られる予定であったが、女の監視は己がやると手を挙げたのだ。召使は疑り深い目をして己を見ていたが、その視線は無視した。「古くからの知り合いだからね」そう言うと、召使は好きにすると良い、とだけ言った。この女から両親を奪ったのは間違いなく己であった。しかしながら、この女が他の誰かの監視下に置かれたくないと願ったのは、正しく己自身であった。女ときょうだいたちに贈り物を渡した後で食卓についた。女が言う通り、テーブルの上には己の好きなものが沢山並んでいる。

「アヤックスありがとう。いつも貰ってばかりで申し訳ないな」
「別に、気にしなくていいよ。贈り物は十分貰ったしね」
「そんなに気に入ってもらえるとは思わなかった。でもアヤックスのお母さまと頑張って準備した甲斐があってよかった」

そう女は言った。夕食を終えた後、部屋のソファに座っていた。弟や妹たちを寝かしつけ、両親が寝入った後でこの部屋にいるのは己と女の二人だけだった。柔らかい明かりが静かに灯っている。

「アヤックス、相談に乗ってくれる?」
「いいよ、俺にできることなら」
「わたしをファデュイに入れてほしいの」

女が大真面目な顔をしてそう言うのを聞いたときに背筋がすっと冷えた。頭から真冬に冷水を掛けられた時のような感覚である。己が何も言わずにいたせいか、女は己の顔を覗き込んで、「アヤックス?」と名を呼んだ。「……ダメだよ」そう、出来るだけ優しい声でそう、言ったつもりだった。この女の両親殺しが知られてしまうことに恐怖を覚えたわけではない。この何も知らない女を、ファデュイという組織の色に染めてはならないと思ったからである。この女は何も知らないまま生き、何も知らないまま己の目の届く場所で往生してくれればそれでよいのだ。……よく考えれば、監視下に置かれているこの女がファデュイに入ることなど許されるわけがないのだから、この女が泣きついて己に乞うたところで叶えられる願いではなかったのであるが。

「どうして?アヤックスはファデュイの中でもえらい人なのでしょう、なら……」
「絶対にダメだよ」
「どうしたの、そんなに怖い顔して……」

女はそう、己の目を見て言った。

「怖い顔?」
「そう。まるで人殺しのような、怖い顔」

女のその言葉がひどく心に刺さった。確かに己は人殺しである。いくら上官の命令であるとはいえ、たしかに人を殺しているのだ。この女の両親だって己が殺している上に、家に火まで放っている。女は冗談のつもりで言ったのだろうが、この女の言うことは正しかった。何も知らない顔をしておきながら、鋭いところがある、そう思った。「……まさか」そう、震える喉から無理やり絞り出した声はひどく情けなかった。女は不思議そうな顔をして己を見ていた。「いや、なんでもないよ。この話はこれでおしまいだ」そう言うと、女はひどく不服そうな顔をしていた。「わたしばかり世話になっていて……わたしに返せるのなら、恩を返したいだけなのに。少しでも役に立てるなら……」そう女は震えた声で言った。女の顔はひどく悲しそうで、今にも泣きだしそうであった。女のそばに歩み寄り、彼女の体を抱き寄せた。女の肩は震えていた。この女は、親の仇でもある己に体を預け、恩を返したいと言ってこうして震えて泣いているのだ。この女を見ていると、少しずつ己の心に背徳感がじわじわと滲み出てきた。しかしながら、それは罪の意識などでは全くなく、この女の頼る相手が己しかいないことへの優越感であった。「いいんだ、君が気にすることじゃない。俺は君がこの家に居てくれるだけで嬉しいよ」そう言い、女の涙を指先で掬った。女の涙を掬う資格が最も無いはずの己がこうしていると思うと背筋がぞくぞくした。そんなことを露ほども知らない女は「アヤックス……わがままを言ってごめんなさい」と謝った。「いいよ」そう言った時の己がどのような表情をしていたのかを知るものは、この世には誰もいないのである。
2023-10-26