小説

御草草

 このおんなに百の良いところがあるとするのであれば、当たり前のようにこのおんなにもあまり良いとは言えないところが幾つか存在する。それもまた可愛く見えるのはとうに己の目が可笑しくなっているのかも知れぬ。恋は盲目、あばたもえくぼ、言ってしまえばそのようなものなのだろう。なまえというおんなはパニックを起こした時に限って取り返しのつかないようなことをやらかす。緊張故に答案用紙に名前を書き忘れて、本来であれば落ちる理由などないだろう試験に落ちてしまったことなどが最も顕著な例である。ちょっとした可愛いドジであればそれもまた愛嬌で可愛らしいものであるに違いないが、なまえの場合はちょっとした可愛いドジでは済まず、結果的に大怪我をしているように思う。

 防衛任務終了後、作戦室に戻る最中に慌てた様子で電話をしている嵐山とすれ違った。嵐山に会釈をして別れようとしたときに、背中をつつかれた。いそがしい嵐山の口は、相変わらず電話口の方を向いている。嵐山という男がそれなりに忙しい男であることは承知だが(彼は定常業務以外にも広報の仕事もしているボーダー隊員である)、そんな嵐山でも、己でも口というパーツは平等に一つしかない。電話に口を取られ、己に使う口は余っていないからか、嵐山は手で謝罪のポーズを作り、ボーダーの支給端末をポケットから引っ張り出して文字を打って、画面を己に向けた。"すみません、みょうじさんが困っているみたいで"そう、書かれているのを見て嵐山の顔を見た。嵐山は己となまえの間に何があったのかと問うような顔をしているのであるが、嵐山が問うような解答となり得ることに心当たりはなかった。最後になまえと対面で会ったのは、ドライヤーを購入しに行った日であるが、その後己となまえは、短いメッセージのやり取りを何往復かしている。先日買ったドライヤーがそこそこ調子がよくて買って良かったという話をしていただけのことで、なまえが怒ったとか泣いたとか、はたまた己がなまえに何かをされたということは無い。「みょうじさん、どうしたんです」嵐山が個人で持っている端末から、なまえの声が聞こえるが、何を言っているかまではさすがに聞こえなかった。話し中の嵐山を、この場所から近くにある自分の作戦室に連れて行く。ドアを開けてすぐに「悪ィ」と、すでにくつろぎモードに入っていた隊員たちに言えば、彼らはあまり良い状況でないことを悟ってくれたのか、それぞれ顔を見合わせたのちに、堤に促される形で作戦室から外へと出て行った。作戦室に、己と嵐山のみがいる状態となったときに、嵐山が通話をスピーカーに切り替えた。電話口とは違う、なまえの籠ったような声と、時折、鼻をすするような音が聞こえた。「もう、わたし洸太郎に会えない」「喧嘩でもしたんですか?」「ねえ、どうしよう、もう、わたし、洸太郎に嫌われちゃう」なまえが一方的に喋って、嵐山が困ったようになまえに呼び掛けている状況だった。「みょうじさん、ちょっと」困り果てる嵐山には申し訳ないが、こう、パニックを起こしてしまっているなまえと言うおんなには何を言っても無駄で、とりあえず一度落ち着かせないとお話にならない。下手したら、嵐山に電話を掛けているという自覚すらない可能性だって有る。「こりゃ無理だな」他人事のように喉から出た声に、嵐山が怪訝そうな顔をして己を見た。"何かあったんです?"そう、嵐山が、端末に文字を打ち込んで見せた。全く、自分自身に心当たりがないため、首を横に振った。電話口の向こう、かすかに車のエンジン音が聞こえた。「ねえ、わたし」電話口のなまえは泣きながらそう言っていた。ばしゃばしゃと跳ねるような音が聞こえるばかりで、要領は得られなかった。「今どこにいるんです」「橋、橋から」「橋ィ?」電話口の嵐山よりも先に、己の口から言葉がそう飛び出した。「もう、……」ばしゃん、ひときわ大きな音が聞こえた瞬間、通話が切れた。この場に残るのは、おとこ二人と無機質な通話終了音のみであった。

 三門市を分断する川というのは長く、橋の数もそれなりに在る。疲れているだろうに、嵐山も手伝ってくれるのだという。一人ではさすがに限界があったため、今回ばかりは嵐山の言葉に素直に甘えることにした。嵐山は道もう一本先の橋の方を見に行ってくれるのだという。トリオン体を破棄していなかった嵐山は、「諏訪さんの方にもいなかったらもう少し先の方も見に行きます」と言ってすぐに出て行ってしまった。任務終了後にトリオン体を破棄してしまっているため、すぐに換装することは出来ない。文句を言っている場合では無いが、生身で走らざるを得ないことについて、今ほど都合よくトリオン体が有ればと思うことは滅多に無いだろうと思う。連絡通路から外に出た時に吹き込んだ風に、自然と身が縮こまる。暦の上では春先とはいえ、未だコートを脱ぐことができないくらいには冷えている。まだ真冬だと言っても納得するほどの寒さの中、旧弓手町駅そばの比較的大きな大きな橋のほうへと向かう。警戒区域からほど近い場所にあるせいか、このあたりは人の姿がまばらだった。自分の足で、旧弓手町駅前を通りかかったころ、己の端末に着信告げる音が響いた。どうやら、嵐山は途中で迅を捕まえて探し人の場所を聞いてきたらしい。どうやら、己の居る場所が当たりで間違いないようである。「暫くしたらそちらに向かいます」と簡潔に言って、嵐山からの電話は切れた。橋、橋ねェ……なんでまたこんなところに。たしかに、なまえの行動圏上にある橋というのは、旧弓手町駅ちかくの橋くらいしか思いつかないが、なまえの家は橋から駅側の、警戒区域から離れた第三中学校寄りの方であるし、あの橋のそばにいること自体が随分と珍しい。

 橋の下に人の姿が見える。釣りに出るにしては服装が軽装すぎるし、川泳ぎにしては、時期が早すぎる。それに、今日は身体の芯から冷えるほどに寒い日である。相当寒中水泳が好きでたまらないという相当奇特な人でもない限り、そんな寒い冬の川に入ろうとは思わないだろう。向こう岸とのちょうど間のあたり、川幅にしては水深は浅い方だろうが、腰のあたりまで水をかぶっているのが遠目でも見えた。この真冬に寒中水泳をしている馬鹿こそ、自分の探していた人間であった。岸から、おんなの名前を呼んだ。車通りも、人通りも少ないこの場所で、己の声はやたらと響くのであるが、あのおんなにはどうも聞こえていないようであった。川底の方をずっと見たままで、陸地側のこちらの方なぞ見向きする気配もない。おんなが上がってくるのをぼんやり待つなど考えるまでもなく、己は履いていたズボンの裾を捲り、着ていたコートは一旦脱ぎ捨てて片足を、川の水の中に突っ込んだ。「冷てェ」思わず声が出た。コートを脱いだせいで首筋に吹き込んでくる冬の風が余計に冷たく感じられる。きっと、水の冷たさにやられて皮膚も赤くなってしまっているに違いない。片足ずつ川の中に足を踏み入れた。おんなの居る場所まで歩いてしまえばきっと、裾を捲った意味なぞ無くなる程、服はびしょびしょになるのだろう。川の水というものは、夏であっても冷たい。当然、冬なのだから寒いに決まっている。己の体を冷やすには十分過ぎるほどである。水に一度触れてしまった皮膚が、ふたたび外の空気に触れるたびに背筋が震えそうになる。しかしながら、一度濡れてしまえば空気中に触れるより、冷たいと思う水の中に居た方がほんの少しばかり暖かいように感じる。川底の、決して良いとは言えない足場を、一歩一歩着実に歩を進め、おんなが体の半分を沈めている場所まで歩いた。結局、己も腰の下あたりまで川の水でびしゃびしゃにしてしまい、裾を捲り上げた意味なぞすっかりなくなってしまった。「なまえ」おんなの名前を呼び、川の水に触れたせいですっかり赤くなっているおんなの左腕を取って初めてようやく、おんなは己の存在に気づいたようであった。目を丸くして己の顔をまじまじと見た後に、なまえは寒さで青くなった唇をゆっくり動かして、「洸太郎」と己の名前を呼んだ。「おう」おんなの目にじわじわと水膜が張った。このおんなの、泣き顔と言うものは矢張り苦手だった。「何してんだ」「やだ、放して」「あぶねえだろうが」「やだ、だって、指輪が」「指輪?」川の水に浸かって赤くなってしまったおんなの左手、中指はかじかんだ指があるだけである。手をつないだ時に、己の手の中で揺れるあの忌々しく転がるもの、己に苦い味をもたらすものはそこには無い。おおかた、あの橋の上に居る時に指から抜けて落ちて川に転がって行ってしまったのだろう。

「また買えばいいだろ」
「……また?」
「風邪引く方が問題だろうが」
「またなんてあるわけないでしょ!」
「おいお前なんで怒ってんだよ」
「洸太郎が馬鹿なこと言うからだよ!洸太郎が初めてわたしにくれた指輪なんだから初めてに二度は無いんだよ!」
「……悪かった」
「わたしも怒ってごめん」
「いい。ただ、クソ寒いのにクソ寒い川に入ったことは反省しろよ」
「……」
「返事」
「……」

おい、と言ったところでなまえは何も言わなかった。「……見つからなかったらどうしよう」そう、小さな声でぼやいているのが聞こえた。川の流れは緩やかであるとはいえ、この場所から下流の方へと流れて居ない保証は無い。運が良ければこの川底のどこかにあるのだろうが、砂金でも探すかのような労力が必要に違いない。「諏訪さん、みょうじさん」遠くから、己の名を呼ぶ声が聞こえる。先ほど、合流すると言った嵐山が、岸に立っていた。足元に、大きなカバンを転がしているあたり、こうなることは察していたのだろう。彼の着る赤い隊服は良く目立つ。「風邪引きますよ」ごもっともである。叫んで会話する己らを、なまえが目を白黒させながら見ている。

「嵐山くん、なんで」
「お前が泣きついたからだろ」
「泣きついてないよ」
「お前が電話したの誰だよ」
「助けてほしくて電話帳開いて……」
「おい」

おおかた、パニックを起こしたなまえが電話帳を開いてすぐ、誰が表示されているかさえも見ずにそのまま通話ボタンを押したのだろう。幸か不幸か、なまえの電話帳の一番上に登録されていたのが、ア行のちょうど任務終わりで携帯を触っていた嵐山だった。「後で嵐山に謝っとけよ」「……友達やめるとか言わないかな」「嵐山に聞けよ」「……洸太郎」「一緒に行ってやるから」「うん」嵐山が任務中であればなまえの電話に気づかず、なまえが川の中に居ることを己が知ることもなかっただろう。それを考えれば運がいいと思う方が良かったのだろうと思う。「対岸側から数えて三つ目の橋脚、下流側です」「悪い」嵐山に言われた通りに、対岸側から数えて三つ目の橋脚、下流側の方へと歩く。己の腕を握っているなまえに、お前は先に上がれと言ったが、このおんなが言うことなど聞くわけもなく、二人仲良く川の中を歩く羽目になってしまった。橋脚の影になっている場所に、水面とはちがう一際明るい光が一瞬だけ見えた。それに向って手を伸ばす。腰まで濡れてしまえばもう、全身濡れようが半身濡れようがもう変わらないだろう。拾い上げたのは、良く見知った指輪だった。あの、忌々しい苦い味のする指輪に違いない。己が、見間違えるわけがないのだ。目の前のおんなに贈りたいと思って買った指輪のことを、そして、随分と苦い目にあわされた指輪の、忌々しいデザインを見間違えることなぞ有りえない。

「ほら」
「……洸太郎」

銀色に光るシルバーを、なまえの左の中指に嵌め直した。もう落とすなよ、と言う前に、なまえがこちらに向ってとびかかってきた。指輪を探すのに夢中になっていたせいで互いに忘れがちになっているが、ここは川で、慣れない川底に立っている。陸地であれば抱きしめたままくるりと一回転して着地、くらいはできたのだろう。もうすでに、言い訳に過ぎないが──このような場所であるが故に、二人分の体重を支えようとしたのであるが、そのまま川底に足を取られてしまい、飛んできたなまえの体を抱き止めるような姿勢のまま、己となまえは仲良く冷たいの川の中に沈んだ。
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