小説

※グロテスクな場面があります
 「刃さま」そう己の名前を呼んでついてくるこの女を助けたのはただの気まぐれであった。己の気まぐれのせいで、この女はこうして自分に懐き、ついて回ることになったのであるが、当初はまさかそんなことになるとは微塵も思わなかったのである。この女はひどく純粋で、仕事を欲して羅浮を彷徨い歩いていた時に、悪い大人から身の危険があることを知らされないまま、大きな仕事だと唆されてひどく危険なな仕事を渡されたのであるが、女は純粋すぎるが故に全くそれに気づかないままその仕事を引き受けたのである。与えられる収入が、この地域の平均額よりもずっと高いものであった。その時点でよくない仕事であると気づいても良さそうなことではあるのだが、背に腹は変えられないと思ったのか、この女が単純に馬鹿者であったのかは定かではないが(この女の様子を見る限り後者であろうことは、この女の情けない顔と、星核ハンターであり指名手配中であるというのに全く気づいている様子もないこの女を見ていれば自ずとわかるものである)、後々女に問うてみたときにこのような貧民のわたしに重要な仕事を任せてもらえるなんて、なんと親切な人なのだと心の底からそう信じていたのだと言うのだから、己の思った通り大馬鹿者だったのである。
 女は羅浮から遠く離れた方舟へと生きるための戦術なども持たない状態で、仕事場である舟に身汚い格好をしたまま向かっていた。周りの人間たちがひりついている空気感にも気づかないまま、女はひとり歩いていたのである。貧民のひとりやふたりがそのような場所に行こうとも止めようとする人間など一人もおらず、女は何も知らない状態で魔物に出会って怖気付いた頃にはもう遅かった。魔物から一閃貰えばこの女の命は今頃とうに尽きたであろう。魔物が動くよりも先に、女のことを眺めていた己の手のほうが先に動いた。魔物を倒した後、「何故仕事を受けた?」と問うた時に初めて話の詳細を聞いた。そして、すぐにここから離れるようにと言ったのであるが、女は「仕事をしなければならないのです」と言って聞かなかった。そのまま放ったらかしにしておけばよかったものの、その時の女の目が酷く純粋で、まるで過去の自分自身を見ているようであったせいかこの女に助力してしまった結果がこれだった。名前を教えて欲しいと言うので呆れながらも一言だけ名乗ると、それ以降は「刃さま」と言って纏わりついてきたのである。その女のことを煩わしく思い、また怖い思いをさせてやれば女は自ずと離れるだろうと思ったのであるが、そうしなかったのは己の意思であった。この女を見ていると過去の自分を見ているようで切り捨てるに捨てきれなかったのである。己について回って離れない女を見たカフカはそれを面白そうな顔して見て「刃ちゃんの新しいペットかしら」と言って笑っており「飼うなら最後まで責任を持たなきゃ」と言って女に身綺麗な服を着せるように言い、女に服を与えた。この女は新しく与えられた服を着た後で「こんな素敵な服を着るのは初めて」と言って目を細めて嬉しそうにしていた。女の服の趣味が分からなかったのでカフカに全て任せたが、身汚い女のままでいるよりはずっと良かった。この女のことを煩わしく思っていたのにも関わらず、こうして喜んでいるさまを見ると悪くないと思うのは、カフカの言うところのペットに対する愛着が沸いているからなのかとも思ったが、その考えはすぐに払拭した。己がそのように思うとは考えられなかったからである。少なくとも羅浮から出ていくことになった後ではこの女のことを気にすることもなくなるだろう、そう思いしばらくはこの女の好きにさせていた。「刃さま」そう話しかけてきてはこの女はどうでもいいことを口にした。花が綺麗だった、というような女の好きな話ばかりをすることもあれば、羅浮以外の星はどのようなところがあるのですか、と問うてくることもあった。それら全てに対して無言でこの女の顔を見るだけであったとしても女は満足そうな顔をしていた。すぐにいなくなるものだと思っていたが、この女はそこのところが強かで相変わらずずっとついているのである。



 己のいく場所すべてに、この女ははついてくる。羅浮から離れ貨物船しかやってこないこの区画は、この女と己が初めて出会った場所であった。人気のない区画を歩いていると、女は「ここは……」と言い少し怯えたような目をしていた。自分がいつ殺されるかも分からない状況に陥った場所だったのだ。女がそのような顔をするのは当然のことである。貨物と貨物の間、人の気配も、魔物の気配も一切ないこの場所で己は足を止めた。「刃さま?」そう女は不思議そうな顔をして己の顔を見上げていた。まるで、これから自分がどんな目に遭うかすら想像できていないような、ひどく純粋な表情であった。その女の阿呆面を見下ろしながら、己は剣を抜いた。そして、女が目を丸くするよりも早く、その剣を女の腹に刺した。女は何が起きているのかわかっていない様子で己の顔を、怯えた顔をして見上げていた。痛みに耐えられなかった女が膝をつき、へたり込んだ。「痛い……」そう、女はか細い声でそう呟いた。「お前は……」そう、女に問う。「お前は死ねるのか」そう問うた時、女は痛みを堪えながら、何が起きたのかすらわかっていないような顔をして己の顔を見ていた。いつでも呑気な阿呆面をしているこの女も、自分に起きている状況を理解したのか瞳を閉じ、歯を食いしばって痛みに耐え続けていた。剣の刺さったところから、女の赤黒い血がじわじわと服に染みていく。カフカに買ってもらった身綺麗な服が、自分の血で汚れでいくのを見た女は「せっかく、買ってもらったのに汚してしまって……」と見当違いのことを言っていた。今一番心配するべきなのは自分の身のことであり服のことではないのは明らかである。「この刃を少しでもずらせば、お前は死ねる」そう、女に言った。女にとってその声がどのように聞こえたのかは分からないが、女の唇がうすらと開いた。「刃さまは、わたしを殺しますか」そう、息も絶え絶えに細切れな言葉を紡いで女は言った。「……」その質問に己は答えなかった。「わたしが死ねる、なんて……刃さまはまるで死ねないみたい」そう、女はか細い声で言った。もうこの女は痛みに耐えるだけでも限界であろうと言うのに、そう己に語りかけてくる。そうだ、この女の言う通りであった。己は死ぬことができない、いつ死ぬことができるのかと考え続けるのにも疲れ果ててしまうほどには、そのことをずっと考えてきた。しかしながらその時は未だ訪れることはない。しかしこの女が感じている死に際に等しい感覚だけは、己の身体はよく覚えていた。死の感覚、人が生涯に一度しか味わうことがないだろうこの味を、己は何度も味わっている。「……」口を開くこともできなくなった女に刺した剣をほんの少しだけずらした。これ以上死に際の苦しみをこの女に与えることに何の意味もないからだ。女は「可哀想なひと」とだけ言った後目を伏せ、腹から赤黒い血を流し、倒れた。女の身体は彼女自身の血の中に溺れるように沈んでいった。女は事切れていた。正しくは、己がこの女の命を”奪った”。煩わしいほどにやかましく付き纏っていた女も死んでしまえば随分静かなものだった。この場所にいるのは、己が一人と、殺した女の死体が一つだけである。己は目の前の女の死体をそのままにして帰ろうとしたのだが、「ペットの面倒は最後まで見なきゃダメよ」と言っていたカフカの言葉を思い出し、そこにとどまった。女の死体に己の纏っていた白布の一部を切って、この女の腹の傷口に巻いた。もう既に事切れた女に死体にこのようなことをするだけ無駄であると言うことはわかっていたが、それが最期にできるこの女に対する面倒だと思ったからである。布を巻いた後、女の死体を、できる限り優しく抱き上げ、方舟の端に立った。この女の住んでいた羅浮の文化の葬儀をしてやるのが一番だろうとは思ったが、今の己にそこまでしてやろうと言うほど、この女に対する情もなかった。抱き上げた女の死体から手を離すと女の死体は底の方へと落ちていった。女が落ちた先に何があるかは分からない。そのままこの宇宙を漂う塵になってしまうかもしれないし、誰かが見つけることがあるのかもしれない。ペットの最期を見届けた後で己にできることはもう、これ以上何もなかった。あの女は死ぬことができたのだ。己よりもか弱く、何もできなかったあの女は、己が唯一成すことの出来ない死というものを迎えることができた。そう思った時にふと己の死に際のことを考える。死ぬのであればどのような死に方を迎えるのが理想であるのか……それを考えた後で、考えるだけ無駄であると思い考えるのをすぐにやめた。少なくとも、自分の信じた人間に裏切られて死ぬような、この女のような末路だけは辿りたくはないだろう。この女の生涯というものは誰の目から見ても悲惨なものであり、その最期すらこの有様である。そう考えた時に己もこの女も似たようなものだろうと思い自嘲した。女と出会ったあの日見た、過去の己との対面をしているような気持ちを思い出した。過去の己が今の己を見たらなんと言うか、きっとあの女を見た時に自分が抱いた感覚と変わらないものをきっと抱くのだろう。数多く殺してきた人間の中にただこの女が入っただけだと言うのにどうにも後味が悪い。人を殺すこと自体にもう何も感じないと思っていたはずなのに、この女を殺めた事実だけが重荷になって心をじわじわと蝕んでくる。あの女を殺せば過去の自分と決別することが出来るかもしれないと一瞬たりとも思った己が居たのも事実だった。その結果はこのありさまである──妙に後味が悪いのは、殺したのがあの女だったからそのような感情を抱いたのだということは、認めがたいことであったが事実には変わりなかった。
2023-08-02